朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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五百川峡谷ビューポイント。リンゴ畑に囲まれた校庭を進んだ眼下に、大きく曲がりうねった最上川を挑める。翠碧の川面は四季折々に美しい表情を見せる。
  撰/川勝節子さん(大江町)

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※無断でりんご園に入らないようお願い致します。

 豊龍公園のある経ヶ崎は、豊龍館(ほうりゅうたて)のあった場所です。戦国期の鳥屋ヶ森城主(館山)岸美作守の館と考えられています。

鳥屋ヶ森城跡
豊龍神社
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撮影場所
能中経壇からの風景
 福昌寺は、永禄元年頃(1558年)、館山鳥屋ヶ森城主岸美作守義満の菩提寺として鳥屋ヶ森根小屋に創建されました。しかし、戦国期の五百川合戦により最上義光に滅ばされ焼失します。後に三本木に寺を再建し、熊野権現社地が開拓された天正17年(1589)に現在地に移りました。境内には岸美作守義満の墓碑があります。
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 甲斐の武将武田家を先祖とする雲沢寺は、慶長5年(1600)送橋に一寺を建立したのが草創とされます。
 寺伝によると、宝徳元年(1449)武田信玄の祖父の弟にあたる武田信安が出羽に下向し、最上氏により山辺町高楯城主となります。信安17歳の時、水利の便が悪いことを知り玉虫沼を築堤しますが、水源地となる周辺一帯は鳥屋ヶ森城主岸氏(朝日町新宿)の所領であったため自領だった末吉良村(朝日町宮宿元町一帯)と交換しました。
 文明3年(1471)最上義春の命により葦名戦争に参加しますが大敗します。信安は人生の無常を感じ仏門に帰依し、鬼の目山谷に草庵を建立し戦没武士の菩提を弔いました。これが山辺町の了広寺です。
 そして慶長5年(1600)、了広寺四世西心法師が住職を長男宋賢にゆずり、三男宋察を連れて送橋村に来て雲沢寺の草創の一寺を建立したのです。その後、宮宿に再建しましたが宝暦7年(1757)と明治10年(1877)に大火に見舞われ全焼しました。送橋の経塚に仮堂を建てて8年ののち、宮宿森林(旧宮宿中学校跡 緑ヶ丘)に移り、その後現在地に再々建となりました。
 浄土真宗大谷派。ご本尊は阿弥陀如来。総高60センチ肩幅22センチの立像は寛永16年(1639)の作と伝わります。
※抜粋 / ふるさと朝日町散歩(長岡幸助・朝日町広報委員会)
※本堂見学は直接お問い合わせ下さい。
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 別当柴田七郎兵衛氏の記録によると、宝永年間(1704〜1710)に再建されたと伝わる太子堂は、元は朝日岳信仰の参道で六反の渡しがあった清水に建立されていたそうです。明治20年(1887)頃に、稲荷様が祭られていた現在地に再建されました。また、後に阿部文作氏寄進による弘法大師像も祭られました。江戸初期の製作とされる聖徳太子像を中心に稲荷様、弘法大師の三体が合祀されています。
※抜粋/『ふるさと朝日町散歩』(長岡幸助・朝日町広報委員会)
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 鈴木酒造は、朝日銀山の歴史とともに創業した300年の歴史を誇る県内一小さな酒蔵です。松嶺藩の令官小笠原左衛門佐源経政を先祖とし、四代鈴木和泉経元は四の沢堰開削に尽力しました。屋号は「以津美屋」通称「マルシメ」。機械化も最低限で、もろみの温度管理や仕込み時期は、もろみの音を聞いて判断する昔ながらの製造法を続けていらっしゃいます。
 昭和47年に共同ビン詰めによる合理化と品質向上のため(株)設楽酒造店(西川町)(株)八幡屋酒造店とともに、月山酒造株式会社(寒河江市)を設立しました。代表銘柄に「銀嶺月山」や「豊龍」があります。

※見学は年に一度開催される見学会へどうぞ。詳しくはエコルームまで。
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おらほの地酒!朝日町の酒蔵を訪ねる (見学会H16)
フォトギャラリー(PC)

 
 火伏、盗難よけ、安産の神様として親しまれている宮宿栄町の伊豆大権現神社には、樹齢およそ700年とされるご神木のエドヒガン桜があります。4月22日のお祭りは、のぼり旗を上げだんごやゆべしの店も出され賑やかです。毎年花の季節には地元有志によりライトアップも行われています。

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伊豆大権現神社
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 伊豆国の伊豆大権現(静岡県熱海市の伊豆山神社※明治に改称)の分霊を勧請したとされる。創建年代は不詳だがご神木のエドヒガン桜の樹齢はおよそ700年とされる。ご神体には「伊豆大権現一宇為□□、万年豊穣、安全火盗消除、宮宿村、鈴木長吉」他の御神札には「奉勧進伊豆大権現、諸大眷属開眼、降魔□□、慶応三年丁卯年」と墨書されている。
 例祭は4月23日(旧暦3月15日)。火伏、盗難よけ、安産の神として厚く信仰されている。
※『ふるさと朝日町散歩/長岡幸助氏』より抜粋

伊豆大権現の種まき桜
静岡・伊豆山神社
※伊豆山神社ご神徳
一切の生物の親神として、生命の充実、発展の御守護を土台として、国の護り、産業、事業、経営の護り、良縁の護り、 殊に禊道、錬成の御導きの御神威は著しく、火防鎮火、温泉守護の御神徳弥高くまします。

 平成10年、町の新しい産業創出を願い南アフリカから9羽のダチョウが輸入されました。寒暖の差に強く、飼育による環境負荷もなく、遊休農地の有効利用にもなっています。ダチョウの肉は、低脂肪・低カロリーなのに良質なたんぱく質や鉄分が豊富に含まれており、健康志向の現代にマッチしたヘルシー食品です。また、生食のほか加工食品や脂肪を使った石けんやクリーム、皮革製品も販売しています。展示團では常時50羽から100羽が放牧されています。
(有)山形朝日オーストリッチ産業センター TEL 0237-67-3101
→参考サイト ペロリンが行く(おいしい山形)
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 大谷集落の南西方向に標高247.5mの真木山があります。大江、伊達、最上の三勢力が争う戦国時代、ここは真木山城とよばれた城であり、東方にある秋葉山楯、北東の位置にある猿田楯とともに敵からの攻撃に備えました。
 天正12年(1584)血縁関係にあった大江高基が最上義光により滅ぼされた時、城主大谷彦次郎元秀は平塩池之坊に婿養子として亡命します。家臣達は農民となり大谷党を組織し時勢の訪れを待ち続けました。
『大谷郷』より抜粋
※登山不可。秋葉山交遊館から見て西の山です。
真木山と大谷の周辺風景
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秋葉山エリア(大谷)

 椹平の棚田は、平成11年(1999)農林水産大臣が、棚田の持つ多面性を評価しその維持保全を図ることをことを目的として全国から募集した「日本の棚田100選」の認定を受けました。
 面積はおよそ14ha。およそ190枚の水田を有します。東側には最上川の悠々とした流れが、眼下100mに見られ、北川にはひめさゆりの群生地で知られる一本松公園があります。また、最上川の五百川橋や周辺の山々、能中集落との調和のとれた風景は日本の農村の原風景そのものです。
 水は、八ッ沼の西側奥を流れる油子沢から取水し、トンネル2本と水路により、いったん春日沼に水をため、そこから椹平まで隧道で水を通し水田にしました。現在は水量の安定を図るため、最上川からも取水しております。
 椹平は戦後までは田畑でした。当時の日本は食糧難で、国は食料増産を国策としておりました。そんな中、昭和16年椹平と元能中の畑地を開墾する計画が起こり、三中地区土地改良区をつくり開田工事に入りました。現在のような建設機械はないため工事は大変でした。また、当時の国策で大変なことなので、小学生も工事を手伝いました。
                          (記/宮本建一)

棚田の玄米菓子
棚田とヒメサユリ見学会(PC)
夏草三中堰と棚田見学会(PC)

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 標高224.6メートルの秋葉山は、戦国時代には本城である真木山城の出城として、曲輪・空堀・堀切など中世の城館跡の遺構が明瞭で、歴史的にも貴重な文化遺産となっています。平成10年に北部地区の文化拠点として山頂まで遊歩道等が整備され、子供も高齢者も容易に登ることができるようになりました。学び・見る・遊ぶ場所として利用されています。
『大谷郷』より抜粋

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※秋葉山グラウンド北側駐車場(右側)から登れます。山頂まで10分。途中には山ノ神社や稲荷神社が祭られています。
フォトギャラリー(PC)
秋葉山エリア(大谷)
 延享4年(1747)二代鈴木清助が山頂に秋葉神社を創建したことから、以後この山を秋葉山というようになりました。秋葉神社は古くから火伏せ、商売繁盛の神として周辺村々の厚い信仰をうけてきました。頂上西側下には奉納相撲を行った跡が見られます。明治40年(1907)7月に神社焼失しますが、同43年(1910)1月に再建しました。その後、社屋の破損がひどく昭和59年(1984)に解体、ご神体は鈴木家の土蔵に安置し跡地に記念碑を建立しました。
『大谷郷』より抜粋

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※秋葉山の山頂です。
秋葉山エリア(大谷)
 秋葉山山頂に『大谷往来』の全文を表した説明板が建てられています。『大谷往来』は、元禄7年(1694)大谷村の彦七が記したもので、自然豊かな大谷の四季を順序よく的確に美しい文章で書き表しています。しかも短い文章の中で名所旧跡や神社仏閣、動植物、特産品など、300年前の村の様子が一目で分かり、『大谷往来』は、まさに元禄のエコミュージアムといえます。
『大谷郷』より抜粋
『大谷往来』全文
大谷の皆さんのお話
大谷往来の風景について
彦七は風和かもしれない
大谷往来には節があった
『大谷往来』について

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秋葉山エリア(大谷)
 戦国時代、大谷集落の南西方向の真木山に真木山城(写真左)があり、秋葉山(写真中央)は森山と呼ばれ、猿田楯(写真右)と共に敵からの攻撃に備える出城(楯)となっていました。弓の矢に使ったといわれる矢竹は今も自生しています。真木山城大谷家は血縁関係にあった大江家が天正12年(1584)に最上家に滅ぼされた時、最上家に仕えるのではなく農民として土着する道を選びました。
※写真は用山山頂から見た秋葉山
『大谷郷』より抜粋
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秋葉山エリア(大谷)