朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
ログイン
メモ メール アンケート カレンダー ブックマーク マップ キーワード スペシャル プロジェクト
 延享4年(1747)二代鈴木清助が山頂に秋葉神社を創建したことから、以後この山を秋葉山というようになりました。秋葉神社は古くから火伏せ、商売繁盛の神として周辺村々の厚い信仰をうけてきました。頂上西側下には奉納相撲を行った跡が見られます。明治40年(1907)7月に神社焼失しますが、同43年(1910)1月に再建しました。その後、社屋の破損がひどく昭和59年(1984)に解体、ご神体は鈴木家の土蔵に安置し跡地に記念碑を建立しました。
『大谷郷』より抜粋

アクセスマップはこちら
※秋葉山の山頂です。
秋葉山エリア(大谷)
 秋葉山山頂に『大谷往来』の全文を表した説明板が建てられています。『大谷往来』は、元禄7年(1694)大谷村の彦七が記したもので、自然豊かな大谷の四季を順序よく的確に美しい文章で書き表しています。しかも短い文章の中で名所旧跡や神社仏閣、動植物、特産品など、300年前の村の様子が一目で分かり、『大谷往来』は、まさに元禄のエコミュージアムといえます。
『大谷郷』より抜粋
『大谷往来』全文
大谷の皆さんのお話
大谷往来の風景について
彦七は風和かもしれない
大谷往来には節があった
『大谷往来』について

アクセスマップはこちら
秋葉山エリア(大谷)
 戦国時代、大谷集落の南西方向の真木山に真木山城(写真左)があり、秋葉山(写真中央)は森山と呼ばれ、猿田楯(写真右)と共に敵からの攻撃に備える出城(楯)となっていました。弓の矢に使ったといわれる矢竹は今も自生しています。真木山城大谷家は血縁関係にあった大江家が天正12年(1584)に最上家に滅ぼされた時、最上家に仕えるのではなく農民として土着する道を選びました。
※写真は用山山頂から見た秋葉山
『大谷郷』より抜粋
アクセスマップはこちら
秋葉山エリア(大谷)
五百川峡谷ビューポイント。「元禄時代に書き綴られた『大谷往来』の風景と変わりなく滔々と流れる最上川が眼下に見える。」
撰/堀敬太郎さん(大谷)
写真/堀敬太郎さん「絵になる風景賞」受賞(平成10年)
春の眺望はこちら
アクセスマップはこちら
※県道112号より入った秋葉山グラウンド南側駐車場に登り口があります。
秋葉山エリア(大谷)
 助の巻の「さくら地蔵尊」は、通称「いぼ地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。
 別当鈴木家によると「由来は定かではないが、数百年の昔、小川の向かいに天にそびえる桜の老木があり、それが枯れて洞中から地蔵尊が現れた。それで桜地蔵尊といわれ、家内安全、子どもの成長、五穀豊穣の守護神として庶民の信仰が厚かった。特にいぼの治療にはご利益が多く、遠く東京や川崎方面から参詣に来た」と。昭和8年に火災のため惜しくも文書、記録は消失したが、「桜地蔵尊助ノ巻村」の木版の中に、立派な地蔵尊の木造が彫刻され、家宝として今に伝えられています。例祭は旧3月24日。明治のはじめに山際にあったものを現在地に移したとされています。
※『ふるさと朝日町散歩』(昭和63年)より抜粋
アクセスマップ
 舟運時代、最上川最大難所といわれた五百川峡谷には大難所5ヵ所(朝日町内4ヵ所)、難所15ヵ所(朝日町内11ヵ所)があり、多くの船が転覆しました。流域にはニ渡(荷渡・仁和足)神社など、安全舟運を祈願したとされる神社がいくつもあります。
 大難所“三階の滝”に続く難所“天神巻き”のある助ノ巻には、上杉家が改修したとされる天神宮があります。社殿棟札には「上杉喜平治」の名前が書かれてあります。天神巻きで助けることがたびたびあったので「助ノ巻(すけのまき)」になったと云われています。神社裏の崖下が天神巻きです。
上杉喜平治の棟札写真(撮影/若月啓二氏)

アクセスマップはこちら
・エリア地区/今平、大船木、上郷、松程、赤釜、西船渡、能中、雪谷、宮宿、和合
最上川上流から国道287号線は明鏡橋まで、県道9号線は八天橋や椹平の棚田のある能中地区までを順番に紹介しております。
・川縁は危険な場所がありますのでご注意下さい。
・増水時は川に近づかないで下さい。

(お願い)
 このサイトは、朝日町エコミュージアムがこれまで培ってきたデータを紹介することにより、郷土学習や観光により深く活用されることを目的に運営いたしております。
 よって、サイト内で紹介しているほとんどの見学地は、観光地として整備している場所ではありません。夏は草が茂り道がなくなる場所もあるかも知れません。もちろん冬は雪に閉ざされます。また、個人所有の神社や建物等も一部含まれております。アクセスマップも細道までは表示されません。
 予め御了承の上、見学の際は下記についてご留意下さるようお願い申し上げます。

・安全に留意し危険な場所には近づかないで下さい。
・マナーを守り、無断で個人敷地内に入らないで下さい。
・不明な場所につきましては、エコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。または、エコミュージアムガイドをご利用下さい。
Tel0237-67-2128(月曜休)


 椹平の棚田を眺めるビューポイントは二つあります。隣接する一本松農村公園からはその全容と自然に囲まれた朝日町ならではの美しい風景を眺められます(第一展望台)。棚田北側一番上の段に整備された高台にはベンチも整備され、いくつもに広がる水田を間近に眺められます(第二展望台)。

アクセスマップはこちら
第一展望台
第二展望台

 朝日町の花「ヒメサユリ」は、棚田を見下ろす一本松農村公園で見ることができます。昔は家畜用にいつも草を刈って日当りを良くしていたのでいたる所で見られたのだそうです。種を蒔いてから6年でやっと一輪花を咲かせます。一本松公園は地元「ヒメサユリ保全の会」の皆さんの活動により、昔と同じ風景を楽しむことができるようになりました。見頃は5月末から6月初め頃。毎年ひめさゆり祭りも開催されています。

長岡嘉一郎さんのお話
「町在来種の栽培を」ヒメサユリ愛好会の取り組み

棚田とヒメサユリ見学会(PC)
アクセス
棚田の用水は、油子沢から隧道と水路で取水し、いったん春日沼に溜め、そこから隧道で引いていますが、現在は安定した水量を図るためにポンプを使って最上川からも取水できるようになりました。

アクセスマップはこちら

 経壇からは、最上川をはさんだ宮宿や西船渡の町並みを眼下に眺めることができます。

アクセスマップはこちら

 棚田下の道沿いに経壇と刻まれた石碑があります。道を造る時に土地の霊を
慰めるお経をあげた場所です。

アクセスマップはこちら
※揚水ポンプ改修記念碑のそばです。

 戦国時代の最上家と上杉家の戦いの舞台の一つ。朝日川の流れと川側の絶壁による守り、そして敵兵を一ヵ所におびき寄せて攻めるための曲輪や三十堀、たて堀の配置がなされています。常盤地区を挙げての整備により明確に見る事ができるようになりました。
 正面には、かつて栄えた朝日岳信仰の第一遥拝所だった水口十一面観音堂があります。
※写真は西部公民館から見た水口観音堂と楯跡(写真/安藤美智子)
歴史見学会 「朝日町の天地人」(PC)

アクセスマップはこちら
※十一面観音堂の裏山です。
 慶長出羽合戦の折、千人の上杉勢は朝日町の五百川城(城主/望月隼人)攻略に16日もかかり、長谷堂合戦への参戦に遅れたと考えられます。水口楯の前を流れる朝日川はその最初の激戦地。「上杉越羽軍記」によると、赤見外記、北条右近、中条與次(鮎貝城主)ら上杉勢は、増水した朝日川を挟み望月隼人勢と、鉄砲の打ち合いとなりました。赤見外記が朝日川を渡ろうとするのを見た上杉勢の地下馬上 伊藤豊後(中津川)が、真っ先に渡り、命を投げ打って大勢に切り掛かり突破口を開いた武勇伝が残っています。水口楯を突破した上杉勢は西船渡にあった若宮寺を焼き払い五百川城(八ッ沼城)へ向かいました。