朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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 お薬師様のお祭りは、毎年5月の第二日曜日に新宿区を挙げて盛大に行われています。病平癒を祈願して大勢の参拝者で賑わいます。

成原浩さん、小関絹さんのお話
薬師講
熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さんのお話 
お薬師様のお祭り

薬師堂 瑠璃殿
 瑠璃殿の薬師如来立像は、肩幅が広く堂々とした正面観をあらわし、衣文も流れるように美しく、藤原様式の典型的な表情をしています。日光・月光菩薩が脇侍を務める薬師三尊の形をとっています。朝日町で最も古い仏像であり、製作年代は12世紀の比較的早い時期と推定され『蒙古録』では、天地天皇の時代(662〜71)京都誓願寺の本尊阿弥陀如来を造立した際、その余材をもって作り瑠璃殿に納めたとされています。
薬師如来立像の文化財的価値

熊谷武四さんのお話
お薬師様の修復
 夏草三中堰は、果沼の薬師沼水田に水をひくために、常盤堰の水を分ける水口分水新堰として安政二年(1855)に考えられ、惣代名主阿部与三郎を筆頭に八ッ沼村名主佐竹三郎兵衛が中心となり計画。秋から冬にかけ工事が進められ、翌年の春から夏にかけては岩を切り通し堰路工事に従事しました。旧西五百川公民館(水口)の上まで引かれていた常盤堰の水を、西五百川小グラウンドの下を引き回し、夏草墓地の下を通り、沢を越えて果沼の薬師沼水田に流すルートです。様々な苦難を乗り越え、安政四年(1857)に完成しました。
 その後、大正3年(1914)に東北電力・旭発電所(夏草)が完成し、電気沼(発電所の貯水池)から引かれるようになりました。

夏草三中堰と椹平の棚田(水とくらしの探検隊2005)
 薬師如来は人々の心身にまつわるあらゆる病や苦悩を取り除いてくれるとされます。脇侍の日光菩薩は昼を、月光菩薩は夜を、薬師如来の助手の働きをして人々を守ります。十二神将は薬師如来や崇める人々の守りや、日光・月光菩薩の手助けを一日十ニ支の刻を交代して務める役割を持ちます。 地方の小さな村で十二神将までそろっているのはとてもめずらしいそうです。全ての像は平成3年に京都美術院で修理されました。(写真は十二神将)

小関絹さんのお話
不動院の十二天
 愛宕山東永寺は、天文年間(1532〜1553)に宥白上人により開山されました。はじめは館山の陰の倉沢にありましたが、寛永年間(1624〜1643)に真言宗の祈祷寺として現在地に移りました。往古はご朱印寺でもあり、信仰を集めひろく寄進された板札が見られます。ご本尊は秘仏の延命地蔵菩薩。脇侍に千手観音、三十三観音、弘法大師像。最上48ヵ所地蔵尊札所第24番札所。五百川三十三観音第25番札所。朝日町新宿245
熊谷與志雄さんのお話
東永寺について
五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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 東永寺には布で作られた乳房がいくつも奉納されてあります。本尊の地蔵菩薩は通称“乳地蔵”と呼ばれ、母乳が出なくて困っている人が祈願していました。念願が叶い母乳が出ると、感謝をこめて布で新しい乳房を作り奉納しました。残念ながら粉ミルクの普及とともに祈願する人も少なくなりました。
 東永寺では、天保3年(1832)から明治7年(1874)まで“東永寺学問所”として寺子屋が開かれ、7〜10歳までの教育が行われていました。裕福な家庭の子供だけでなく区別なしに使用人の子供なども学ぶことができ、100人以上の大人数だったといわれています。文久4年(1864)に、お堂左側に立てられた「児翫」の石塔は、子供を愛した東永寺の象徴といえます。
 東永寺の隣に、冷害や干ばつなどの不作時に備えて地区で米を蓄えておいた木造の倉が残っています。現在は新宿地区の収納庫として使用されています。

熊谷與志雄さんのお話
郷倉について
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 新宿公民館裏手の高台に、地区を見守るように愛宕神社が建っています。慶応元年から2年(1861〜62)にかけて建立されたと刻まれてありますが、東永寺が開創された寛永年間(1624〜43)にはすでに愛宕山の山号を用いているため歴史はもっと古いと思われます。現在の社は、昭和54年(1979)に強風で倒壊した後に再建されたものです。

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※分かりづらい所にあります。事前にエコミュージアムルームでご確認いただくか地元の方にお尋ね下さい。
 新宿地区の小高い場所に立つ愛宕神社からは、新宿地区や宮宿の町を眼下に眺められます。ベンチも設置され地区民の憩いの場となっています。
 今井治郎三郎家は、鳥屋ヶ森城主岸美作守の家老を先祖とし、新宿の肝煎名主・大庄屋を務めた家柄です。特に14代治郎三郎は、横浜を拠点に蚕糸貿易の大事業を行い横浜商業会議所副会頭も務めました。さらに奥羽鉄道の誘致や電気事業、通信事業の促進など郷土振興に大いに尽力し、15代は東五百川村長、16代は宮宿町長を務めるなど地方自治にも大変功績を残しました。残された石垣に、当時の隆盛ぶりをうかがい知ることができます。

今井治郎三郎家について
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※旧新宿警備所前付近です。
※現在は別の方がお住まいです。敷地内には入らないで下さい。
 「新宿」という名前ではありますが、鳥屋ヶ森城の城下町だった新宿地区は、中心地の宮宿よりも古い歴史を持ちます。
 新宿地区には、かつて今井治郎三郎家の生糸製造工場があり、特に養蚕(ようさん)が盛んな地区でした。屋根構えの大きな家が多く残っているのは、屋根裏を蚕室に使っていたからです。特に大きな建物は(現今井優一さん宅 / 見学不可)は、蚕の種屋を営んでいたそうです。
→熊谷與志雄さんのお話
蚕の種屋「旧高田家」の住宅について
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※山沿いの通りに特に古い家が多く残ります。
〜祖父の初仕事〜
 私の祖父は、中学を卒業して初めて働いたところが明鏡橋の架け替え工事だったと話します。一番記憶に残っているのは橋脚の土台となる土を玄播山から運んだことと言います。当然ですが工事用のダンプなどは無いため、すべて手作業で運んで大変だったということを昔の思い出話として話してくれました。

〜父の水遊び〜
 祖父が橋の工事に携わったとすれば、父はその下で遊んだ少年時代の思い出話をしてくれました。明鏡橋付近、最上川の左岸は栗木沢、右岸は大隅、それぞれの子供たちにとって絶好の遊び場でした。栗木沢が橋よりも少々上流、大隅が橋よりも少々下流に泳ぎ場があったといいます。泳ぎに疲れたり、体が冷え切ったときは、水の浅いところで温かくなった水に浸かり体をあぶったということです。最上川を泳いで横断できれば一人前と認められたり、対岸に向かって石を投げたり、栗木沢と大隅それぞれ川の両岸のお隣同士で同じような遊び(ときにはケンカも)をしていたようです。

〜私の少年時代〜
 私の年代になると、もう川で泳ぐものはいませんでしたが、ちょうど二見屋さんの現在の主である遠藤憲一氏の長男が私の弟と同級生で仲がよかったので、私も小学生の頃はよく河岸に遊びに行きました。
 雪解けによる増水が引いた春先ごろは、岸にいろいろなものが落ちていました。釣りに使う浮きや軟式ボール、ゴムボール、靴類からその他の生活雑貨、使えるものから役に立たないものなどあらゆるものがあって、それらを拾って帰るのがうれしかった思い出があります。
 また、梅雨が明けて夏になると、父に連れられて明鏡橋の真下で釣りをしました。以前は近くの沼で浮き釣りしかしたことがなかったので、初めて最上川に行った時はリール竿と吸い込み針を使ういわゆる「ブッコミ釣り」にとてもわくわくした覚えがあります。明鏡橋の下には今でも昔の橋の支柱を立てたと思われる直径50cm、深さ30cmほどの丸い穴が数箇所あり、そこに釣った魚や、稚魚程度の小さな魚を捕まえて放しては楽しんでいました。河岸にはその他にも、明鏡橋の少し上流・中州の手前辺りにちょうどお風呂くらいの四角の穴があったり(昔の岩採り場の跡らしい)して、子供心ながらも何の跡か疑問に思っていました。釣りをしない日でも、中州に行ったり、上流下流両方の河岸をどこまで歩いていけるか散策してみたりと、特に目的がなくとも何気なく遊びに行っていたものです。

お話 : 佐久間 淳さん
あさひまち宝さがし2002(平成14年)

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

 最上川舟運の盛んだった頃、米や漆などとともに代表的な積荷だったのが「青苧」です。古来からの衣料原料だった青苧の栽培は、江戸時代から明治時代にかけての朝日町の代表的な産業でした。名声を博した奈良晒、越後縮、近江蚊帳の原料は、おもに山形県や福島県で栽培されていた青苧で、その半数は朝日町の「五百川苧」や大江町の「七軒苧」だったそうです。今でもいたる所に自生しています。

和田新五郎さんのお話
和田新五郎さんの青苧
栽培から糸とりまでの作業
志藤富雄さん、
白田千代志さん、
堀敬太郎さんのお話
青苧の栽培と製品化
青苧の使われ方
報告
青苧糸とり体験記

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア



エコミュージアムの小径 第3集。国の名勝「大沼浮島」は歴史が古く、伝説の多い昔から著名な観光地です。大沼を代表する皆さんからお話をうかがいました。 A5版
 編集・発行/朝日町エコミュージアム研究会 平成7年