朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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 醍醐味は、なんといっても風景です。特に紅葉の季節は素晴らしいです。秋、冬は水も透き通って見えます。八天橋の下から見る空はとてもきれいです。高い断崖にはさまれて八天橋があって、その上に高い空があります。四ノ沢から流れ落ちる滝は川面から眺めるととてもきれいです。手前の瀬では大きな鮎も跳びます。
 一番好きな風景は、川通集落を過ぎて右側が和合小学校のあたりです。車からは見えません。切り立った両岸には緑が茂り、流れはゆったりとした“瀞”になっています。人工物は見えないので、まるでジャングルの奥地を漕いでいるように感じます。鴨もたくさんいます。
 瀬が連続する五百川峡谷は、カヌーを乗る私たちにとって最高の場所です。地元の人たちにはあまり知られていませんが、朝日町の大きな魅力の一つだと思います。
お話 : 大井寛治さん(曲渕) 平成18年

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

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 朝日連峰のブナの原生林や高山植物に魅せられ、「朝日のカモシカ」の異名をとった朝日町が生んだ山岳写真家。 
 昭和24年(1949)より西五百川村常盤に写真店を営むとともに、朝日連峰の写真を撮り始める。昭和26年(1951)に故安斉徹博士(山形大学教授)の磐梯朝日国立公園指定のための調査に同行したのがきっかけで、大朝日岳の美しさ、魅力にとりつかれる。
 「写真技術はいい腕もさることながら、シャッターチャンスだ。動かぬものはともかく、流れのある被写体は2度同じものを撮ることはできない。」(毎日新聞より)と、山には3台のカメラを持って、気象が織りなす大自然をなんとか写真にしようと、毎年十数回、合計300回以上朝日連峰に通い、多くの写真を撮影する。
 特に昭和27年(1952)旧郵政省の磐梯朝日国立公園記念切手シリーズの「朝日岳」「月山」の原画に選ばれた時は、県内の多くの人々が喜んだ。
 昭和57年(1982)に発表した「朝日連峰 四季と植物」(高陽堂書店刊)は朝日連峰最初の本格的な写真集であり、「学術資料としても高く評価されるだろう。」(元県立博物館長 結城嘉美氏談)など多くの方面から関心を呼んだ。
 氏は山岳だけでなく朝日町の原風景や風物も数多く撮影し、3万枚以上の写真を撮ったといわれる。
 趣味も多才で、文筆、焼き物制作、刀剣、骨董などに造形が深く朝日町の文化活動に多くの足跡を残した。

略歴

大正13年(1924) 西五百川村常盤に生まれる。
昭和19年(1944) 海軍を志願、舞鶴海兵団に入隊。
昭和20年(1945) 終戦後、復員する。
昭和23年(1948) 
東京神田の写真館に助手として就職。
昭和24年(1949) 
帰郷後、西五百川村常盤に写真店を開店。(東京へ修業に通いながら)
キヨエさん(西五百川村太郎)と結婚する
昭和25年(1950)12月 
朝日岳の組み写真が全日本観光写真コンクール1位入選。
昭和26年(1951) 
磐梯朝日国立公園指定のための調査に同行し朝日連峰の広大無辺なブナの原生林や高山植物に魅せられる。 日本写真協会観光写真展特選。
昭和27年(1952) 
磐梯朝日国立公園記念切手の原画(大朝日岳と月山)として採択される。
昭和27(1952)〜昭和56年(1981) 
この間、朝日連峰に毎年十数回のぼり寝袋とパンとカメラを持って寝泊りして山岳風景や高山植物の写真を1万枚以上撮り続け、県内各地で写真展を開催する。
昭和56年(1981)8月 
産経新聞山形版に「涼線・大朝日岳をゆく」を30回にわたり連載する。
ラ・ポーラギャラリーで「朝日連峰・光と闇」の写真展開催。
この写真展がきっかけとなって、写真集の出版が決まる。
昭和57年(1982) 
「朝日連峰・四季と植物」をA5判高陽堂書店より発刊、県内外の多くの山岳愛好者に好評を博する。
昭和62年(1987) 
長い間の統計調査員の活動に対し「藍綬褒章」を受章する。
平成7年(1995)11月30日  
72歳で死去。撮影総数は3万枚以上にも及ぶ。

第一回阿部幸作写真展
『朝日連峰 四季と植物』(高揚堂書店)

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五百川峡谷の水質浄化力
                 佐藤五郎氏(米沢中央高校教頭)

〈五百川峡谷は最上川の心臓部〉
 最上川には、狭窄部が5ヵ所あり、人が住む盆地部で汚れた水を浄化しています。なかでも「五百川峡谷」は、最上川最大の峡谷部。難所中の難所です。5ヵ所の中で、最も大きな蘇生力・浄化力を持つので、私は最上川の心臓部と考えています。五百川峡谷がなければ、今のような最上川の水質は維持できません。

〈五百川峡谷の水質浄化のしくみ〉
 五百川峡谷には、白く波の立つ所がたくさんあるので、水質浄化に非常に効果的な役割を果たしています。それは、空気中の酸素を充分水に溶け込ましてくれるので、水に棲んでいるプランクトンや水生昆虫、魚にいたるまで、いろんな生物が活発に活動し、汚れを餌として食べてくれるからです。

〈五百川峡谷の水のきれいさ〉
(硫酸イオン値)最上川の水質で一番多く含まれるのは、源流部の硫黄鉱山から流れる硫酸イオンです。流下に伴い値は下がりますが、五百川峡谷ではかなり下がります。ペーハーは、酸性から中性に変わります。
(濁度)濁りは濁度計で測ります。米沢盆地を過ぎて南陽市から川西にかけて、濁りがピークになりますが、長井で白川が入ると希釈され、さらに五百川峡谷の明鏡橋付近にかけて濁りは特に下がります。上流で汚れた水が徐々に希釈され、息を吹き返して、見た目にもきれいに蘇生されるのが五百川峡谷といえます。
(TOC調査)汚れを燃やして出る二酸化炭素の量を赤外線で測定する調査です。米沢盆地の下流、下田橋や鳳来橋付近で汚れがピークに達し、五百川峡谷の明鏡橋のあたりにかけて一番下がります。
(COD調査)薬品による調査です。やはり、五百川峡谷の五百川橋や明鏡橋のあたりで最低の値になります。水質が最も良くなっています。源流部で水質を落として五百川峡谷で蘇っているのが分かります。
(過去40年間の水質)どの場所も1960〜70年代に高度経済成長であおりを受け汚れました。その後、工場排水の規制や法的にも改善され、1980年代に入ると下水道が普及し、汚れは改善されてきています。最上川の過去40年間のCODデータを、上流は鳳来橋、中流は明鏡橋、下流は庄内橋の3ポイントで比較すると、明鏡橋は常に最もいい値になっています。

〈五百川峡谷の水路の持つ効果〉
 米沢藩の御用商人西村久左衛門が開削した五百川峡谷には、岩盤がすとんと凹んでいる水路が大江町にかけて続いています。現在、水路を測量していますが、水路は幅10〜20m、深さは2〜3mもあります。自然のものか、掘ったものかは、まだ分かりません。
 私は、この数十キロにも及ぶ水路があることが、水質浄化に重要な働きをしていると考えています。それは、浅瀬も深みも同じ場所に存在するので、水生生物にとって好都合だからです。多様に生きられるのです。水路の中がどうなっているかは、今後水中カメラなどを使って確認する予定です。全貌を明らかにしてこの素晴らしい五百川峡谷を全国にアピールしたいと思っています。五百川峡谷はまさに朝日町の宝といえます。
取材 : 平成18年

佐藤 五郎(さとう ごろう)氏
山形大学教育学部卒業後、昭和44年(1969)米沢中央高等学校教諭着任、副校長を務める。最上川水系の水質調査を同校科学部で指導され、平成5年(1993)からは毎年ゴムボートで流下しながら水質や河川環境の調査を実施。現在は国土交通省最上川水系流域委員会委員、山形県環境アドバイザーなどの各種委員を兼ねている。著者多数。


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五百川峡谷の魅力
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エリア地区/立木、曲渕、太郎、石須部、松程

・増水時は川に近づかないで下さい。
・サイレンが鳴ると上流のダムから放水されます。晴れていても川から離れて下さい。
・川沿いの道はせまく未舗装道もあります。注意して走行して下さい。
・川遊びはコシジロアブのいない7月〜8月上旬がおすすめです。
・アブは排気ガスにたくさん集まります。停車の際は必ずエンジンを止めましょう。

(お願い)
 このサイトは、朝日町エコミュージアムがこれまで培ってきたデータを紹介することにより、郷土学習や観光により深く活用されることを目的に運営いたしております。
 よって、サイト内で紹介しているほとんどの見学地は、観光地として整備している場所ではありません。夏は草が茂り道がなくなる場所もあるかも知れません。もちろん冬は雪に閉ざされます。また、個人所有の神社や建物等も一部含まれております。アクセスマップも細道までは表示されません。
 予め御了承の上、見学の際は下記についてご留意下さるようお願い申し上げます。

・安全に留意し危険な場所には近づかないで下さい。
・マナーを守り、無断で個人敷地内に入らないで下さい。
・不明な場所につきましては、エコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。または、エコミュージアムガイドをご利用下さい。
Tel0237-67-2128(月曜休)


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お話 : 花山忠夫氏(宮宿)

〈大朝日岳の軍道について〉
 朝日軍道は葉山から御影森山〜平岩山〜大朝日岳〜中岳〜西朝日岳〜竜門〜と続いている。
 大朝日岳の山頂付近は大変風当たりが強い所で、草もあまり生えず岩も露出している。私は険しい大朝日岳の山頂は通らないで、中腹を迂回したのではないかと考えている。
 中岳の方から見た大朝日岳の斜面に電光形の道跡の線を発見した。そして大朝日岳の避難小屋の裏には、その斜面に至る道跡も見つけた。その辺りの背の低い灌木はだいぶ太くなっているので、近代になってから開削はしていないことが分かる。
 大朝日小屋から中岳に向かう途中に天下の名水”金玉水”があるが、その上部周辺にも地形を平らにしたような痕跡が見受けられる。水場も近いので番小屋があったのかも知れない。ここはもう少し掘って探すとなにか出てくるのかも知れないが、一木一草たりとも採ってはならない「特別保護地域」なので全く手をつけることはできない。

〈西朝日岳の消えた道跡〉
 西朝日岳の斜面に残る電光形の道跡を見ていて、下のほうの道が、一曲り、二曲り位消えていることに気付いた。また、折り返しがこのまま鋭角なカーブでは馬車が通れないので、そこに車回しの形跡があったはず。それも消滅したと考えられる。
 掘削は上から掘ったと思う。下から掘っていくと上から掘削した土でまた埋まってしまう。余った土で車回しを作り、さらに余った土は下の方に盛土をし、その上に道を作ったのではないか。ここは大変雪が積もる場所なので、盛土した所が流され道や車回しが消滅したと推測している。

〈吟味された測量〉
 電光形になっているという事は、馬や荷車を通した証拠といえる。よく見ると測量がきちんと成されている。電光形の道の左へ登るそれぞれの線だけを見ると平行になっており、右へ登る道もそれぞれ平行になっている。かなり吟味したのだと思う。また、地形上全体の掘削できる巾は限られているので、折り返しの数も割り出してから測量を進めていったのであろう。
 このことを考えると、私が迂回していると思っている大朝日岳でも、同じように開削は可能であったのではないかと思う。

〈開削の苦労が見える〉
 山は岩がたくさん出てくる。そこを避け勾配を変えてしまうと馬や馬車が通れなくなるから、実際の開削は大変な苦労があったと思われる。
 道跡を見ると、薮の中に岩を見つけることができるが、よく見ると岩の節にあわせて引き裂いたような剥がし方になっている。もしかしたら火薬を使ったのかも知れない。

朝日町の天地人パネルディスカッション「直江兼続が開いた朝日軍道」(平成21年11月)
※写真は西朝日岳に電光形に残る朝日軍道

花山 忠夫(はなやま・ただお)氏
 昭和25年生まれ 朝日町宮宿在住。平成4年朝日山岳会長に就任。平成4年環境庁自然公園指導委員。平成4年〜平成7年自然環境保全地域管理人(ヌルマタ沢野川地域)。平成8年自然公園管理人(朝日地区)。平成16年自然公園の適正利用、安全登山の推進等の功労により、環境省自然環境局長表彰を受賞。朝日山岳会の仲間と登山者の安全確保のため登山道整備や清掃、自然環境保全等の活動に尽力している。

なぜ朝日軍道が必要だったか

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 鮎は香魚とも言う。餌が水ゴケなので、西瓜のような爽やかな香りの魚であったから。五百川峡谷では昔、鮎やサクラマスがよく獲れたので、皆さんよく食べていた。
 漁をする人々はそれを生計のたしにしていて、最上川の簗で獲れたばたばたとしたマスや鮎は旅館などに売っていたようだ。
 家庭で食卓に上るときは串に刺してあぶったのに白砂糖をかけ、その上にしょう油をかけて食べていた。塩焼きや田楽もしたようだ。飯のおかずにも酒の肴にもなったものだ。
 酒の肴といえばニンニクの下部がふくらんだ時期に食べる「氷頭もみ」というのがあった。生のマスの頭とニンニクを薄く切って混ぜもみ、火にかけた酢・砂糖・塩で和えたもので、その時期になると料亭などで食べたものだった。今ではサクラマスもあまり獲れなくなり、そのような料理をいただくこともなくなった。
お話 : 鈴木治郎さん(宮宿) 取材 : 平成20年

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 杉山の花山傳夫さんの家には、代々伝わる船曳き絵があります。
 舟運が盛んであった時代、酒田や最上川の川港から、荷物を積んだ川船が上流に上る場合、帆(ほ)と綱(つな)を使いました。風のないときや難所の多いところでは、曳き網に頼りました。そのため、各地に綱手道が設けられ、船曳き集落や船曳きを専門とする人々もいたそうです。
 この絵について花山さんは、「子どもの頃からあった。いつの時代に手に入れたものかは不明だが、おそらく三百年位前のものかも知れない。舟が描かれず三人の人足衆だけが描かれている点など、大江町の若宮簗所有のものと作風が似ている。」
 また、山形大学名誉教授の横山昭男氏からは、「上半身裸で前傾姿勢になり、ありったけの力で曳いているようだ。船曳き人足の実際の様子が生々しく表れている。帰りといっても舟は空ではなく、ある程度沈めて安定させなければならないから、塩などの帰り荷は必要な物だった。重さが足りない時は石や灯篭を積んでいたようだ。
 五百川峡谷は瀬が多いので特に大変な場所だったのではないか。船曳きの写真は明治時代のものが少ししかないので、仕事振りを知る上で貴重な絵といえる。」と教えていただきました。
取材 : 平成18年

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 朝日町長寿クラブ連合会で調査して発行くださった『朝日町の石佛』によると、朝日町には象頭山・金毘羅権現の石碑が二十二基ある。江戸時代末期に作ったものが多い。
香川県琴平郡にある金毘羅権現は、舟乗りや舟乗りに関係する人たちやその家族が信仰していた。最上川を下って、日本海の西廻り航路を通って江戸に行くにも大阪に行くにもそこを通る重要な経過点なので、安全航海するためや家内安全も含めて信仰していた。船の仕事をする人がだんだん増えた証拠といえる。   
お話 : 横山昭男氏 (山形大学名誉教授)
平成18年

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 醍醐味は、流れを読みながらカヌーを操り、瀬を一つずつクリアしていくところです。
 流れは不思議で、壁があるようです。上流から白波のたつ流れに入り込むときは、まっすぐ行こうとするとひっくり返され、流れから出ようとすると、出るところの水が逆に流れているのでやはりひっくり返されます。始めた頃はそういう理屈が分からず、度々ひっくり返されました。まるで河童にひきこまれるようでした。
 また、波から出られなくなるポイントがあります。5分くらい動けなくなったこともありました。ひっくり返って、やっと出られると思っても、また戻されて同じ状態に戻ってしまうのです。川に遊ばれていました。
 上手な人は、飛んだり、跳ねたり、前回りをしたり、自由自在にカヌーを操ることができます。カヌーランドは、そんなことを楽しめる素晴らしい流れとして、日本でも有名な場所になっているのです。おかげで、全国レベルの大会が開かれるなど、たくさんの人が訪れています。

お話 : 大井寛治さん(曲淵) 平成18年

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鮎漁と巨鮎
                     お話 熊坂正一さん
                    (最上川第一漁業共同組合理事長)


 私は流し網で鮎を取っている。夕方に川の流れに沿って網を仕掛けておくと、朝方に引っ掛かる。禁漁日まで毎日やっている。重たくて上げられないほど掛かることがある。1シーズンでおよそ4〜500匹捕る。
 五百川峡谷は「巨鮎(大鮎)」がいるので有名だ。巨鮎は一尾が150グラム以上、全長26センチ以上。友釣りファンもそれに惹かれてやってくる。私は最高で40センチ位320グラムのを捕ったことがある。五百川峡谷は餌がいいから育つんだ。餌は藻。けい藻、らん藻という藻がつく。3日あったら充分つくな。
 今年は天然鮎の遡上が多く、70%以上になった。それは理由がある。県内水面漁場管理委員会の指示により、毎年10月4日から10日まで、県内のありとあらゆる漁法での漁が禁止になる。簗も網も釣りもだめ。親魚を早く海に下らせて産卵させて来年の遡上に資するようにしている。我々もそれに協力している。

熊坂 正一(くまさか しょういち)氏
昭和11年(1936)生まれ。朝日町宮宿在住。昭和35年(1960)法政大学文学部卒業。教員を経て朝日町役場に奉職後、昭和60年(1985)〜平成4年(1992)まで町助役を務める。現在、山形新興株式会社専務取締役。最上川第一漁業協同組合代表理事組合長。

最上川第一漁業組合
※写真は巨鮎ではありません

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 最上川全体でおよそ40ヵ所の簗があったが、朝日町にはそのうち7ヵ所あった。荒砥から左沢間の五百川峡谷全体では11ヵ所あった。こんなにある所は他になかった。どうしてかというと、激流(瀬)、岩盤、中州があるから。簗の仕組み上、段差のある瀬がないと仕掛けられない。それに、中州のない所に作るには上流から長くせき止めなければならないから大変だ。
 6〜7月、鱒が簗の仕掛けてあるその瀬の段差を上るとき、水の勢いで、どっとひっくり返されて簾の上に落ちる。これが遡上する魚の取り方。下る魚、落ち鮎などは上からぞろぞろ入る。問題は、いろんな木や草などのゴミも簾にかかる。これを丁寧に落とさないと簗がだめになる。
 簗には、必ず魚を食べさせる料亭のような場所があった。鱒の季節には鱒を、鮎の季節には鮎を、それからウナギなどもよくごちそうになった。
 簗は、増水で流されれば大きな損害になるが、儲かるときは儲かる。落ち鮎の季節はあまりに掛かりすぎて、手伝い人は面倒くさくなって流してやったほど。
 上郷ダム建設で簗を全廃するにあたっては、一簗につき240万円から3,300万円までの補償金が出た。八天簗は簾座が三つもあるから、漁獲数も多かった。

お話 : 熊坂正一氏(最上川第一漁業協同組合代表理事組合長)取材 : 平成18年

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 青苧を売り物にするには、ただ自生するからといって出来るものではなかった。きれいに育つように相当手入れをしていたんだ。枝など出てしまうとダメだし、長さもなんぼ以上と規定があった。短いのや枝が出てしまったものは、家庭用として使っていた。
 刈ったものは、束にして水に浸けていた。普通の井戸では無理だったから、長掘に重石を載せて浸けていたような気がするな。それを背負ってくるので、一束でも相当重かった思い出がある。
 水に浸けた後は、皮をはいで輪のように丸くおっくり置いていた。はぐ人が広げてすぐできるようにしていた。
 はぐのも人によってかなり差が出たな。すっとできる人もいれば、途中でもげてしまう人もいた。私の家では、上手な人を特別に頼んでいた。
 売り物の青苧は、先の方をきれいに筆の先のようにして格好よくしていた。どうやっていたかは覚えていないが、じいさんがなめながらしていたような覚えがあるな。本当にのり付けしたようにきれいになっていた。
 最後に一束ずつ天日に干して、真っ白く仕上げていた。売り物として出荷するには、色や形は大分やかましく言われていたな。特に色が重要で、真っ白いものが一番だった。
お話 : 志藤富男さん(大谷)
 
 青苧は、おがるほど良いと聞いていた。青苧の高さは二メートル以上あったから、育てるのに肥やしのようなもの、おそらくたい肥をつかっていたのではないかな。
それから青苧の芽がでるのは霜が落ちなくなってからだから、霜は心配なかったな。
 本当に青苧は高く売れた。だからみんな一生懸命していた。
私の家には青苧はぎの道具も残っているが、はぐ時に使う「引き板」は、度々新しいものを重ねていくことで、弾力が出てやりやすくなったんだ。
お話 : 白田千代志さん(大谷)

 昔から、茎から繊維をとる青苧は、大切な衣料の原料となり、主に夏季衣料に用いられ、奈良さらし、越後縮、近江蚊帳などの原料となった。
 明治元年(1864)「最上名所名産名物番付」の横綱は最上の紅花で、その次が最上青苧になっている。その青苧の半数が「五百川苧」「七軒苧」が占め、名産として格付けされていた。今で言えばメーカー品のようなもので高い値で取引されていたといわれている。
 しかし、その青苧も明治の末頃から養蚕業の発達によって、畑地は桑が主流を占め、衣類も高級な絹織物に変わった。そのため青苧栽培は衰退してしまったようだ。
お話 :堀敬太郎 さん(大谷)

志藤 富男(しとう とみお)さん
昭和3年(1928)生まれ。農業 朝日町大谷六在住。
白田 千代志(しらた ちよし)さん
昭和3年(1928)生まれ。農業 朝日町大谷五在住。
堀 敬太郎(ほり けいたろう)さん
昭和3年(1928)生まれ。朝日町エコミュージアム案内人 朝日町大谷一在住。

取材 : 平成19年(2007)

志藤富雄さん、白田千代志さん、堀敬太郎さんのお話
青苧の使われ方
和田新五郎さんのお話
和田新五郎さんの青苧
栽培から糸とりまでの作業
報告
青苧糸とり体験記

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五百川峡谷の魅力
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 じいさんが青苧を栽培して製品化して出荷していた。いつも胸元にカスがいっぱい付いていたのを覚えているな。
 青苧は水にも強く丈夫だったので、一般家庭では主にひもや綱として使っていた。貴重なものだったから、使っていたのは売り物にならない色の悪い物や、はいで残った表皮を利用していた。
 私の家では、馬の手綱(馬のくつわに付けて引く綱)として使っていた。藁では馬の力ですぐ切れてしまうから、青苧でないとだめだった。一本を二間から3間くらいになって使っていた。御神楽の天狗のひげにも使っていたな。青苧は白くて先のほうが細くなっているから、櫛でかっつぐと、いい感じになったんだ。それから、水道工事をしている地元の鍛冶屋さんがよく貰いに来た。水道から水が漏れないように、ネジに巻いて締めてパッキン代わりに使っていたんだ。
お話 : 志藤富男さん(大谷)

 綿代わりとしても使っていたな。皮をはいで残った表皮(一番上の皮)を水に浸し
ながら叩いて伸ばし、拡げたものを乾燥させ綿の代用品として布団などに利用していた。昔、兵士として出征する時には日の丸の旗を立てたが、その登り竿のひもも青苧で作っていたな。鯉のぼりにも使っていた。家には青苧でなったたこ糸も残っている。藁のように何さもかにさも使うと「ほだなさ使うな」とごしゃがれたものだった。
 この辺りでは、皮をとった茎の木の部分を�からむし�と呼んでいた。それは茅葺屋根の軒先の角のかたい部分に使っていた。家を壊したときに屋根の中からすこだま出てきた。お話 : 白田千代志さん(大谷)

 江戸時代から明治時代にかけて朝日町の代表的な一大産業だった青苧は、衣料の原料として何百両という取引が行われていた。年貢として納めていた家もあったほど珍重された物だったから、一般家庭では何にでも使えたという訳ではなかった。
 私たちが子どもの時代には、ごく一部の人しか作っていなかった。家でも作っていなかったから、青苧糸を束で買ってくるものだった。やはり一番はひもや綱として使っていた。下駄の鼻緒などにも使ったりしていた。今みたいにビニールひもなんてなかったから、一般家庭において青苧はなくてはならない貴重な生活必需品だった。
 それから、「からむし」を乾かしたものに硫黄を先に少しつけて、釜戸などに火をつける「点け木」としても使っていた。よく燃えるから、火種としてとても重宝していたんだ。
 農家による青苧生産は栽培から「日干苧」として出荷するまでで、青苧糸を使って布を織るということはなかった。
お話 : 堀敬太郎さん 取材 : 平成19年

志藤富雄さん、
白田千代志さん、
堀敬太郎さんのお話
青苧の栽培と製品化
和田新五郎さんのお話
和田新五郎さんの青苧
栽培から糸とりまでの作業
報告
青苧糸とり体験記

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 残念なことに雨があがらず、室内で糸とりにチャレンジしました。
 はじめに、講師でお招きした和田新五郎さんが出演されたVTR『和田新五郎さんの青苧』を見て予習し、その後実際に、作業の仕方を教わりながら体験を進めました。
 前日から用水路に浸しておいた青苧から、まずは葉っぱをとり、根元20センチ位を折り、使わない茎を取り出しました。手が茶色になることにみんな驚いていました。そして剥いだ皮を台において、スクレパーを使って茶色い表皮を取り除きました。しかし、これがなかなかうまくいきません。実は、糸をとるための台は本物を見よう見まねで作っておいたのですが、この材質が柔らかかったことが原因でした。本来は、硬くて薄い板を重ねて使っていたのだそうです。皮をはぎとるスクレパーとして準備したケーキ用のへらは好評でした。
 作業しながら、年輩の参加者の皆さんは、いろいろな思い出話をされていました。「季節になると学校休んで手伝わされた。青苧は見るのもいやな程手伝わされた」と苦笑してた方も。
 途中、志藤富雄さん(大谷六)が、おじいさんが作っていたという出荷用の青苧糸をお持ち下さりました。本物の柔らかさやきれいさに感心しました。
 天気が悪く仕上げの乾燥はできませんでしたが、和田さんからいただいていた糸を使って、実際に紡いでみたり、なってみたりして楽しみました。本当に糸の状態になるのが驚きでした。

協力 東北芸術工科大学博物館実習生
平成19年(2007)7月15日
場所 秋葉山交遊館ときめき体験館
講師 和田新五郎さん
参加者 32人

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 大谷裏小路の和田新五郎さんは、現在も「青苧」を栽培し、糸をとっています。
 古来からの衣料原料だった青苧の栽培は、江戸時代から明治時代にかけての朝日町の代表的な産業でした。
 和田さんの栽培している青苧は、昭和10年(1935)、15歳のときに祖父の元治さんと植えたものを残しておいたものだそうです。糸をとる「青苧はぎ」は、母ふみえさんの仕事で、収穫したものは馬具用の縄をなったりするのに使っていたそうです。
 八月、刈り取りや青苧はぎを見せていただきました。和田さんは背丈ほども伸びた枝を一本一本刈り取ると、手のひらで茎をぎゅっと掴み、手前に引き、葉っぱを見事に扱き落としました。私も真似をしてみましたが、柔らかな手のひらではとても痛くてできませんでした。また、糸をとるために、一晩水に浸けた茎に鉄製のへらを押しあてて引っ張り、青い表皮をはぎとる作業は弱くするととれず、強すぎると糸が切れそうになったりしました。大変でしたが楽しく体験させていただきました。
 手のひらに付いた茶色い染みは四、五日消えませんでしたが、昔の青苧職人と同じと思うとうれしくなりました。
 報告 宮森友香(エコミュージアムルーム職員 2004)

和田新五郎さんのお話
栽培から糸とりまでの作業
DVD『和田新五郎さんの青苧』

志藤富雄さん、白田千代志さん、堀敬太郎さんのお話
青苧の栽培と製品化
青苧の使われ方
報告
青苧糸とり体験記

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