小野川温泉 吾妻荘

小野川温泉 吾妻荘
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 平泉の金色堂で知られる奥州藤原は、千年
 ぐらい前に東北一帯を支配しました。その一族が
 仁井田(新田)を名のり、田沢、館山に居館を構えて
 住まいました。館山発電所の所の館山城は、新居田の
 山城で、梁沢の道明山、吹屋敷の根小屋式山城は、
 この館山城の支城で、田沢、館山、簗沢、吹屋敷
 小野川、は室町期は仁井田の領地であったのでしょう。
 


 館山浄水場の坂を越え赤芝、松の下をへて
 左側に舌状丘陵がせり出しています。この上が
 2〜3百メーター室町期の根小屋式城館遺跡で
 、おその沢、松の下、吹屋敷、馬場とぐるっと
 取り囲むように集落がありました。近世の後期
 には吹屋敷、馬場村は、数軒しかなくこの村は
 今、昔からの家は一軒になりました。
 この村は、どこに行ったのでしょうか。

 平成の天皇がまだ昭和の皇太子であった若かりし頃、
 小野川スキー場で、井ヶ谷千春の指導でスキーを
 たのしんだものです。この年も暖冬で雪を運んできて
 滑走面を造りました。そのときから数十年来の
 暖冬だそうです。

 小野川村の隣、道明山を中心に簗沢村に七大盡という長者がいて、
 そのうちの一軒の近くから、室町期の
 遺跡が出土した。と郷土史に報告されています。
  道明山城が室町期の根小屋式山城であったとすれば
 その城主宮崎の配下の者が七大盡で、東沢、西沢、中山、
 の峠の要所や、大台原に点在していたと考えられます。
  室町以前の長井(大江)が置賜を支配していた以前からの
 奥州藤原の一族の系列の者が土着して簗沢村になったのでしょう。

 これは、ネットで公開されている東大史料編纂所
 史料の、「伊達世臣家譜」の中の宮崎氏の系譜書き
 です。置賜郡の道明山の宮崎城にちなみ、もと新田
 を名のっていたのが、宮崎を名のるようになった
 と記されています。
  新田(仁井田)は館山城主で奥州藤原の家系で
 伊達が米沢を支配してからは伊達の家臣となった者ですが、
 宮崎も新田の家系で、簗沢いったいを支配した古い土豪であったので
 しょう。

 市内にハイヤーが走ったのが、大正7年です。
 市内バスは、大正10年から運行されました。

 ハイヤー料金は市内が1円、小野川温泉まで4円。
 バス料金は、小野川まで一日3往復で、1円。

 人力車の3円、ハイヤーの4円に比べずっと安いので
 温泉客のバス利用が増えてきます。

 これは、昭和13年のフォードの中古車の写真で
 金六の弟、栄が個人タクシーを開業したものです。

 昭和4年、銀バスの運行が開始される。米沢市内
 20銭、小野川・米沢間30銭。(郷土史年表)
  
 大正、昭和にかけて、銀色カラーのバスが運行されました。
 昭和の初頭、小野川米沢間にも銀バスが運行されました。
 

 仙台藩、着座に宮崎氏がいます。伊達の重臣
 新田(仁井田)の一族で道明山に城を構えていました。
 将軍家で云えば、家老に次ぐ家格で老中に相当する
 ものですが、写真は、道明山の根小屋(平地の居館)
 跡です。


  これは、小野川温泉の一つ手前馬場、吹屋敷
 (武家屋敷)村に残る城館遺跡です。松の下の
 「蔵」の向かいから、吹屋敷の加藤さん宅のところ
  迄、2〜300メーターにわたって堀切や土塁跡
  があり、虎口とよばれる、入り口も街道から通じています。
  近世初頭、上杉の分限長に馬上として立屋舎人という
  名前が馬場吹屋敷村にみえますが、この城館遺跡の
  中世の武家の系統の者と考えられます。
     10数軒の区画がみられ、現在栗林になっている
  ところが屋敷跡で根小屋式山城であったのでしょう。