小野川温泉 吾妻荘

小野川温泉 吾妻荘
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 享和元年、1801年 滝の出口に柵木をまわす。
 とあり、つるや、松島や、扇屋善五郎と尼湯の間に
 滝の出口とあり柵が巡らしてあります。 清水出口、
 滝の出口いずれも月山、清水山の地下水が鬼面川
 方向にゆっくりと流れて20〜30年かけて熟成された
 温泉水と表層で混じり良い湯加減になって、温泉街の
 盆地で沸いてでる様子がうかがわれます。

   
 

 ホテル山川さんは、江戸期から山川や甚五郎を名のっています。
 今と同じにその南隣にたきゆがあり、文字道理湯口が滝に
 なっています。その上にはせや林右衛門があり、その隣が
 医師 鈴木宗益として大きく屋敷を構えています。
                                             寛政期、幕藩期の中後期、鷹山公は民の父母の理念のもとに
 長崎から西洋医学を導入し、藩医、宿場医をおいて病人の
 救済にあたりました。
  
  米沢藩の好学の志がオランダ医学を藩に導入し、近隣藩からも
 修業に訪れています。宗益は、越後寄宿 鈴木三郎兵ェの子息で
 そうした蘭学の普及の流れに沿ったものでしょう。
 
 

  鈴木元治は高橋玄勝 桂林に師事したとあり
 高橋玄勝は、鷹山公がオランダ医学を導入した
 初期、寛政年間に杉田玄白に学んだ藩医ですから
 西洋医学の洗礼を受けたと思われます。
 文政期(200年ぐらい前)の版画の湯の効能
 を見ると頭痛、立ちくらみ、のぼせ、かっけ
 がん病、くさ、中風、淋病等の病名が載っていますが
 さほど時代の差を感じさせないのは、そうした理由
 からでしょう。
 

 安永2年、1773年 江戸中期に鷹山公は
 五十騎組の小野川荒れ地開発の労をねぎらうために 
 御宿 五兵衛で休憩されています。字 開発という
 地名が今の組合駐車場あたりに残っていますがその開発の
 名残でしょう。
  五兵衛とは、鶴屋旅館でこれが正式記録に残る小野川
 温泉旅館名の初見です。
 

 これは、館山発電所のある中世の館山城あとです。
 明治から150年、その前は、270年上杉幕藩期で
 さらにその前中世400年のうち、前期が大江長井が
 200年、その後200年は伊達が支配していました。
 西暦1200年から始まる中世400年このあたりは
 館山城主 新田(仁井田)の本領であったといわれています。
 新田は、伊達について仙台に移り、徳川の先祖新田と同名なのを
 はばかり、伊達の古名である中村を名のって
 仙台藩の重臣として残りました。 

 伊達政宗が、館山城主 仁井田の饗応で小野川に
 湯治した記録があり、中世後期に温泉宿が有ったのは
 確実ですが、その起源は推測しかありませんが、
 白布の東屋文書で佐藤荘司が温泉をひらいたという
 記録から、飯坂温泉の湯の荘司 奥州藤原の佐藤元治の
 庶流が米沢の温泉を支配した可能性が考えられます.
小野川も鶴、亀、高砂などの古い旅館は佐藤性で
 古くから温泉の内湯をもっていた可能性が考えられます。


 江戸家老をつとめた、上杉の重臣に千坂氏
 がおります。上杉幕藩初期、家臣が多かった為に
 在の村に下級武士を農耕させましたがその一派に
 千坂の家臣が簗沢村に開拓に入ったといわれており
 赤芝、笹原あたりに士族身分がいるので
 おそらく千坂の家臣の子孫でしょう。
 
 

  上杉藩政期の中後期、小野川で医師を常駐
  させてもらうように藩にお願いが出されています。
  今の旭屋さんのあたりに鈴木宗益の名が見えますが
  天保年間、清水山毘沙門堂が再建された施主の名の
  一人に、鈴木宗益のながみえます。
  

 伊達政宗は天正17年3月27日、足の骨折
 の後療法として小野川温泉に湯治していることが
 貞山公治家記録にみえます。「28日。小野川
 御旅亭において、新田義綱御膳を饗し奉らる。」
 旅亭とあるところから、1590年には宿があった
 事は確かで、新田(新井田)氏が饗膳したのは
 小野川が領地だったためかと注釈がついています。
 戦国期 新田の馬上に小野川治部の名が見え、
 新田が伊達期に小野川を何らかの形で支配していたのは
 確かです。