ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
全水道新聞に拙書「七転八倒百姓記」の紹介記事が掲載されました。光栄です。書かれたのは全水道東京水道労働組合で組織部長をされている 国谷武志さん。以下はその本文です。
山形県の農家に生まれ育った菅野芳秀さんの「自分史」。 表紙に刻まれた言葉、「地域を創るタスキ渡し」は、まさに今の私たちに求められていることだ。 都会の生活の快適さのために、地方に犠牲を強いる社会。より安いものを求める消費行動は、「効率」の名の下に農業の大規模化、法人化を促進させ、生産者や生産地を疲弊させる。気がつけば日本は世界一の農薬消費国。私たちの生活スタイルが自らの命や健康を脅かしている。 高齢化や土地の荒廃により離農が進み、国内から海外へと供給元が移りつつあるが、その構造は変わらない。 地球規模で農業が、環境が、地域が壊されてゆく。こんな社会が持続可能なわけがない。 一度は逃げ出した農業、故郷を、三里塚や沖縄の農民、漁民の生き様に学び、ただ嘆くのではなく、地域、行政を巻き込み、持続可能な社会へと変革していく。子供や大地を危険にさらす農薬空中散布の中止から、生ゴミを通じた消費者と生産地を繋ぐレインボープラン、置賜自給圏へと実践を重ね、土を育むことで台所と農地、都市と農村、現在と未来へのタスキが繋がれていく。 決して容易ではなかった闘いの記録には、これからの社会を切り拓くヒントが散りばめられている。まさに次の時代へのガイドブックである。 |
食とエネルギーと住の置賜自給圏に向けて3市5町から、予想をはるかに上回る300名を超える人たちが集まった。
その中には置賜3市5町の首長さんたち、国会議員、教育長・教育関係者、旅館組合、青果物卸組合,生協、森林組合、観光協会、・・いよいよスタートだ。 6月には社団法人「置賜自給圏推進機構(案)」として二段目のロケットに点火する予定。 ただこの中にJAの職員がお付き合い程度にたった一人だけというのが気になるところだ。 総会の様子はこのアドレスでわかります。 https://picasaweb.google.com/101120986435784579598/20140412 |
今日はご先祖様がお帰りになる日。盆の15日だ。 ダンゴを作って、送り火焚いてご先祖さまをお墓に送っていく。あっという間の三日間だった。それでもお盆の間は、こんな俺でも何かしら先祖を意識しながら過ごす特別の日だ。はたから見たら、接客がてら昼間から酒だ、ビールだと大騒ぎし、メタボの腹つき出して,だらしなく過ごしているように見えるだろうが、おさえどころはちゃんとおさえているよ。 「霊」とか「魂」などについては詳しくはないが、故人となった方々に思いをはせ、感謝の気持ちを新たにする。そんな機会はお盆やお彼岸や法事、それに日常生活のなかにもたくさんあって、村人は昔から手を合わせる機会を多く持ちながら暮らしてきた。でも、ここで紹介したいのは同じように霊や魂への感謝なのだけど、相手は人間のそれではない。牛や馬などの家畜でもない。草や木や土だ。 これらの魂をなぐさめ、感謝する碑が山形県の南部、置賜地方に60基ほど分布している。「草木塔」と呼ばれているもので1mほどの自然石に「草木塔」または「草木供養塔」という文字が刻まれている。だいたいが江戸の中期に建立されたもの。碑の一部には「草木国土悉皆成仏」というお経の1節が刻まれていることから、建立の趣旨がうかがえる。草木はもちろんのこと土にいたるまで、皆、悉(ことごとく)成仏できるということだが、先人の自然観、生きることへの謙虚さ、心根の豊かさが感じられておもしろい。えらいもんだ。 俺たちだけでなく、草も木もみんな等しく土の化身。土からいのちの糧をいただいて生きている。その点では平等だ。俺たちには草や木や土の喜びや悲しみは分からないが、生まれたからには、やはり、天寿を全うしたいはず。それなのに生きるためとはいえ、草木を倒さなければならない。刈らなければならない。焼かなければならない。本当に申し訳ないことだという謝罪と感謝の思いがその碑のなかに込められている。 山形県置賜地方には、高畠町有機農業研究会を筆頭に早くから自然と共生する農業が芽生え、俺たちの町にはレインボープランという、街中の生ゴミを土に戻すことで、森の循環の営みを人々の暮らしの中に取り戻そうという取組みが行なわれている。 これらの根っこにはこの地方に伝承されている、遠い祖先からの「草木塔」の思想があるのではないかと思っている。・・・合掌。 写真は朝日連峰を背にした我が家の遠景。前は鶏舎。ダブルクリックで拡大できます。 ...もっと詳しく |
草や木の魂をなぐさめ、感謝する碑が山形県の南部、置賜地方に60基ほど分布している。「草木塔」と呼ばれているもので自然石に「草木塔」または「草木供養塔」と刻まれている。だいたいが江戸の中期に建立されたものらしい。碑の一部には「草木国土悉皆成仏」という文字が刻まれていることから、建立の趣旨がうかがえる。草木はもちろんのこと土にいたるまで、皆、悉(ことごとく)成仏できるということだが、先人の自然観、生きることへの謙虚さ、心根の豊かさ、優しさが感じられておもしろい。
実際に見てみようと白鷹町に草木塔を訪ねた。それは森のそばの農家の庭先にあった。高さは60cmぐらいか。やはり自然石に「草木塔」と刻まれている。うかがえば江戸の後期、米沢藩から森林の管理と木材の切り出しをおおせつかったご先祖が建てたものだという。 そのご先祖が亡くなるとき「私はたくさんの草や木のいのちを奪ってきた。供養と鎮魂の碑を建ててほしい。」と願っていったという。それを受け、塔はその子孫が建立した。以来今日まで、森の切り出しはやっていないが、毎年、お供え物を添えてその碑を祀り続けてきたという。 当時の人たちにとって森の木々にいのちを感じながら、それらを伐採し続けた日々はきっと気持ちのいいものではなかったに違いない。寝覚めだって悪かっただろう。亡くなるときには、「草木の化け物が俺の周りに来て・・・」と言っていたそうだ。分かるような気がする。私ですら庭の木を伐採しなければならなくなったときには、やっぱり手を合わせてから作業に入るに違いない。きっとそうするだろう。そういえば娘が小学生のころ、道路拡張で庭の桜の木が切り倒される前日、B5の用紙に「追悼」と書いて木に貼り付け、泣きながら手を合わせていたっけ。こんな気持ちの有りようは珍しいことではない。植物と一緒に暮らす田舎では生まれやすい感情だろう。 私たちに草や木や土の喜びや悲しみは分からないが、生まれたからには、やはり、天寿を全うしたかったはず。それなのに私たちが生きるためとはいえ、草木を倒さなければならない。刈らなければならない。焼かなければならない。本当に申し訳ないことだという謝罪と感謝の思いがその碑のなかに込められている。 お彼岸が近づき、仏壇を前に手を合わせる方は多いと思うが、この機会にご先祖だけでなく、ここまで守り育ててくれた山川草木にも感謝の気持ちを表すのもいいかもしれない。 大正大学出版部 月間「地域人」37号 拙文(抜粋) |
白鷹町に草木塔を見に行ってきた。それは森のそばの農家の庭先にあった。高さは約60cmぐらいか。自然石に「草木塔」と刻まれている。うかがえば江戸の後期、米沢藩から森林の管理と木材の切り出しをおおせつかった先祖が建てたものだという。
亡くなるとき「たくさんの草や木のいのちを奪ってきた。供養と鎮魂の碑を建ててほしい。」と願っていったという。塔はその子孫が建立した。今、森の切り出しはやっていない。だけど毎年、お供え物を添えてその碑を祀り続けてきた。 当時の人たちにとって森の木々にいのちを感じながら、それらを伐採し続けた日々はきっと気持ちのいいものではなかったに違いない。寝覚めだって悪かっただろう。「亡くなるときには、草木の化け物が・・・というようなこともいっていたそうだ」と守ってきたその子孫の人が話してくれた。分かるような気がする。 オレですら庭の木を伐採しなければならなくなったときには、やっぱり手を合わせてから作業に入るもの。そういえば娘が小学生のころ、道路拡張で庭の桜の木が切り倒される前日、B5の用紙に「追悼」と書いて泣きながら手を合わせていたっけ。こんな気持ちの有りようは珍しいことではない。植物と一緒に暮らす田舎では生まれやすい感情だろう。 さて、話は変わるが、今年の春の田んぼ。本来緑であるべき畦の草が除草剤によって赤く枯れあがり、緑の中の赤い帯が縦に横に伸びていた。そんな畦は、我が家の前に広がる水田のおよそ1/3ほどになっていただろうか。草は畦を雨や陽射しから守っている。このことは誰よりも当の農民がよく知っている。だが、忍び寄る高齢化か、日々の忙しさか、おそらくその両方なのかもしれない。痛々しい風景だった。 そこには草への感謝がない。謝罪がない。崩壊しつつある日本の農業。その再生には「草木塔」の心は不可欠だと思えるのだが・・・。こんなことをしていたら本当に草や木の魂が化けて出るかもしれない。 ...もっと詳しく |
蔵王に行ってきた。スキーは15年ぶり。
これでも大回転の選手だった。高校のクラス対抗での話だけどね。 昔のウェアも何とか着れて、大平コース(4km)をノンストップで滑り下りる・・わけにはいかず 何度か、焼けるようになる太モモの筋肉を休ませながらの行程だった。 上の文章をフェースブックに載せたら短い時間にたくさんのコメントが寄せられた。「こっちの運動もやっていたのですね。」とか「ニワトリもびっくり」だとか。つまり俺とスポーツのとりあわせがしっくりこないようなのだ。このコメントに黙っているわけにはいかない。そこで書いたのが下の文章だ。 みなさま、コメントをありがとうございます。で、気づいたのですが、多くの方は私をなめていませんでしたか?スキーの滑り方、大概のものはこなしていましたぞ。生まれも育ちも雪国です。小、中、高と、冬の体育の時間はすべてスキーでしたし、校内大会ではいつも選手でした。 スキーだけではありません。40代まで、野球ではピッチャーで4番、30代にはバレーボールの地区大会でエースアタッカーを務め、優勝。 いっそのことスポーツで身を立てた方がよかったのかな・・とはいってもどちらかと言えば相撲かプロレス系ですが・・・とすら思っていたぐらいです。 百姓よりよかったんじゃないかなぁ。向いていたかも。その後は「政治家」という道も前例としてはあったわけだし(笑)。ま、この人生でも充分ですけどね。」 ...もっと詳しく |
忙しく田植えの準備を進めている。田んぼの中の仕事やニワトリの管理はほとんど息子の仕事。俺の方は1,000枚の苗箱の生育管理、玉子の配達、集金、お米の精米、出荷などで息子とは別で分けている。今日も息子は代掻きの準備で、俺は畑で野菜の作付というように。
なんだ、一緒に仲良くやっているんじゃないのかという向きもありましょうが、体験的にいうと、息子と父親はなるべく一緒に仕事をしない方がいいとおもっている。必ずそこに意見の違いが生まれ、感情のシコリのようなものができてくるからね。俺と親父の場合はそうだったなぁ。 私の父は化学薬品、化学肥料の信奉者だった。やたら肉体を絞るだけの苦しい農作業の時代から、化学の力でようやく解放された世代なのだから当然だとも思う。農村でも腰の曲がった老人を見かけなくなったのもこの力に負うところが大きい。 化学を疑う俺の考えややり方をあまり信用していなかった。 “苦しかった時代になぜ戻るんだ?頭だけが先走ってはだめだ。身体がついていかないだろう。うまくいく訳がないではないか” というのが親父の考えだったのだろうな。心配していたのだろう。ことあるごとに意見は対立したよ。私の気持ちが楽になったのは完全に任せてもらえるようになってからだ。 世代は代わって、俺と息子。息子が農業を始めてしばらくしたら、ところどころで意見の違いが出るようになった。ヤバイ・・同じことを繰り返す。ここは息子に任せよう。よしんばそれで失敗したとしても、それはそれで息子の経験になるものだ。そばにいれば口を出したくもなる。今はできるだけ一緒には仕事をしないようにしよう。 もちろん、相談を受けたらその限りではないし、手を貸してと言われればすぐに行くんだけどね。 息子から見たら、一番大変な作業をしない、単なるグータラ親父と映っているのかもしれないけれどな。でもよ、これが一番いいんだって。 写真は朝日連峰を背にしたわが村の全景です。 ...もっと詳しく |
今日で稲刈りが終わりますが、農繁期はまだ続きます。ブログはなかなか書けません。そこで、昨年ある雑誌に書いた文章をここに載せました。これなら他にもあります。2,3日後、また違った文章を載せますのでおいで下さい。えっ、この話は以前見たぞ、同じような文章はのっけているではないか・・・とか、いい分はおありでしょうが、ま、いいじゃないですか。
我が家の農業経営は、水田2ヘクタールに畑が少々、それに自然養鶏900羽。山形県の朝日連峰の麓、純農村地帯の一隅で農業を営んでいる。80代の両親と50代の我が夫婦。そこに昨年4月、農業専門学校を終えた息子が帰ってきた。以来、今日まで、田んぼだ、畑だ、ニワトリだとよく働いている。 「あんなに働いてくれて悪いなぁ、もごさいなぁ(かわいそうだなぁの意)。家のためなら、うんといいけど・・。でも、よろこべないなぁ。気の毒なような、かわいそうなような・・。こんなことさせていていいものか?このまま歳とらせていいものかといつも思っているよ。」 息子が出かけた夜に、88歳の母親はため息まじりに話す。 「家の犠牲になっているのではあるまいか。本当に百姓すきならいいけど、でもそうでなければさせられない。もごさくてよぉ、あの子のこと・・・。」 現在の日本農民の平均年齢は60代後半。我が村の農家の平均年齢も67歳。昼間は田畑にほとんど若い人の姿は見当たらない。 お米は20年前と比べ、一俵(60kg)あたり、1万円も安い。それに3割を超える減反があり、野菜は洪水のごとく海外から押し寄せ・・と、まぁ、こんな按配だ。若い人はとても就農できない。 百姓仲間の造語に、「とき(時)が来る。トキになる。」という言葉がある。時代は生命系の回復に向かい、農業の価値がみなおされようとしているとは言うのだが、その到来をまえに、われわれ百姓は「佐渡が島のトキ」になっちまうよ、という意味なのだけれど、実感だ。 日本に農業はいらないのかい?日本の穀物自給率はたったの27%。世界でも最低ラインに近い。「飢餓の国・北朝鮮」とはいうけれど、それだって穀物自給率は日本の倍の53%だ。日本の食糧事情はすでに破綻している。輸入によって事実が隠されているにすぎない。 「もうすこし、あの子も世の中見えるようになれば、まだ歳若いから、大丈夫だから・・、何して生きていくか考えんなねごで。」 88年間、いろんなものを見てきた母が、農業では幸せにはなれない、離れたらいいと話す言葉には説得力がある。でも、息子は充分そのことを知った上で、農業をやろうと帰ってきた。その気持ちが続く限り、それを支えてあげなければと思う。 ...もっと詳しく |
朝の5時ともなればあっちからもこっちからもトラクターの耕耘の音がゴウゴウと聞こえてきます。 この活気は田植え時期と稲刈り時期の年に二度だけなのですが、高齢化しているとはいえ農民はイキイキしていて、 俺が主役だ、文句あっか? 年寄りたちのこんな顔を見るのは久しぶりです。 彼らは早起きが得意だから、率先して田んぼに飛び出して行くわけで、若い衆はその音で目が覚めてしまう。 寝てなんかいられません。 そんなわけで、村の活気は年寄りたちが引っ張っています。 |
種籾の消毒が終わった。 モミを60度のお湯に5〜7分ほどつけたあと、今は水の中に浸している。 いよいよだ。 春ははじまり。 今年から田んぼが5反ほど増える。 その田んぼは今まで82歳の栄さんが近所の人から借りていたものだ。自分のものを含めて1・3hほどの水田を耕していたが、いよいよできなくなった。それがこちらに回ってきた。 栄さんにとって午後の3時過ぎは晩酌の時間で、夕方、話があるからと言うので行ってみたら、やっぱりいっぱいやっていた。歳に似合わずウイスキー党。水割りを飲みながら、あずけたい田んぼの説明をしてくれた。 「自分の田んぼは作れるのかって?当たり前だよ。まだまだ大丈夫だ。それに孫がやってみたいと言っているしよ。」 孫は20歳で工場に勤めているが、あまり仕事がなく、週に3〜4日も行けばいいので田んぼをやってみたいのだという。 「機械はまだ動くしよ。孫がやりたいというんじゃ教えなくちゃな。」 栄さんは張り切っている。まだまだ現役だ。 先日、70歳になる豊さんから「俺の田んぼを3反ほど買ってくれないか。」と電話があった。ちょっと前なら一反で120万はした田んぼ。去年豊さんはその田んぼ3反を120万円で買ったばかりだ。それを今年、90万円で手放したいと言う。何があったのだろう。「いや、ちょっとな・・・・。」と豊さんは口を濁して語らなかったが、よくよく困ってのことだろう。何とかできないかと息子と相談したが、断らざるを得なかった。我が家にも余裕はない。 隣の建ちゃんは74歳。ひざが痛いと足を引きずりながら歩いている。奥さんは建ちゃん以上に足が悪い。彼は4hの田んぼをほとんど一人でやっている。もう、苗箱に土入れ作業をやっていた。 「早いなぁ、建ちゃん。」 「うん、にわかなことはできないからよ。少しずつやっていかないとな。」 作業の手を休めて笑顔で応えてくれた。建ちゃんには笑い顔が似合う。 専業農家の道さんのところに行ったら、一人で庭木の雪囲いをはずしていた。息子は生産組合の研修で泊まりだという。息子といっても46歳。まじめに働く好男子なのだが、まだ独身だ。 「なかなか来てくれる人がいなくてな。誰かいいひといないかな?」 73歳の道さんにとって、息子の行く末が心配だ。 栄さんから引きついだ田んぼの持ち主と小作料について話し合ってきた。 「何ぼでもいいんだ。お互い様だから・・。」と、安い米値段にいたく同情され、励まされて帰ってきた。 村の春。 さまざまな春。 いろんな思いを持ちながら、田んぼの季節が始まっていく。 ...もっと詳しく |
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学校の連絡帳に「明日は〇〇作業のために学校を休みます。」と書いて持たせたことはしばしばあった。その度に担任は「がんばってね。」と返事をくれた。〇〇には田植えや稲刈り、雪下ろしなどが入るのだけれど、けっこう休んで一緒に田畑や屋根の雪の上で過ごした。期間とすれば保育園年少から小学校2年ぐらいまでだろうか。保育園はともかくとして、学校の担任はよく了解してくれたものだ。当時の学校には感謝している。
それも「おれ、稲刈でなく学校に行きたい」と言い出したことで終わった。 いま、娘は関東だけれど、息子は我が家の農作業の中心で働いている。
96歳の母親は、「もっと違う道もあっただろうに、農業なんてかわいそうだ」と言うが、本人はいたって前向きに頑張っているよ。もちろん、この選択と姿勢が幼少時の体験とどう関係するかはわからないけどね。
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