ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
800haの田んぼを前に立小便をする。
放出しながら、稲刈りが終わったあとの広大な水田風景を見わたす。横たわる朝日連峰を眺める。田んぼを渡る風はほのかにわらの香りを運ぶ。薄くなってきた頭髪がさわやかに揺れる。山々は少しずつ赤みをまし、天は高く、心地いいことこの上ない。 山での、畑での、野原での、もちろん便所での・・・いろんな放尿があるけれど、やっぱり田んぼのこれが一番いい。タヌキやカモシカなどと一緒。いのちが満ちる母なる大地を通して食と排泄の滑らかな循環がめぐっている。でも、こんな理屈いらないね。理屈抜きで大好きだ。 かつて娘が小学生のころ、「お父さん、外でおしっこしないでね。今日、学校で先生が、西根は遅れている。立小便している人がいるからっていってた。恥ずかしかったよ。」 西根というのは娘の通う学区で長井市のなかでも農村部だ。もちろん誇りある俺たちの村。そばにいた妻も「そうだ、そうだ」という。 な、な、なにおぉぉ!オレのおしっこ、誰かに迷惑をかけたか?ここは都会のアスファルトの上じゃない。田畑に吸い込まれ、土の養分となって草や作物に活かされていくだけじゃないか。自然のめぐりだ。それだけじゃないか。 お前達だって立ち小便すればいいんだ。オレが子どものころには、ばあちゃん達はみんなやってたぞ。女の立ち小便はガキの俺達から見たってなんの違和感もなかった。普通の光景だった。 あのな、この際だからいうけどな。お前達の自覚の無さゆえ、あるいは都会の文化に無批判に迎合する浅薄さゆえ、今まさに大事なものが消え失せようとしているんだ。なにをかって?女たちの立小便にかかわる文化だ。方法や作法だ。あのな、それは、はるか縄文の大昔から、ついこの間まで、母から娘に、娘から孫へと、ずうーっと受け継がれて来たはずだ。腰の曲げ方、尻の突き出し方、両足の広げぐあい、隠し方など・・・。その歴史的文化が、まさにいま、ここで潰えようとしている。いまやそれを知る人は80代以上の女性、それもほとんど田舎の女性のみとなっている。やがて彼女らがいなくなったら、知っている人は日本列島から完全に消えてしまうだろう。どのようにその文化を伝承していけばいいのか。それを考えたら夜も眠れない。 オレは男だからしょうがないけれど、お前達のなかに、我こそは・・・という志をもった人間はいないのか!その復権を!という人間はいないのか! 循環の時代だというのに! 話の途中から、妻娘はいなくなっていたが、まぁ、失ったものの大きさに、あとで 後悔するだろうさ。残念だが、せめて銅像でもたてて、その最中の姿、形を後世に残したいものだと思っている。俺間違っていっか?どんなもんだべ? 写真は・・・載せられないよなぁ。 ...もっと詳しく |
「誰にも責められてはいないが、みんなに責められている気持ちだ。」
白鷹町の友人の牛が放射線に汚染されたワラを食い、出荷した4頭の牛の肉から1kgあたり55〜290ベクレルのセシウムが発見された。彼は50頭ほど飼っている米沢牛の畜産農家で、上はその彼の言葉だ。 4月、彼は被災地の宮城県石巻近郊にボランテイアの炊き出しに行った際、以前取引のあった近くのワラ業者に電話をし、何か力になれることはないかと尋ねたところ、「俺もワラ屋だからね。」tと応えたという。分かってくれということだ。 自分の田んぼの稲ワラを与え、牛の堆肥をその田んぼにかえす。彼はかねてよりこのような牛と田んぼの小さな循環を大切にしていた。儲かるからといってやたらに牛の頭数を増やそうとせず、自分の管理している田んぼの面積に応じて飼う。これが彼のやり方だった。今年もワラは充分だったが、震災の渦中にいる業者の言をうけ、一台ぐらいならばと引き受けた。まさか宮城県北部の大崎平野の田んぼのワラまで放射能で汚染されていたとは考えられなかった。 ところで私はワラは秋に田んぼから厩舎に取り込むものと思っていたので、春になぜ汚染したのかが分からなかったが、雪国以外のところでは田んぼに散在していた稲ワラを春に取り込むことは広く行われていることだという。 国や県の関係機関がもっと早く事態を察知し、指摘してくれたなら対処の仕様もあったのにと思うと残念だ。関係者は牧草の汚染を知り、注意を呼びかけていたのだから、ワラの汚染にも当然気づいていたはずなのだろうが、やっぱり宮城県北部までとは思わなかったのだろう。 牛肉から検出されたセシウムの量は国が定めた暫定基準の500ベクレル( アメリカは1200ベクレル、カナダは1000、EUは1250、WHO、FAOは1000)よりはずっと下回っている。しかし、マスコミは「山形県の牛から・・」とセンセーショナルに報じ、県は「疑いのある牛」の個体識別番号をインターネットなどで公表した。その後、全てが基準値を下回っていることを強調したのだが遅かった。今、牛肉は記録的な安値をつけている。 牛肉の取り扱い業者は「低い数値とはいえ、一方にゼロがあるのだから売れないだろう。」といっているという。畜産農家にとっては切なく、深刻な話だ。彼は「新聞やマスコミで報じられて以降、稲ワラ業者、畜産農家、食肉業者は被害者なのだが、加害者のようになってしまっている。」と話す。実感だろう。 県は宮城県などから稲ワラを買っていた112戸の畜産農家に対して出荷自粛を要請した。出荷時期になっても出荷できず、餌を食べ続ける。さらに買い手が付かないとすればその被害は甚大だ。 政府は基準値である500ベクレルを超える被害については国が全頭を買い上げるといっているが、それ以下は対象外としている。 誰が彼らをまもるのか。 ...もっと詳しく |
誰だっけ?
少し前の事だけど、早朝、道路近くで農作業をしていたら、私より少し年上の人が散歩しながら近づいて来て親しそうに話しかけてきた。その人はシッカリとマスクをかけ、おまけに深く帽子をかぶっている。誰なのかが良く分からない。しばらく軽く話を合わせた後で、 「どなたでしたっけ?」と尋ねた。 「えっ、俺が分からないか?俺だよ、俺!」 彼は笑いながらマスクと帽子をとった。 「あぁ、な〜んだ。ようやく分かりましたよ。マスクだし、帽子だし・・、どなたなのかが、全くわかりませんでした。散歩ですか?」 「うん、ここのところ足腰が弱ってきているのでな。歩けなくなったら困るからよ。」 そう言って彼はマスクを着けなおし、帽子をかぶって歩いて行った。 彼の背中を見ながら私は・・はて・・誰だっけ? いや、ホント。こんなことが最近増えて来ました。 そうなんですよ。このFBを読まれる方の中にも、私とほぼ同世代の方がいて、きっと「ある、ある・・」となりますよね。 |
炭水化物をとらないできた9日間だけど、あらためてインターネットを読み、
調べてみたら、この方法は結構むずかしいんですね。 「炭水化物が分解された状態である「糖質」は脳の唯一の栄養素であり、全く摂らなければ脳が正常に働かず、ボーっとした感じが続いたり、集中力の低下や無気力を引き起こします」 だと。 小さな脳のキャパしかない中で、目いっぱい生きているのに、これでは話になりません。 確かに最近はどこかボーとしていることが多いような気がしていた。 やばかったねえ。 方法を替えなければ・・。 で、いただいたコメントを活かしながら、 1、 玄米をよく噛み、1日三食、子ども用のお茶碗に山盛り1杯 2、 寝る前2時間は食べ物を口にしない。 3、 夜お酒を飲むときは、ご飯は抜く 4、 朝ご飯の前に有酸素運動を心掛ける。 5、 間食はしない。 6、 朝晩体重を測る。 そばで94歳の母親は 「百姓がダイエットをしてどうするんだ。百姓は働いて痩せるものだよ!」と言っている。 ...もっと詳しく |
10月31日の私の誕生日に際し、たくさんの方からお祝いメッセージをいただきました。ありがとうございました。
1949年(昭和24年)に生まれ71歳になりました。 ですが、生き方を決めるのは自然年齢ではありません。志と情熱です。 このままならば、植民地日本に生を受け、植民地日本で没することになりかねません。農民だからと言って農業にだけ関心があるわけではありません。日本の独立、その夜明けを見ない内には死にきれない。正直に言ってそんな気持ちです。 沖縄も、原発も、農業も・・このままでいい訳がない。このままでは数百万人の戦死者と戦争犠牲者に対して申し訳ない。あらためてそう思います。子々孫々に恥じない日本、社会を残すこと。 路傍の小石の身であろうとも、そんな希望の道を創る一粒にはなれるし、なりたい。ならなければならない。 誕生日にあたって改めてそう思います。 今まで以上のご鞭撻をお願いいたします。 |
志を生きようとする人にはそれにふさわしい体形があるものだ。
それがその人の説得力や求心力を構成する場合もある。言葉でいくら説いても本人の体系がそのことを嗤っているようでは話にならない。 私は190cmで103kg。体重が多いのがかねてからの課題だった。 何とか減らし、説得力ある身体を獲得したいというのがここ数十年の課題だ。 決意は幾度かした。その為の努力もした。本も読んだ。知識もある。 「志と体型の乖離を埋めなければならない。だから・・」と周囲にもそう宣言し、後戻りできない環境作りも行った。 だけど成果はいつも2〜3kg減。外見が痩せて見えるほどのこともなく終わる。そして・・、2〜3ヶ月でもとに戻ってしまうのだ。 ある時、断食に詳しい友人がいて、話の成り行き上、私もやってみることにした。背景には我が家で飼っているニワトリたちがいた。彼らは玉子を産み始めてから1年後に「断食」する。養鶏法の一つなのだが、驚くことに、断食の後、彼らの羽が全て生え変わり、外見上も、産む玉子も若鶏のようになっていくのだ。 かねてより、そのためとはいえ、ニワトリ達に断食を強いて来た身としては、当然のことながらその辛さを一度体験しなければなるまいと考えていた。その副産物として私の頭髪が生え変わり、身体もスリムになって行ければいい。 で、やったのですよ。それもニワトリ達と同じく2週間。彼らと違うのは 一日に必要なビタミン、ミネラルを錠剤でとり、プロテイン(タンパク)を牛乳瓶1・5本分ほどの水に溶かして飲むというところ。三度の食事はそれだけで、あとは水かお茶。それ以外は一切の食べ物、飲み物を口にせず、カロリーを遮断する。 これがどこかの「断食道場」でのことならばよくある話だ。でも食べ物に囲まれた我が家で、それも鶏の仕事をしながらというのは果たしてできるだろうか。こんな不安もあったが、やれたのですねぇ。 ま、ここからの顛末を聞いてください。やがて何かの参考に・・なるわけないか。 さて、絶食してからの3、4日間が一番つらかった。そのつらさが、日を負うごとにどんどん増していくのだろうと思っていたら、そうではなく、その空腹感がずーっと続くだけ。これはちょっとした発見だった。当然のことながら、頭から食べ物が離れない。コンビニにも行った。アンパンが目に付く。もしそこで食べたって誰も怪しまない。でも自分が見ている。そこは譲れない。 5日目ぐらいになると少し感じが変わってくる。たぶん、空腹に慣れ、余裕のようなものができてくからだろう。家族の食卓のすぐそばにいても、ゆっくりと新聞が読めるようになった。おもしろいのは、自分の身体の主人公は自分だ、自分の意志だという満足感が生まれてきたことだ。今までなら、もう食べないと思っても、身体の方が言うことを聞かない。欲望に振り回されていた。ところがこの頃になると、自分の意志が食欲を完全にコントロールしているという充実感、何かすがすがしい自信のようなものが生まれてきた。これは新鮮な体験だった。 さらに進むと「俺はこのまま食欲を封じ込めたまま、死ぬことだってできる。」こんな自信すら生まれて来た。 そして2週間。父親からは「戦争から帰って来た息子に家族がそれ喰え、やれ喰え・・で死なしてしまった話があったから、とにかくお粥から少しずつだよ」との助言を得ていた。最初に口にしたのは少しのお酒と味噌汁。翌日はバナナ。酒はとても甘く、みそ汁は逆に塩辛く感じた。農閑期の冬だったが、それでも雪下ろしや、ニワトリ達へのエサやりはいつもどおりにできた。少し動作がゆっくりだったり、時にはふらつきもしたけどね。 減った体重は10kg。体脂肪率も10%ほど落ちた。 病院で腎臓、肝臓、コレステロールなどの数値がどう変わったかを調べてみたら、全てにわたって改善されていて、医者は「驚きですねぇ。何かありましたか?」と。なるほど、これがニワトリにとっての断食効果か。私もなんとなく若返ったような気がしないでもない。 でも、頭髪は薄いまま。彼らのように若毛が生えてきたりはしなかった。 それに肝心の体重はね、半年ほどで元に戻ってしまったよ。 大正大学出版会「月間地域人」より 拙文 |
秋の空は変わりやすい。
裏日本の気候は特にそうだ。午前中は晴れていたと思ったら、午後には曇りとなり雨が落ちてくる。 困るのは外に干している洗濯物や布団。へたすると間に合わずに雨にあててしまうことになる。秋に入ればこんなことはいつものことだ。 さて、昔からこのように移ろいやすい秋の天気を、これまた変わりやすい男心にたとえ「男心と秋の空」といってきた。近年『女心と秋の空』などと言われたりもするが、たとえの始まりは「男心」の方がであって、「女心」ではない。開いたことはないが、広辞苑などにもそのように掲載されているらしい。 ちょっと前になるけれど、我が家に東京から男4名、女4名の8人の友人が訪ねて来たことがあった。それぞれが社会運動に何らかの形でかかわっている人たちだ。全員理屈はたつ。 秋の空はそもそも「男心」か「女心」か・・・このことをめぐって議論になった。「男心」と言ったのは俺一人で、あとは全員「女心」。シャンソンから、あるいは東西の詩から・・、あれやこれやと「女心」であることの理屈を並べる。頭でっかちの世間知らずが!! 男と女ではことにあたっての腹のすえ方が違うんだよ。ちょこっと世の中を見渡してみても、女のほうが「決意」を育てながら人生を送っていることが分かる。どんなに屁理屈を並べようと移ろいやすいのは「男心」であることに変わりはないべ。 「そうか、それじゃお酒一升を賭けよう。負けたほうが勝ったほうにお酒を一本送るんだ。」 一対八の勝負。みんなで調べてみた。その結果は・・・やっぱり俺の勝ち。「男心」だった。ざまぁ見ろ。いっぱいの理屈をこねたあとだけに、彼らの落ち込みは大きかった。源氏の若旦那の例を持ち出すまでもなく、男なんて・・・なっ。まぁ、彼らにはいい薬になっただろう。八人全員が俺にお酒を送ることを約束して帰っていった。 後日、お酒が届いたのは女からだった。女の全員がそれぞれにお酒を送ってくれた。でもな、男からは一本も・・一人も送って来なかったよ。 やっぱりな・・・、ここでもまた証明された。ほんに移ろいやすいは「男心」だ。どうしようもないね。 社会運動でも政治運動でも、俺はもう女しか信じないな。男はだめだ! (以前、書いた短文から) |
「値上げしないの?」
「無理をしないで下さい。値上げして頂いても大丈夫ですよ。」 こんなありがたい声を複数、戴きました。確かに燃料代や諸材料費は軒並み上がっていますが、今年は何とか持ちこたえられます。一番大きいのは肥料代がほぼゼロであること・・と言えば誤解が生ずるかもしれませんが・・。 自然(放牧)養鶏の発酵鶏ふんと、レインボープラン堆肥とで肥料の全てをまかなうことが出き、化学肥料はゼロ。そのためウクライナがもたらす化学肥料の高騰や中国からの資材の高騰の影響は比較的受けていません。ただ、丹念に2種類の堆肥を圃場に撒く為、労働費が化学肥料よりはかかってしまうという事ですが、これは毎年の事ですし、自家労働であるために、お金の出し入れはありません。 また、農薬も値上がりしていますが、もともと菅野農園では農薬の助けを必要最小限としているため、値上がりの影響も大きくはありません。 問題は燃料代、機械代、資材代など。特に一台数百万円の大型農機の更新には耐えられそうにありません。国の補助は大規模を目指す農業法人などにのみ集中して、小さな農家には一切出ません。壊れたらその時点で離農かどうかを迫られる。化学肥料代ゼロ、農薬代ゼロと努力してもいつも崖っぷちです。この国には農民のやる農業は要らない。そもそも農民は要らない。よって農村は要らない。そういう事でしょう?えっ、違う? |
長井市ではレインボープランという、生ゴミと農産物が地域の中で循環する事業が行われている。他方、長井市を含む、山形県南部の置賜地方(3市5町)では食やエネルギーなどの地域自給をめざす置賜自給圏づくりが進んでいる。 私はそれらの事業に参加してずいぶんになるが、農作業の合間をぬってのとても忙しい日々が続いている。そんな私を支えてくれるのは「地域のタスキ渡し」という世界だ。耳慣れない言葉だと思う。何しろ私の造語なのだから。 私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期がある。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいと思う地域を逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。その文脈で生きて行くことが、これから始まる私の人生だと考えるに至り、農民となった。その転機を与えてくれたのは沖縄での体験だった。 76年、25歳の私は沖縄にいた。当時、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立て、石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。私がサトウキビ刈りを手伝っていた村はそのすぐそばだった。小さな漁業と小さな農業しかない村。 「開発に頼らずに、村で生きて行くのは厳しい。だけど・・」と、村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れて来る子孫にとっても宝だ。苦しいからといて石油で汚すわけにはいかない」。 これは多くの村人の気持ちでもあった。その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げ出さなくてもいい村をつくって行きたい。俺たちの世代では実現しないだろうが、このような生き方をつないでいけば、いつかきっといい村ができるはずだ。」 私はその話を聞きながら、わが身を振り返っていた。彼らは私が育った環境よりももっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を未来に、子孫へとつなごうとしている。この人達にくらべ、私の生き方の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたったとき、涙が止めどもなく流れた。泥にまみれながら田畑で働く両親や村の人達の姿が浮かんだ。 それから数ヵ月後、私は山形県の一人の農民となった。 村には以前と同じ風景が広がっていた。しかし、田畑で働くようになって始めて気がついた。開墾された耕土や、植林された林など、地域の中のなにげない風景の一つひとつのものが、「逃げなくてもいい村」に変えようとした先人の努力、未来への願いそのものだったということに。私はその中で守られ、生かされていた。楽しみの先送り・・こんな言葉が浮かんだ。 その日から、私は風景があたたかな体温をともなったものとして見えるようになった。ようやく「地域」がわかった。「地域」が大好きになり、同時に肩にかかっている「タスキ」を自覚できるようになった。 その後の、農薬の空中散布反対の取組み、そしてレインボープランと・・・。私をこのように動かすものは、地域の風土の中に流れる先人の体温と、私の身体にかかっている「タスキ」への自覚である。 ・・・ということなんですが、少し、肩に力が入いりすぎていますね。若いですねぇ。カッコつけてますねぇ。 趣旨はお分かりいただけるかと思います。百姓仲間の友人がいいます。「菅野は農業をやりたくて農民になったのではなく、地域を変えたくて農民になったんだよな。」って。きっかけはその通りでしたね。これが私のベースです。 |
大変長らく留守にしていました。ようやく外の仕事はひと段落、まだ年賀状は書いていませんがそれは例年のことで、1月になってから書けばいいや 。やれやれです。 家主が不在の間、山さくらさんや種子原人さんにルスを守っていただきました。ありがとうございました。 さて、書きたいことがたくさんたまっているのですが、肝心の「地域のタスキ渡し」について、まだ書いていないことに気づきました。一度正面から書いておく必要がありますよ、これは。なぜならばこの「地域のタスキ渡し」こそ、私の原点だからなんですよ・・・なんてね。気負ってみても今はそんな時間はない。だから・・・、以前、朝日新聞の山形版に同じ題名で書いたものがあるんですね。もう少し若い頃のものなんです。同じことなのでそれを掲載させてください。ちょっと硬い文章ですけどがまんしてくださいな。 長井市ではレインボープランという、生ゴミと農産物が地域の中で循環する事業が行われている。 私はこの事業に参加して15年(当時)になるけれど、それは、農作業の合間をぬって飛び回るとても忙しい日々だった。そんな私を支えてくれたものは「地域のタスキ渡し」という世界だ。耳慣れない言葉だと思う。何しろ私の造語なのだから。 私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期がある。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいと思う地域を、逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。その文脈で生きて行くことが、これから始まる私の人生だと考えるに至り、農民となった。その転機を与えてくれたのは沖縄での体験だった。 76年、25歳の私は沖縄にいた。当時、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立て、石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。私がサトウキビ刈りを手伝っていた村はそのすぐそばだった。小さな漁業と小さな農業しかない村。 村からは多くの人が安定した生活めざして「本土」へ、あるいは外国へと出て行っていた。「開発に頼らずに、村で生きて行くのは厳しい。だけど・・」と、村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れて来る子孫にとっても宝だ。苦しいからといて石油で汚すわけにはいかない。」 このように子孫を思いながら反対する。これはほとんどの村人の気持ちだった。その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げ出さなくてもいい村をつくって行きたい。俺たちの世代では実現しないだろうが、このような生き方をつないでいけば、何世代かあとには、きっといい村ができるはずだ。それが俺達の役割だ。」 この話を聞きながら、わが身を振り返り、私は大きなショックを受けていた。彼らは私が育った環境よりももっともっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を未来に、子孫へとつなごうとしている。 この人達にくらべ、私の生き方の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたったとき、涙が止めどもなく流れた。泥にまみれながら田畑で働く両親や村の人達の姿が浮かんだ。 それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。 村には以前と同じ風景が広がっていた。しかし、田畑で働くようになって始めて気がついた。開墾された耕土や、植林された林など、地域の中のなにげない風景の一つひとつのものが、「逃げなくてもいい村」に変えようとした先人の努力、未来への願いそのものだったということに。それらの努力と願いの中で私は守られ、生かされていたのだ。 風景はあたたかな体温をともなって優しくせまったくるのを感じた。ようやく「地域」がわかった。そして私は「地域」が大好きになり、同時に肩にかかっている「タスキ」を自覚できるようになった。 その後の、減反反対や農薬の空中散布反対運動、そしてレインボープラン・・・。 私をこのように動かすものは、地域の風土の中に流れる先人の体温と、私の身体にしっかりとかかっている「タスキ」への自覚である。 ・・・ということなんですが、少し、肩に力が入いりすぎていますね。若いですねぇ。カッコつけてますねぇ。 表現はゴツゴツしてるけど、趣旨はお分かりいただけるかと思います。百姓仲間の友人がいいます。「菅野は農業をやりたくて農民になったのではなく、地域を変えたくて農民になったんだよな。」って。きっかけはその通りでしたね。これが私のベースです。 ...もっと詳しく |
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ご心配いただきましたが、3泊4日の入院で帰ってまいりました。
今は入院する前と全く変わらない状態で日常生活を送っています。
皆さまにはコロナ対応でお忙しい所、私事でお気を煩わせることになってしまい、とても恥ずかしく、かつ恐縮しています。
また、私がベットに寝込む前に発した3〜4000kgのお米につきまして、皆様から我が農園の所有する数倍に匹敵するご注文を戴きました。
皆様のお気持ちに心から感謝申し上げるとともに、心苦しいですが、とてもすべての方々にお届けすることが不可能であることを申し上げ、この場を借りてお詫び申し上げたいと思います。
またお届けする場合でもお時間をいただかなければなりません。
その旨、お一人おひとりにメールをお出しすべきですが、誠に申し訳ありませんがその数があまりにも多すぎてそれも不可能です。
勝手ながら一斉メールにてお許し下さい。
どうぞよろしくお願いいたします。