ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
かるーいお茶のみ話です。ぼくの文章はどれをとってもそんなモンなんですが、これは特にそう。申告のための作業が終わってほっとしていたら、ふっと、書きたくなっただけなんです。「ほっと」で「ふっと」なんですよ、あくまで。誰にでもある青春時代の・・・。
早朝の4時、18歳の私は、自転車に270部ほどの新聞を積み、まだ暗い東京の住宅街を走っていた。途中で自転車を止め、新聞を一抱え持っては路地を抜け、階段をかけ上がり、ハッハッハッと息をはずませ、配ってまわる。まだ日が昇らない暗い家並みのなかに「沈丁花」の香りが漂っていた。 朝刊と夕刊の間に大学に通い、日曜日は集金で終わるそんな日々の始まり。新聞店の二階の作業所に作られた二段ベットのひとつがぼくの部屋。作業所とはカーテンで仕切られた一畳半のなかに小さな机をおいて本を読み、その下に足を突っ込んで寝る。汚れた窓を開ければ、隣の飲み屋の排気口があって、たえず、焼き鳥の黒い煙を吐き出していた。 それでも東京のひとつひとつの風景が面白く、出会う人それぞれが新鮮に思え、決してつらくはなかった。なによりも、ここからぼくの人生が始まっていくのだと、「青雲のこころざし」に燃えていたのだから。 すでに兄を私大に送っていた我が家の家計はきびしく、どう考えても大学への道は閉ざされていた。そもそも高校を卒業すれば農家を継ぐ、それが普通高校に通う条件となっていて、進学は高校入学の時からあきらめざるを得ないとおもっていた。 そんなぼくにも大学への道があるのだと、小躍りするような世界に出会えたのは、もうじき高校三年生という年の三月だった。なにげなく新聞をめくっていたぼくの目に、「朝日新聞奨学生募集」という囲み記事が飛び込んできた。そこには授業料、初年度納入金、衣食住など、大学に通う上で必要なほとんどのものが補償されると書かれていた。条件は東京での新聞配達。大学に行けるかもしれない! ぼくは高校一年からの勉強をやり直した。浪人する余裕はなく、時間が足りない・・・。どうせ農業だからと、それまでほとんど使わずにさび付いていたぼくの記憶装置は、ぎしぎしいいながら動き出した。 今年も「沈丁花」がその甘い香りを放ち始めている。その香りのなかでぼくは40年前の「春」を思い出す。 ...もっと詳しく |
我が家の庭の雪が消え、沈丁花の花が咲いた。
あの春の香りが漂っている。 私の青春の香り。 以下は以前に書いたものです。 お暇なときにでもご笑覧ください。 <以下> かるーいお茶のみ話です。ぼくの文章はどれをとってもそんなモンなんですが、これは特にそう。申告のための作業が終わってほっとしていたら、ふっと、書きたくなっただけなんです。「ほっと」で「ふっと」なんですよ、あくまで。誰にでもある青春時代の・・・。 早朝の4時、18歳の私は、自転車に270部ほどの新聞を積み、まだ暗い東京の住宅街を走っていた。途中で自転車を止め、新聞を一抱え持っては路地を抜け、階段をかけ上がり、ハッハッハッと息をはずませ、配ってまわる。まだ日が昇らない暗い家並みのなかに「沈丁花」の香りが漂っていた。 朝刊と夕刊の間に大学に通い、日曜日は集金で終わるそんな日々の始まり。新聞店の二階の作業所に作られた二段ベットのひとつがぼくの部屋。作業所とはカーテンで仕切られた一畳半のなかに小さな机をおいて本を読み、その下に足を突っ込んで寝る。汚れた窓を開ければ、隣の飲み屋の排気口があって、たえず、焼き鳥の黒い煙を吐き出していた。 それでも東京のひとつひとつの風景が面白く、出会う人それぞれが新鮮に思え、決してつらくはなかった。なによりも、ここからぼくの人生が始まっていくのだと、「青雲のこころざし」に燃えていたのだから。 すでに兄を私大に送っていた我が家の家計はきびしく、どう考えても大学への道は閉ざされていた。そもそも高校を卒業すれば農家を継ぐ、それが普通高校に通う条件となっていて、進学は高校入学の時からあきらめざるを得ないとおもっていた。 そんなぼくにも大学への道があるのだと、小躍りするような世界に出会えたのは、もうじき高校三年生という年の三月だった。なにげなく新聞をめくっていたぼくの目に、「朝日新聞奨学生募集」という囲み記事が飛び込んできた。そこには授業料、初年度納入金、衣食住など、大学に通う上で必要なほとんどのものが補償されると書かれていた。条件は東京での新聞配達。大学に行けるかもしれない! ぼくは高校一年からの勉強をやり直した。浪人する余裕はなく、時間が足りない・・・。どうせ農業だからと、それまでほとんど使わずにさび付いていたぼくの記憶装置は、ぎしぎしいいながら動き出した。 今年も「沈丁花」がその甘い香りを放ち始めている。その香りのなかでぼくは40年前の「春」を思い出す。 |
20数年続けて来た無農薬田に農薬散布が避けられなくなった。
「お米通信」6月号は「イネミズゾウムシ」。まずその抜粋を読んで欲しい。 「一見、おだやかに見える田んぼの中にも、すでに害虫たちの『活躍』が始まっています。イネミズゾウムシです。40年ほど前に東南アジアの水田から輸入資材に混ざって日本に上陸し、田植え直後の苗の葉肉を食べ、葉網を残します。ひどい場合は田んぼが白っぽく見えるほどになり、収量はほとんど見込めなくなります。 対応策は食用油の散布。彼らは夜、水底に生息し、日が昇ると茎伝いにはい上がってきます。その習性を利用し、あらかじめ水面に食用油を撒いておく。彼らが水中から外界に出るときに身体は油に包まれ、窒息するという仕掛けです。 ですが殺虫剤ではありませんので全滅はありません。被害を低く抑えるだけです。時にはこの方法では抑えきれない時もあります。今年のお米はどうなるか・・。殺菌剤、殺虫剤ゼロの稲作はどこまで行っても緊張が続きます。」(お米通信) 2か月経過した。無農薬田の60aに「イネミズゾウム」が大発生し、2度、3度と食用油を散布したが苗の侵食がとまらず、どんどん葉肉が食べられていく。その上、抗菌力を失った苗に「いもち病」が発生した。このままでは全く収量が望めなくなる。何度か酢も撒いたが、もう助けるには殺菌剤を使用せざるを得ないと判断。すでに土に潜っているイネミズゾウムシは来年の対応となる。 これで菅野農園の2020年産、2021産のコメのリストからは「無農薬米」が消えることになった。悔しいし情けない。でも、一番悔しいのはこれまでの15年間、無農薬を実践してきた息子の春平だろう。 |
尖閣列島の問題では 元横浜国立大学の村田忠禧教授の主張はおもしろいと思います。 「村田忠禧 尖閣列島」で検索していただければ 出てくると思います。 問題を日本からだけでなく立体的にとらえる上で参考になるのではないでしょうか。 また、陰謀史観というご批判をあびそうですが 「竹島・尖閣問題」はいつでもボタンを押せば三国間の民族問題、国家間の亀裂にすぐに結びつく課題としてありました。 昨年ではなく、来年でもなく、韓国、アメリカ、日本に大きな選挙がある今年のこの時期、 あわせて韓米FTA、TPPをめぐる情勢に緊迫感が生まれてきたこの局面において、 さらに、そのことで「ASEAN+3」、「ASEAN+6」などへの具体的可能性が浮かび上がってきたこの時期に 「竹島、尖閣問題」が急浮上し、結果として三国の間に大きな亀裂が生み出され、 「ASEAN+X」への道がぐんと遠のいた。 韓米FTAとTPPへの道が踏み固められた。 これは偶然ではないのではないか。 裏でタクトを振っている者がいる。 ・・そのことで利益を上げる者、国がある。 そんな気さえします。 敵はだれか。 ここはマスコミや政治家の言動に左右されることなく ことの本質をしっかりと捉えることが求められます。 我々の到達点が問われます。 ...もっと詳しく |
朝、真っ白な霧が上がると、にぎやかな光景が顔をだす。紅葉するモミジやドウタン、桜などの木々に、色づく柿やリンゴの実の数々。里の秋はそんな光景にあふれている。
庭のリンゴの樹の下をくぐり、我が家の畑に行ってみると、大根や白菜はすでに充分に成長していた。 雪がくる前に庭木を雪害から守る作業も忙しい。 山里の深まりゆく秋。冬を前に忙しく働く勤勉な農民たち・・。とまぁ、読む方々は全体を美しく想像してしまうに違いないが、このことをその渦中にいる百姓、それも決して若くはない俺の視点から語れば、また違う風景が出てくる。それれも決して悪くはないが、言うほど美しくもない。そしてな、それをただ外から風景としてみていたのではまず、分かるまい。あえて語ればこんな話になる。以下。 寒くなりましたねぇ。 畑で冬野菜の世話をしていますと思わず鼻水がタラァーッと出てきます。ズーズーッとすするのもなんですから、ヒッと手鼻をかむ。鼻水が霧状になって飛んでいきますぞ。決して手にかかったりはしないね。その辺は熟練ですねぇ。慣れたもんですよぉ。 どんよりとした寒空の下、頬っかむりして、蟹股で、少し腰の曲がった大男が手鼻をかみつつ野良仕事に励んでいる。こんな姿は、晩秋の雪国に似合いますねぇ。寒村の風景ですねぇ。絵になりますねぇ。でもどこか切なげですねぇ。哀しげですねぇ。憐れさが漂ってますねぇ。 そう言えば近ごろ、頭のてっぺんで季節の移り変わりを感じ取れるようになりましたぞ。数年前からです。改めて体験してみると・・驚くほど新鮮な感覚ですねぇ。冷気が無防備な頭をジンジン刺激する。こんなことになろうとは想像していませんでしたよ。 秋の陽はすぐに落ちて、夕暮れが足早にやって来る。昔、晩秋の黄昏時ともなれば人恋しさが一層募り、センチメンタルな気分になったものですが、この歳になるとそれは無くなり、ただ恋しいのは人ではなくお酒。色気もへちまもあったもんじゃありません。でも冷えた身体には熱燗が一番。おちょこに注いだお酒をグィッと一つ飲み干せば、熱いものがあっちこっちに浸み込みながら降りて行く。良いですねぇ、この感じ。 飲むほどに、酔うほどにどんどん気分が高揚し、「コメがあり、野菜があれば勝ったも同然!文句アッカ!!」などと鼻息荒くして、ついさっきまで、腰が曲がったの、髪の毛が禿げ上がったのと言っていたのが、古風な言い方だけど、「矢でも鉄砲でももってこい!」となるんですね。背はデカいけど、根が単純なんですねぇ。 冬を含んだ秋。その物悲しさを含め、決して嫌いでないなぁ。秋から冬、それは一つの生命の終わり。鮮やかな紅葉は、枯れ行く冬の前の一時の化粧、終わりゆくいのちの華やぎ。その移り行く季節に浸りながら、我が身の来しかた行く末・・、つまり・・人生を考えて見るのも悪くはない。なっ、分かったべ!ヒッと鼻水飛ばしながら哲学してんだよ。外からではなかなか分かんないだろうがな。 |
我が家の前には800haの田んぼが広がっており、後ろには朝日連邦の雄大な山並みが連なっている。静かな山あいの村だ。
唐突ですが、私はその広い田んぼを前に立小便をするのが好きだ。家の中で尿意を感じても、わざわざ外に出ていくことも決して稀ではない。用をたしながら広大な緑の風景を見わたす。雄大に横たわる朝日連峰を眺める。田んぼを渡る7月の風は緑の波をつくって流れ、薄くなった男の髪を優しくなでで行く。心地いいことこの上ない。山や畑、野原など気持ちのいい所はたくさんあるけれど、やっぱり広い田んぼが一番。おそらくこれに匹敵する快適さを他に求めても決して得ることはできないだろう。 かつて娘が小学生のころ、「お父さん、家の外でおしっこしないでね。」と言われたことがあった。先生から「西根は遅れている。まだ屋外で小便している人がいる。」と言われたのだそうだ。「お父さんのことだと思って恥ずかしかったよ。」と娘。西根というのは子どもの通う学区で長井市のなかでも農村部だ。もちろん誇りある俺たちの村。そばにいた妻も「そうだよ、お父さん、あれはみっともないよ」という。 えっ?オレのおしっこ、誰かに迷惑をかけたか?ここは都会のアスファルトの上じゃない。おしっこは匂いを出す間もなく瞬時に土に吸い込まれ、草や作物に活かされていく。タヌキやカモシカや野兎などと一緒だ。田んぼの畔に放った私のモノも彼らの小便と同じように自然の一部となって大地をめぐる壮大な循環の中に合流していくのだ。ただそれだけのこと。 お前達だって立ち小便すればいい。オレが子どものころには、近所のばあちゃん達もみんなやっていたことだ。女たちの立ち小便は子どもの俺達から見たってなんの違和感もなかったよ。人が通る道端でさえよく見る普通の光景だった。ばあちゃんたちは、おしっこをしながら、道行く人とおしゃべりだってしていた。そのすぐそばを子どもたちが通ろうが、男たちが通ろうがなんの動揺もなかったはずだ。堂々としていたから。我が家に立ち寄ったついでに畑でおしっこしたばあちゃんが大らかに笑いながら、「お茶代金はここに置いたからな。」と言ったっけ。お礼に肥料分を置いていくということだ。 あのな、この際だから言わせてもらうけど、お前達の自覚の無さゆえ、あるいは都会の文化に見境なく迎合した浅はかさゆえ、この女たちの「腰巻」が育んできた貴重な文化が無くなろうとしている。はるか縄文の大昔から、ついこの間まで、母から娘に、娘から孫へと、ずうーっと受け継がれて来た文化だ。放尿の際の腰の曲げ方、尻の突き出し方、両足の広げぐあい、隠し方など、それらの所作の一つひとつが文化のはずだ。その歴史的文化が、まさにいま、ここで潰えようとしている。いまやそれを知る人は80代以上の女性、それもほとんど田舎の女性のみとなってしまっているではないか。やがて彼女らがいなくなったら、知っている人は日本列島から完全に消えはててしまうだろう。もし誰かがそれを復活させようと思っても、手立てが無くなってしまうのだぞ。これから先、どのようにその文化を伝承していけばいいのか。消えゆく女の立ち小便は、文化人類学上の深刻な課題のはずだ。 オレは男だからしょうがないけれど、お前達のなかに、我こそは・・・という志をもった女はいないのか!その復権を!という人はいないのか! 話の途中から、妻娘はいなくなっていた。 実際、事態はますます悪化の一途をたどる。女から立ち小便を取り上げた同じ「文化」は男の小便も小さな閉塞した空間に閉じ込めることに成功し、その上、さらに掃除が簡単だからと、男から立小便の便所そのものを取り上げ、男女の区別なく「考える人」ポーズで用を足せるように仕向けて来た。如何に住宅事情からとは言えそれでいいのかと考え込んでしまう。男たちよ!野生を取り戻そう。野山や田畑でのびのびと小便しよう!さすがにまだ、女たちよ!とは言えないけれど。 |
我が家の前には800haの田んぼが広がっており、後ろには朝日連邦の雄大な山並みが連なっている。静かな山あいの村だ。
唐突ですが、私はその広い田んぼを前に立小便をするのが好きだ。家の中で尿意を感じても、わざわざ外に出ていくことも決して稀ではない。用をたしながら広大な緑の風景を見わたす。雄大に横たわる朝日連峰を眺める。田んぼを渡る7月の風は緑の波をつくって流れ、薄くなった男の髪を優しくなでで行く。心地いいことこの上ない。山や畑、野原など気持ちのいい所はたくさんあるけれど、やっぱり広い田んぼが一番。おそらくこれに匹敵する快適さを他に求めても決して得ることはできないだろう。 かつて娘が小学生のころ、「お父さん、家の外でおしっこしないでね。」と言われたことがあった。先生から「西根は遅れている。まだ屋外で小便している人がいる。」と言われたのだそうだ。「お父さんのことだと思って恥ずかしかったよ。」と娘。西根というのは子どもの通う学区で長井市のなかでも農村部だ。もちろん誇りある俺たちの村。そばにいた妻も「そうだよ、お父さん、あれはみっともないよ」という。 えっ?オレのおしっこ、誰かに迷惑をかけたか?ここは都会のアスファルトの上じゃない。おしっこは匂いを出す間もなく瞬時に土に吸い込まれ、草や作物に活かされていく。タヌキやカモシカや野兎などと一緒だ。田んぼの畔に放った私のモノも彼らの小便と同じように自然の一部となって大地をめぐる壮大な循環の中に合流していくのだ。ただそれだけのこと。 お前達だって立ち小便すればいい。オレが子どものころには、近所のばあちゃん達もみんなやっていたことだ。女たちの立ち小便は子どもの俺達から見たってなんの違和感もなかったよ。人が通る道端でさえよく見る普通の光景だった。ばあちゃんたちは、おしっこをしながら、道行く人とおしゃべりだってしていた。そのすぐそばを子どもたちが通ろうが、男たちが通ろうがなんの動揺もなかったはずだ。堂々としていたから。我が家に立ち寄ったついでに畑でおしっこしたばあちゃんが大らかに笑いながら、「お茶代金はここに置いたからな。」と言ったっけ。お礼に肥料分を置いていくということだ。 あのな、この際だから言わせてもらうけど、お前達の自覚の無さゆえ、あるいは都会の文化に見境なく迎合した浅はかさゆえ、この女たちの「腰巻」が育んできた貴重な文化が無くなろうとしている。はるか縄文の大昔から、ついこの間まで、母から娘に、娘から孫へと、ずうーっと受け継がれて来た文化だ。放尿の際の腰の曲げ方、尻の突き出し方、両足の広げぐあい、隠し方など、それらの所作の一つひとつが文化のはずだ。その歴史的文化が、まさにいま、ここで潰えようとしている。いまやそれを知る人は80代以上の女性、それもほとんど田舎の女性のみとなってしまっているではないか。やがて彼女らがいなくなったら、知っている人は日本列島から完全に消えはててしまうだろう。もし誰かがそれを復活させようと思っても、手立てが無くなってしまうのだぞ。これから先、どのようにその文化を伝承していけばいいのか。消えゆく女の立ち小便は、文化人類学上の深刻な課題のはずだ。 オレは男だからしょうがないけれど、お前達のなかに、我こそは・・・という志をもった女はいないのか!その復権を!という人はいないのか! 話の途中から、妻娘はいなくなっていた。 実際、事態はますます悪化の一途をたどる。女から立ち小便を取り上げた同じ「文化」は男の小便も小さな閉塞した空間に閉じ込めることに成功し、その上、さらに掃除が簡単だからと、男から立小便の便所そのものを取り上げ、男女の区別なく「考える人」ポーズで用を足せるように仕向けて来た。如何に住宅事情からとは言えそれでいいのかと考え込んでしまう。男たちよ!野生を取り戻そう。野山や田畑でのびのびと小便しよう!さすがにまだ、女たちよ!とは言えないけれど。 大正大学出版会 月間「地域人」所収 拙文 |
田んぼはもうじき雪の下に。 私たちの地方は毎年150cmほどの雪が積もる。 見渡す限りの田園がどこまでも、どこまでも・・・ 白一色の幻想的な風景。 カエルやヒバリの声、農業機械の音はおろか人々の話声すらしない この静寂の世界の中で、田んぼの土たちはゆっくりと眠りにつく。 土はかつて生きていたものたちが死んでくれてできたもの。膨大ないのちの堆積。 2012年の稲の茎、草ぐさや虫たちのいのちを加えながら、 まっ白な雪の下でしずかにしずかに・・眠りにつく。 (写真は昨年の田園風景) ...もっと詳しく |
田んぼは順調です。
見わたす限りの緑の水田。我が家の田んぼは周囲のものと比べて少し違う。周囲は濃い緑。我が家は少し薄い緑。肥やしが不足しているような葉色だ。周囲は一株あたり40本ぐらいの本数がたっていて、見るからに勢いがあるが、我が家は20本ぐらい。貧弱に見える。 たとえて言えば、周囲は20代、30代の盛りなのに、我が家は16,7歳のまだ少年、少女だ。 田植えと同時に肥料を落としていく田植え機械が普及してから、周囲の稲との成育格差が広がってきていて、その差は遠くからでも分かるほど。でもこれでいい。初期成育が旺盛な稲は、病気にかかりやすく、クスリの助けが必要になる。我が家の稲は大丈夫だ。 ニワトリにも同じことがいえる。 栄養満点の配合飼料で育てた雛は性成熟がすすみ、生後140日ぐらいで卵を産み出す。だけど産卵寿命は短く、早く老け込んでしまう。病気にも弱い。 自然養鶏の場合は如何に性成熟を遅らせるかを考える。少なくとも180日ぐらいまで産卵を遅らせるようつとめる。粗末なエサを与えること、運動させることがコツだ. 人間も性成熟の早い欧米の人は老化が早く、欧米ならずとも、たくさん食べて、まるまる太った人は老若男女にかかわらず病気にかかりやすい。 稲も、ニワトリも、人間も、健康には「不足がち」が一番だね。 子どもの育つ精神風土も「うっすら貧乏」が一番いいみたいだし・・。 えっ、おれ? 190cm、100kgだよ。 ニワトリと同じ粗末な食事で運動・・実際、菜っ葉食べて、農作業やっているんですがね、「うっすら貧乏」だし・・・。全て理想形だけどな・・ 酒が悪いんだべか? ともあれ、今年も稲は順調に育っていて、おいしいお米をお送りできる日も近い。 ご期待ください。 ...もっと詳しく |
田園はいま緑一色、むせ返るような緑、緑、緑の世界です。
稲はこれから、今までの体づくりを中心とした栄養成長期から、子づくりのための生殖成長期に移ろうとしています。聞きなれない言葉でしょうね。この移行期は7月中旬。この時期に合わせて農家は肥料を撒きます。子づくり応援ということですね。分施(ぶんし)といいます。撒く時期を誤れば、栄養成長を促進したりして、倒伏や病気の原因にもなっていくために、時期を見誤らないよう慎重に田んぼを観察します。 我が家では、この分施を今まで有機肥料と化学肥料が一緒になった「有機化成肥料」を撒いていましたが、今年は、息子の春平がここまで堆肥だけで育ててきたのだからと、友人の肥料店から「100%有機肥料」を買ってきました。化学肥料ですと、撒いた粒々が溶ければ根が吸収できますが、有機肥料はそうはいきません。撒いたものを土中の微生物が分解し、それを根が吸収するという行程を歩むため、その分10日ぐらいは早めに撒かなければならなくなりますし、見極めも難しい。 稲はどんどん分けつを繰り返し、田植え時期、一箇所に3〜4本植えた苗が今は20本程度になってきました。周りの田んぼに比べて6〜8割の茎数です。この辺りの農家は10a(10m×100m)あたり10俵(一俵は玄米で60kg)程度の収穫を目標としていますが、我が家では8・5俵です。農薬の助けを借りずに稲を作るには、このぐらいが妥当です。ここまでは順調に生育しています。 春平は田んぼに除草機を入れ、田面をくまなくかき混ぜました。草をとることも目的の一つですが、土中のガス抜き効果をねらっています。春に鋤(す)き込んだ稲わらは水温が上昇するほどに土中で分解され、ガスを発生して根に負荷をかけるからです。その作業も終わりました。 そろそろ、その肥料散布が始まります。10aあたり20kgの肥料を320a分。忙しくなります。 昨晩、涼しくなった庭にでてみましたら、ポッポッポッとホタルが飛んでいました。夏ですね。 ...もっと詳しく |
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本来、歩いたり、走ったり、飛んだりできる鶏たちの自由を奪い、身動きのできないゲージ(カゴ)に彼らを無理やり押し込んで飼育する。鶏たちにとってはつらく切ない日々。
金魚鉢の金魚や、動物園の象だって、自由を奪われ不幸には違いないがここまでではない。そんな日常の中からは自然の病原菌に対する抵抗力、免疫力なぞ生まれるわけがない。挙句の果ての殺処分。
鶏たちをその状態に追い込んでいるのは、「経済効率」というものだ。鶏たちを不幸な境遇に置くことで人間が幸せになれると思っている価値観だ。1パック100円台に喜ぶ我々だ。
でも、それが我々の喜びか?それで幸せになれるのか?生き物たちはそれぞれ別個に存在しているのではなく、それらはつながりの中で生きている。一つの生き物の不幸が回りまわって人間の不幸につながっていく。どうしても私にはそう思える。
EUでは2012年1月から鶏たちをゲージで飼うことを禁止したという。いかに経済動物であっても、処理される直前まで、その動物らしい生き方、暮らし方を保障しなければならないとした。
一方、日本では鶏たちの周りにそんな風は少しも吹いていない。鶏どころではないと言うことだろう。我々自身がゲージの中にいる。鶏たちを解放するには、まず我々自身が「経済効率」のゲージ飼いから解放されていなければならないということか。
(写真は我が家の鶏たち)