ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

田植えが終わりました。
いやー!終わったのですよ。
温湯法による種もみ消毒(3月下旬)から今日まで続いた60日間の農繁期。ようやくピリオドが打たれます。まだ後片付けなどの仕事が一週間ぶんほどあるけれど、気分がね、違うんですよ。

いい景色ですよ。田んぼに立って、あたりを見回すと、田植えの終わったばかりの水田が水をたたえて広がっていて、一面に鏡を敷き詰めたようです。田んぼには雲や青空、朝日連峰が写っていて、きれいですよ。夜になれば「田ごとの月」の風景ですね。

昨夜、水の入り具合を見るために田んぼに出かけました。元気ですねぇ、カエルたち。想像してみてください。360度からにぎやかな鳴き声が聞こえてくるんです。遠くの声に近くの声・・さまざまな鳴き声の大合唱。立体的に聞こえるんですね。
その声に包まれていますと、大概の事は、ま、いいかぁとなります。

知っていましたか?田んぼの畦はお花畑だってこと。それもチューリップとかクロッカスとかいう華やかな、良く知られた花たちではなく、野花。山形の畦に咲く野生の花々。黄色、桃色、紫、白・・色とりどりの花が咲いています。「忘れな草」と「おおいぬのふぐり」ぐらいは分かりますが、そのほか、名前の知らないたくさんの花たち。外国産のような、強い自己主張がないぶん、どこか上品な感じがしますね。ぼくなどはその控えめなたたずまいに惹かれます。

水田のカエルや草花。他にもたくさんの生き物達がいます。みんなそれぞれの世界を生きようとしているんですね。

そういえば・・・キツネもタヌキもそうかぁ。そうだよなぁ。

我が家の植えた「ひとめぼれ」、「こがねもち」。喰われてしまわない限り、皆様方の世界をできるだけ壊さないようにしますので、どうぞ、よろしく。

さて、片づけが終わったら何をしようか!ウフフ。

(写真はダブルクリックで拡大できます。)

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田植えが終わりました。
田園は一気ににぎやかになってきました。ついこの間まで銀世界だったのに、ブナやナラの山々は、新緑をまとい、日々その色を濃くしています。雪は頂に少し残すだけ。田圃では名も知らないたくさんの野の花たちが、その美しさを競い、早苗が広がる水田からはカエルの合唱、ヒバリの声。軒先からもツバメやスズメの鳴き声に、我が家の場合はニワトリたちの声も重なります。もうじき蛍たちも飛び立つでしょう。いい季節になりました。
 そんな季節にもかかわらず、気が重くなるのは、ウクライナは置くとして、40%を超えるコメの減反。食糧不足がすぐそこに来ているし、街には明日の食べるモノとてない人たちがたくさんいるのに、この国の政治、それを支持し続ける人たちにいう言葉もない。
 
農繁期に入って一ヶ月半。
いよいよ、明日から田植えに入ります。
ここまで来るのが大変で、田植えに入ってしまえば
相変わらず重労働が続くとはいえ、比較的楽なのです。

 米作り仕事の最初の山は種まき、育苗作業。
これは30cm×60cm、厚みは4cmの育苗箱750枚に土を入れて種を蒔き、育苗ハウスに移す仕事ですが、これがなかなかキツイ。
 その後は田んぼへの堆肥散布。
堆肥はレインボープラン堆肥と自然発酵鶏糞の二種類で
化学肥料は使用しない我が家のこだわりの作業。3・2haの水田全体に
くまなく、かつ薄く均一に撒いていきます。
これもキツイ。27歳の息子は腰を痛め、4日ほど動けない日が続きました。
私も腰と相談しながらやっていたのですが、その作業が終えた今も
腰の重さが続いています。

1000羽の自然養鶏の仕事も平行してありまして、
餌作り、餌やり、玉子とり、汚れおとし、パック詰め、地方発送、配達、集金・・・などほぼ毎日ありますので、身体がいくつあっても足りない状態となります。

 そして明日からの田植え作業。ここまで来れば終わりが見えてきます。
田んぼの上で田植え機械に乗りながら、周りの風景などを楽しむゆとり
もできてきます。
 畦には忘れな草やオオイヌノフグリなどの草花が生い茂り、水田には
雪を残している朝日連峰の雄大な山並みが写しだされています。
どこまでも広い大空の下、10cmかそこらのか細い苗を植えるにしたがって
薄緑の面が広がっていきます。

 田んぼの春の巻。ゴールもう少しですが、まだ終わったわけではありません。

 というわけで、夜は一合のお酒か、ビール一本で、そのまま寝てしまいます。もうしばらくまとまった文章を書ける状態にはありません。
遠く沖縄に思いを馳せながら、田んぼ仕事に取り組んでいます。



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ようやく田植えが終わりました。
たんぼの畦にはきれいな花々が咲いています。田植えはほとんど機械で植えますが、田んぼの四隅は手で植えます。田んぼは全部で16枚。よって四隅は64箇所。これはこれでなかなかの世界ですよ。大きな身体を折り曲げて一株、一株植えていく作業は腰にいいわけない。でもやるしかないよね。どこかで腰を曲げてとぼとぼ歩いている私をお見かけしましたら、どうか、見てみぬふりをしてやってください。
3月の下旬に種もみ消毒(2006,4,20「種もみの消毒」参照)、種まき、苗代、育苗管理、田んぼへの堆肥散布、耕運、代掻き、田植えとすすんできた農繁期。ようやくここまできました。これまでの数々の作業を振り返れば、やっぱり、堆肥散布がもっともきつかったですね。 私は二種類の堆肥を撒いています。レインボープラン堆肥と自然養鶏の醗酵ケイフンです。化学肥料は極力つかいません。作物を食べることは土を食べることだと思うからです。食べられる土をつくる・・・これが農業の基本だと思うんですよ。
なんて・・・こう言えばカッコウはいいが、その世界を実現するのは大変です。2・6ヘクタールの田んぼ。化学肥料をパラパラと撒けばものの半日ですんでしまう。最近はそれさえも省き、田植えしながらポトポトと機械が肥料を落として行く。簡単なもんです。でも、堆肥散布はそうは行きません。一週間以上かけての力仕事です。レインボープラン堆肥は機械で撒く。大変な中でもこれは比較的容易です。醗酵ケイフンが問題だ。鶏舎からトラックに積み上げ、運び、更に田んぼで運搬車に移し、運搬車を動かしながらスコップで撒く。ケイフンはチッソ比率が高いため、レインボープランの堆肥のように、大雑把に撒くわけにはいかないのですよ。ドサッと落ちたところは肥やしが効きすぎて、大概はイモチ病にかかっておしまい。お米は作れません。だから少しずつスコップにとっては平に、均等に撒く。これが難儀で、終われば難関突破のほっとした気持ちになりますよ。
いまは、大変な時期を振り返りながら、四隅を丹念に植えています。
田んぼの畦にはオオイヌノフグリ、忘れな草・・・それに名も知らない小さな花々。本当にきれいです。それらを見る余裕がようやく生まれてきました。種まきから始まった農繁期、ようやく終盤です。


・・・と、ここまでは5月の24日に書いたもの。
25日の日曜日、本当に腰を壊してしまいました。「腰部脊柱管狭窄症」と診断され、半月後の今も安静の日々をつづけています。このことにまつわる顛末記はいずれ書きましょう。腰の痛いのは大変ですね。どなた様もお気をつけください。
写真は畦の花たちです。きれいですよ。いいですね。野のはな。


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 「僕のニワトリは空を飛ぶ」の24話に同じ題名の文章がありますが、今回は本筋は一緒ですが、中味はちょっとだけ変えています。以前のものを読まれていない方はどうぞお読み下さい。前のものは読んだよという方は、新しいものはもう少しすればでますので、おまちください。

      <土を喰う話> 

 我が家には約1、000羽のニワトリたちがいる。彼らは四面金網の開放鶏舎で暮らしているが、ローテーションに従って三日に一度は外にでる。
 外では太陽の陽射しを受けながらのんびりと羽を伸ばし、かけっこをしたり、虫を追いかけたり、草を食べたりして暮らす。時には柵を乗り越え、畑の方にも入り込んできて自給の野菜を食べつくしてしまうこともあるが、ま、愛嬌だ。そんな彼らのくらしを眺めていると、私の気持ちものびやかに解きほぐされていくように思える。

 ニワトリ達は土が大好きだ。鶏舎の外に出されたときは例外なく土をついばむ。砂浴びといって、パッパッと土を全身にかける。ニワトリのくらしそのものが土と一体だ。

 ところで土と一体であるという点では、作物もそれを食べている人間も一緒だ。
作物は言うまでもなく土の産物であり、よってその育った場所の土の影響を全面的に受ける。私がそういうのは、必ずしもかつて理科で習ったようなことについてだけではない。
 以前、山形県でキュウリの中からおよそ40年前に使用禁止となった農薬の成分が出て問題になったことがあった。40年経っても土の中に分解されずにあったのだろう。そこにキュウリの苗が植えられて、実がつきふくらんで、汚染されたキュウリができたというわけだ。お米からカドニュウムがでたこともある。

 作物が土の中から吸収するものは養分、水分だけではない。良いものも悪いものも、可能なもののすべてを吸い込み、実や葉に蓄える。

土を喰う。そう、私たちは作物を食べながら、その育った所の土を喰っているといえる。

 スイカを食べながらスイカの、かぼちゃを食べながらかぼちゃの・・・それらの味と香りにのせて、周辺の土を食っているというわけだ。
汚染を土から吸収した作物は、洗ったって、皮をむいたってどうなるものではない。何しろ身ぐるみ、丸ごとなんだから。

 作物を通して私たちは密接不可分に土と結びついている。私たちの身体は土から組み立てられ、土から食べ物をいただき・・さながら土の化身だ。どんな動物も、植物も汚染された土を喰っては生きられない。

 食を問うなら土から問え。いのちを語るなら土から語れ。健康を願うなら土から正そう。そしてくらしはきれいな土の上に、である。生きて行くおおもとに土がある。
そうゆうことだと思うのだが、どんなもんだべ?ご同輩。

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いのちあるものすべては土を食べて生きている。いってみたらみんな土の化身だ。
どのような作物も植えつけられた土から必要な養分を吸収し成育する。作物ひとつ一つが土の化身だ。たとえば私達はカボチャを食べる。カボチャを食べながら、その味と香りにのせてその地の土を食べているといってもいい。全ての作物にも同じことがいえて、だから私達も土の産物、土の転移、土の化身だ。
もしその土が汚れた土ならば作物も汚れ、食べる私達も汚れていく。もしその土が疲弊した土ならば作物のもつ生命力は弱く、それを食べる私達の生命力、免疫力も弱いものとならざるを得ない。土の健康は即、人間の健康に反映すると思っている。だからこそ、食べられる土を作ろう、きれいな土を守ろうと呼びかけ、実践もしてきた。
まわりくどい言い方をしているが、ここ30年ほど醗酵ケイフン主体の堆肥を施してきた。それに加えて、10年ほどはレインボープラン堆肥も撒いている。化学肥料は必要最小限か、まったくやらないできた。それというのも上のように、田畑のいい土は堆肥によってしか作れないと思うからだ。
春、2・6haの田んぼの全てに二種類の堆肥を撒く。これは土にこだわる百姓としては当然のことだ。だが、正直にいえばこれがきつい。前にも書いたと思うがそれを実現するのは口で言うほど簡単ではない。
30年が経過して・・・腰を痛めてしまった。おかげで土は問題なく健康だと思える。周りが冷害のときも、そうでないときも「よしひでの田んぼは堆肥が入っているから、いい田んぼだ。」という評価をもらい続けているのだから。でも肝心の私が腰を壊してしまった。健康な土と食を求めて、不健康になってしまった。なんでも物事はするするとは行かないものだが、この現実を前にどうしようかと考えている。

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7月22日が土用の丑の日。
だけどウナギが少なく、充分に食べられないのだとか。
世間の人はそんなにウナギをたべているのだろうか。
たしかに世界のウナギの70%を日本人が消費しているらしいが
オレはここ30〜40年口にしたことないし、
村の人たちの中でもウナギを食べてきたなんて話、聞いたことがないよ。
ま、あまり話題にするようなことではないけれど。
マスコミはウナギが食べられないことを騒いでも、古来、生息してきた日本のウナギが絶滅危惧種になりつつあることにはあまり関心がない。それは農作物の不足には関心がむいても日本の百姓が絶滅危惧種になりそうだということに関心がないのと共通する。

フフ・・・、ここはウナギと百姓との秘密会談が必要だね。

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そうなんですよ、冬が来るのがいつも楽しみなんです。
冬になり、時間ができたらこれをやろう、これを読もう、ここに行こうって。
いい季節です。
ですが太るんですよ。想像してみてください。
 190cmの大男の体重が三桁になり、110kgに果てしなく近づいていくのです。ほとんどの人にとって実感できないでしょうね。ま、たとえて言えばかのダルビッシュよりも身長で6cmほど負け、体重で6kgほど勝ち、収入ではちょっとだけ負けているてといえばお分かりいただけるでしょうか。



 とにかく、冬になっても労働シーズンと同じようにご飯がおいしいし、お酒がうまいし・・・。
だけど働かない。動かない。太る一方なんです。
春になればもとに戻ろうとするのですが大変です。
からだが重いのなんのって・・。
光と影、山と谷、幸と不幸・・・これらは常に一対で
光だけ、山だけっていうのはないものなのですね。
長所をほめるなら、それと一対の短所も受け入れなければならない。
だからさ・・・、時間的余裕と太ること、
今は達観してこの両方を楽しんでいますよ。
ダルビッシュ、お前もがんばれよな、関係ないかもしれないけど・・・。
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お米でつながりのできた方に玉子の紹介メールをだしました。
下の文章はそのメールです。

(写真はニワトリたちの様子です。ダブルクリックでよく見えます。) 

冬季の玉子はいかがでしょうか?

山形でお米と玉子を作っている菅野農園です。
こちらの田畑はまだ1mを超える雪におおわれていて、
我が家のニワトリたちは四面がビニールで囲まれた鶏舎のなかで春をまっています。
鶏舎の中だって駆けっこができるし、緑の野菜だってあるとはいうものの
外の揺れる若葉、あたたかなお日様、そよ吹く風などの魅力にはかないません。
でも、外で遊べるその日はもうすぐやってきます。

EUでは今年の1月1日からゲージ飼いが禁止になり、平飼いが義務付けられました。
動物福祉という考え方が背景にありますが
狭いゲージという経済効率の籠に閉じ込められ、餌の中にはケミカルと色素がふんだんに入れられ、
その結果としてのおいしそうな「黄身の色」、
美味と感じられるようにコントロールされた味。
それが身体にいいわけがないという消費者運動がニワトリたちの解放を実現しました。
日本のニワトリたちにとっては苦行のような毎日が続いていますが
その日が近いことを願っています。

さて、我が家のニワトリたちの産卵がピークを迎え、多少玉子が余り気味になっています。
3,4月だけなのですが、この時期、食べてみたいという方はおいでになりませんか?
自然卵の味はあっさり系ですが、冬の玉子は比較的濃くなっています。

価格は10個入りで580円。送料は630円となっています。
すこし高いかな・・という印象をおもちかと思いますが、ゲージ飼いの
玉子とは別物とお考えください。
箱の関係上4パック以上となっていますが、お届けしてから
およそ20日間は生でも大丈夫です。

病気がちな方に、お年寄りに、育ち盛りのこどもたちに、
なによりも健康を考える方に。
自然卵はいかがでしょうか?

ご注文をお待ちしています。

                  土・いのち・循環の下に・・・    菅野農園

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この両者の間になんの関係があるんだい?と言う向きもありましょうが、大いにあるんです。EUでは2012年のドイツを皮切りにニワトリのゲージ飼いを禁止にして、すべて大地の上で飼育しなければならなくなっています。これは食の安全を求める運動と、動物福祉という、如何に経済動物といえども処理される直前まではその動物らしい生活を保障しなければならないという考え方によるもので、ヨーロッパの消費者運動が歴史的に築いてきた世界です。さすがに民意がたかいですね。よくぞ、政府もその運動に合流しました。

 しかしながら、日本は全くそうなっていません。鳥のインフルエンザの際、TVが映し出すように狭いゲージに押し込めたまま。ひどい扱いです。食べる人間の健康、産む鶏の福祉は全く考慮されていません。
 今も大勢のEUの人たちが日本を訪れています。玉子料理もたくさん食べるでしょう。しかし日本には彼らの要請にこたえる玉子はありません。ほとんどゲージ飼いの卵しかないのです。

 さて、オリンピック。それを見越して、さる「三ツ星レストラン」から人を介して我が養鶏場にも問い合わせがありました。でも、残念ながら応ずることができません。お断りいたしました。1000羽の玉子はすでに長井市民を中心に、県内、東京方面にも発送していますが、決まっている方でいっぱいです。余裕がありません。
 でも、選手を含め、これからさらに滞在者が多くなるわけですが、いったいどうするんでしょうね。

ここでも、いのちや健康よりも「生産効率・利益」優先の、「日本と言うシステム」が注目されるでしょう。
コロナウィルスによる混乱が続いている。コロナをきっかけにしてこの国の抱えている「病理」があふれ出ている。これをどう理解するべきか。その上でどう対応するべきか。ここに藤井聡・京都大学大学院教授の文章を紹介したい。混乱を整理する上で、貴重な示唆を与えてくれています。
 
         以下

今、コロナ対策として安倍総理は、直々に国民に対して、「多数の方が集まる」ような「イベント」の中止・延期を要請しました。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/newpage_00002.html
この総理要請のインパクトは絶大で、今日本中で三月中のイベントや会議は、軒並み、中止・延期となっています。
もちろん、あらゆる会合はキャンセルした方が「感染確率」が下がるのは事実です。
しかし皆があらゆるイベントや会合をキャンセルしてしまえば、日本の経済や社会は根底から破壊されることになります。
事実、もうどこの町でも、観光地も繁華街も飲食店は皆ガラガラ、交通事業者も商店も、軒並み大幅かつ深刻な「減収」に苛まれ始めています。このまま続けば我が国はそのうち、激しい倒産のラッシュが続き、とんでもない不況、恐慌へと突入することは目に見えています。
だから我々人間は、「感染を封じ込めることのメリット」と、「それに伴うデメリット」を比較し、時にリスクを取りながら是々非々で判断していく態度を持つことが必要なのです。そもそも「リスク」というものは、ただ単に「封じ込める」ものなのでなく、「付き合う」べきものなのです。
実際、国会では国会議員達が連日、超濃厚接触を繰り返しています。が、あれが許容されているのは、国会停止の「デメリット」が大きすぎるので、国会議員達は国会で感染が広がるリスクを受け入れているのです。
これと同様に、あらゆるイベントのキャンセル判断は、
「キャンセルすることによって得られる『感染リスク低減』メリット」

「キャンセルすることによってもたらされるデメリット」
を比較(衡量)する態度が必要なのです。
にも関わらず、そういう比較を何もしないで、ただただ空気に流される形で、日本国内であらゆるイベントがキャンセルされまくっているのが現状。つまり我が国には、「ヒステリック」な「やり過ぎ」のコロナ対応が蔓延してしまったのです。
では、このヒステリーがなぜ起こったのかといえば―――言うまでもなく、安倍総理大臣が、国民に対して直々に「多数の方が集まる・・・イベント等については・・・中止、延期・・等の対応を要請」したからに他なりません!
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/newpage_00002.html
この要請は、国民のヒステリーを誘発する「極めて悪質」なものです。
第一に、「多数の方」という言葉が曖昧で、それが10人なのか千人なのか1万人なのかが分かりません。だからあらゆるイベントの主催者を「不安」にさせるのです。
第二に、イベント「等」と書かれており、(その前に全国的だとかいう言葉が書かれてはいるものの)結局は全てのイベントが対象だと解釈できることから、ここでもまた、イベント主催者達を「不安」にさせます。
そして何より第三に、ここまで曖昧な要請なのに、その要請者が、行政府の長である「安倍総理大臣」であり、これを無視することが後に激しいバッシングを誘発するのではないかというさらなる強い「不安」をイベント主催者にもたらします。
こうした数々の「不安」が、全国のイベント・会合主催者にパニックをもたらし、あらゆる会合を思考停止しながらキャンセルしまくる集団ヒステリー状況をもたらしたわけです。
ついては、このヒステリーを納めるにはどうすべきかと言えば―――科学的な根拠に基づく、会合・イベントキャンセルの「基準」を考えることが必要なのです。
ついては、その「基準」を検討するために、簡単な「確率シミュレーション」を行ってみました。
この表をご覧ください。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=2338748136226116&set=a.236228089811475&type=3&theater
この表はとてもシンプルな確率計算結果(文末に式を掲載します)を示したものです。この表の見方は次のようなものです。
まず、会合の数が大きければ大きいほど、感染リスクが高まります。その中の一人でも感染していれば、その集団内で感染が広がるかもしれないからです。
今、仮に日本国内に潜在的な感染者が「1000人」いると考えましょう。
今のところ、感染者数は260名(3月3日時点)ですから少々多いかもしれませんが、もしそうだとすると、この表に示したように、100人程度の会合をやっても、その集団に感染者が含まれている確率は四捨五入すると「ゼロ」になります(具体的には0.1%)。
仮に、潜在的感染者が「1万人」いるというかなり危険な状況を想定した場合でも、50人未満の会合なら、その会合に感染者が含まれる確率は、四捨五入すると「ゼロ」になります(具体的には0.5%)(ちなみに、中国人の人口14億人中感染者7.7万人ですから、日本人も同様の比率とすると約7000人となります。ですので、この想定は中国よりもさらに感染が拡大しているという想定です)。
しかも、以上の前提は、ほとんど誰もマスクもしなければ咳エチケットも守らない、という極端な状況ですから、そうした対応を図れば感染リスクはさらに縮小できます。
もちろん、ほんの僅かなリスクでも「避けたい」と考える主催者はキャンセルをすれば良いわけです。が、そのイベントに一定のメリットがあるなら、この程度のリスクなら中止は不要だと判断するのは、至って合理的と言えるでしょう。そう判断するなら、一定の対応を図った上で、今の国会が開催されているように、イベントを粛々と開催すればよいのです。
ちなみに、首都直下地震と南海トラフ地震の少なくともいずれか一方が発生する確率は約8%(!)もありますから、そんな災害リスクを完璧に無視しながら、それよりも圧倒的にリスクの小さいコロナリスクばかり考えているような態度は、著しく不条理なのです(さらに言うと、椎名林檎のライブは5000人規模でしたが、ここでの感染拡大リスクは、上記の巨大地震が今年に起こるリスクよりも圧倒的に小さい水準[2%]です)。
・・・
いずれにしても、単なる「根性論」や「思いつき」で学校を閉鎖したり、イベントを中止するようなことをしていると、日本経済は完全に失速し、とてつもない禍根を日本に残すことになります。結果、不況によって自殺に追い込まれる方々の数が、コロナで亡くなる方を圧倒的に凌駕することになるでしょう。
そうした最悪の悪夢を避けるためにも、政府は例えば、次のような、数理的根拠に基づく、より具体的な要請・説明をすべきなのです。
「100人程度以下のイベント・会合なら、感染リスクは僅少なレベルですので、その必要性を踏まえて是々非々で開催判断をなさってください。
ただし、参加者数が拡大していくと感染リスクも拡大していきますから、1,000人を超えるような大規模イベントについては、当該イベントの必要性と感染拡大リスクの双方を鑑み、中止・延期・規模縮小を選択肢にいれてたご検討をなさってください。なお、イベントサイズと感染拡大リスクとの関係の目安は、以下となっています。ご参考にしてください。


—————————-
 参加者数と
 感染拡大リスクの目安
(令和2年3月4日時点)
—————————-
  5人 0.0%
  10人  0.0%
  50人  0.0%
  100人  0.1%
  1000人 1.0%
  5000人 4.9%
—————————-
(※ この表は、感染者数が1000人のケースを想定しています)
とはいえ、安倍内閣はこうした基準を示すことはないと思います。これまでの振る舞いから類推するに、安倍内閣が「具体的な基準を示す」ことのリスクを取るような振る舞いをするとは、考えがたいからです。
もしもそうだとすれば−――誠に残念ですが、我々国民がこうした客観的検討を行い、パニックやヒステリーに陥ることを避けつつ、「冷静な振る舞い」を自ら心がけていくしかないのだと、思います。
さもないと、日本経済は本当に、根本から破壊されてしまうことになるでしょう・・・。
春は山菜の季節。
採りに言っている時間はないが
近所の方からさまざまな種類の山菜をいただく。
山菜特有の風味がたまらない。
微妙な苦さ、香り、味・・・
なんと言ったらいいのか・・・
野菜にはないおいしさだ。
山菜を食べながら、朝日連峰の大自然を思う。
おいしさがまた一段と広がる。

若い頃はこのおいしさが分からなかった。
濃厚な味がよかった。
最近ですね、野菜を含め、微妙な味を楽しめるようになったのは。

日本人一人当たりの食品添加物の摂取量は年間4kg。一日に11g。塩分は一日に10g以下と呼びかけられているのに添加物は11gだ。すごいねぇ。ハンパじゃない。身体にも有機農業を!
でもこれが入るとおいしいんだよな。

以前、90歳の母親に、昔食べた「カレーライス」を作ってもらったことがあった。
小麦粉、カレー粉・・・肉じゃなくて、鯨の白身の部分が入っていた。そしてたくさんの野菜。
このカレーは、はなたれ小僧のころのご馳走だった。
懐かしい香り、色・・・。
これを再現してもらって食べてみた。まずかった。あまりにもあっさりしていて、コクになれた今の舌にはうまさを感じられなかった。
「これがあのときのカレーか?」
「そうだよ。これをお前達はおいしい、おいしいと食べていたんだ。」
すっかり添加物のうまさに慣れている。

うまさは添加物から。
特に若い人達にとってはそうなのかもしれない。
うまい、うまいと食べているうちに・・ガンになって・・か。

添加物世代が山菜の微妙な味、食べ物本来の味を楽しめるようになるには
どのような行程を経ていけばいいのだろうか。

自然養鶏の玉子は「あっさり」系。
最近のゲージ飼いのタマゴは濃いミルキーな味だ。
消費者好みの味付けで、クスリや添加物漬けを覆い隠す。
食べ比べてみたらきっと・・特に若い人にとってはゲージ飼いのタマゴの方がおいしいとなるのだろうか。
自然養鶏の玉子。その微妙な味ではなく、1個58円の高さだけが印象に残るようではちょっとつらい。

単純なオレには「まずは頭で喰ってもらおう。」ぐらいしか思い浮かばないが、他に何があるだろう。


今日はこれから田んぼにケイフン振りだ。
むちゃくちゃ忙しくなってきた。






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