ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

反TPPの「寄り合い」を呼びかけている。

“かねてご相談していた件(TPP)について、どう考えるか、何がもとめられているか、
どのような視点が必要か、どんなアクションをおこすべきか、それをいつするか・・。
などについて、寄り合いを持ちたいと思います。
それぞれの方は各県の農民に大きな影響力をお持ちの方々、お忙しいとは思いますが、ぜひともお集まりください。
まずは寄り会ってみようということですので、わきあいあい、ざっくばらんにやりたいと思います。
他にもご紹介したいという方がおりましたらメールを転送してください。
千葉の友人からは
「ただ一発やるだけのことはしたくない。どうせやるならば展望の伴ったものにしたい。
それが見つかれば命がけでしたい。」
との意見が寄せられています。
昨日、隣町の友人がやってきて
「俺が農業についてから三十数年たったけど、これほど危機感を持ったことはなかった。輸出したり、規模拡大したり、消費者と直につながったり・・とさまざまなことが言われているけど、それで何とかなるのは、稲作に限って言えば1%にもみたないだろう。あとの99%はやめるしかない。」
一昨日は別な友人がきて
「これまでも自然死への道だった。TPPやめてそこに戻ればいいというわけではない。反対と同時に何を創っていくかが問題だ。そこを議論しよう。」
またある友人は
「農、食を織り込んだこの国のかたちを議論する最後の機会だろう。」
さまざまな意見が出ています。
まず、寄り合いです。“


単なるコブシをあげる反対運動にはしたくない。

個人的には,家族農業をそれ自体としてどう守るかというだけではなく、たとえば、農を志す都会の若者たち、市民、貧困層など、農を織り込んだ暮らしを実現したいと思う人々、自給的な生活を望む方々にも広く農地を解放するような仕組み。農民的土地所有(利用)から市民的土地所有(利用)への転換。望めばできる国民皆農への道作りなどを織り込みながら、単なる反対運動ではない、TPP反対運動を作り出したいと思っている。「環境」、「循環」、「健康」、「福祉」、「自給」の視点から新しい農(土)と人々の関係を築いていく。そんな思いを持ちながら意気揚々・・とまではいかないけれど、張り切っているよ。

第一回は20名ぐらいの参加と思っていたけど、30名を超えそうだ。今月の15日。場所は東京だ。


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TPPに反対する人々の運動〜小さな民衆運動の誕生と経過を通して〜

「TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に百姓は腹が立たないのか!ムシロ旗を立てて行動を起こそう。」
新潟で百姓をしている友人から、こんなメールが送られてきたのは昨年の秋ことだ。TPPの求める「関税の撤廃」によって日本農業は壊滅する。その時、多くの農民はそう思った。しかし、やがてTPPは農業の問題にとどまらず、日本社会の在り様を大きく変えてしまう内容を含んでいることが分かってきた。
アメリカはTPPを足場に、アジアへの影響力を拡大しようとしていること。TPP参加予定国のうちアメリカと日本でGDPの91%を占め、実態は二国間の貿易協定であること。アメリカはその中で日本に農作物のみならず、金融、公共事業、医療、サービス、知的所有権・・・などほとんど全ての分野での市場開放を求めていること。日本の内政にかかわることでも、例えばアメリカの政府、または企業、あるいは投資家が「障壁だ」と見なせばそれを取り払うよう交渉することができるし、いざとなればしかるべき国際法廷に提訴することもできる。つまり日本の国内政策の上にTPPが君臨するよう仕組まれていること。例えば食品などへの様々な輸入制限なども「障壁」とみなされるだろうし、東日本復興に向けての20兆円規模ともいわれる公共事業もアメリカ企業にとって格好の参入対象となるだろう。
これらを知ることで、TPPへの参加は政府やマスコミが言うように「日本を世界に開く」のではなく、「日本をアメリカにあけわたす」に等しいということが分かってきた。なんとしてもこれを止めなければならない。
12月15日、東京での第一回目の会合には農民のみならず多くのNGO団体や個人が集まった。その場で『あたり前に生きたいムラでも、マチでもーTPPに反対する人々の運動』とう名の民衆団体が結成された。
 翌年の2月26日、東京の明治大学に400人を越える人たちがあつまった。会場は反TPPの熱気に包まれた。そして、3月11日の震災と原発事故。
日本の財界は、東日本大震災後の復興に寄与するためにもTPPへの参加を急ぐべきだとする提言を発表している。彼らはTPPへの参加の手綱を緩めてはいない。それどころか一層歩みを早めようとしている。
われわれもまた、「3.11」に揺れながら、これからの反TPPへの取り組みの拡大を考えなければならないだろう。ここでも民の力が試されている。


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朝日連峰の残雪がどんどん小さくなり、ブナやナラの若葉たちが山頂目指してせり上がっていく。里には園風景、渡る風が気持ちいい。こんな春の若草の景色の中に、どうしても目が行ってしまうのが除草剤によって枯れてしまている畔草だ。そもそも畔草は風雨から畔を護り、根は土をしばり水田の決壊を防いでいる。だから農家は畔草を散髪しても、根まで枯らさなかった。
 いま、枯れた畔の風景が広がっている。心が荒む風景だ。背景に水田経営の規模拡大と小規模(家族)農家の離農と老齢化。今更どうしようもないのか。数千年、数百年の農家、農村の歴史と文化。それらを背負いながら、なお離農を決断する農家に翻意をうながす言葉は見当たらない。
 キーワードは「地域社会」「支え合う」「つながる」「環境」などだろうが、根本はこんな現実を作るに至った政治。それを選んできた我々に返って来る。
東京都の副知事の猪瀬某は「朝まで生テレビ」で
「原発を都心からもっと遠くにもって行く必要があった。それが失敗だ。」
と話していた。
この発言を含め、原発が必要だという人たちに共通しているのは
その果実だけを求め、応分のリスクを決して負おうとしないということだ。
この期におよんでも・・・人間として恥ずかしくないのかと思う。
関東にも放射線が降っているではないかという向きもあろうが
そもそも果実は関東だけのものなのだから当然だろう。
なぜ関係のない福島・東北が負わなければならないのだ。
福島で行われているのは社会的殺人。沖縄と同じだ。
ここに来てなお原発の必要を説く輩がいる。
それを言うなら、自分の暮らしの場か実家のある地域に
原発を誘致するよう働きかけるべきだ。その人が東京なら東京に。
さらに放射線の汚染水も小分けしてそれぞれの場所や企業や家庭で引き受けるべきだろう。
その運動とセットにして必要論を語るならば認めよう。
それ以外のどのような必要論も詭弁である。

今朝、そんなことをつらつら考えながらまどろんでいたら鶏舎の方からニワトリの叫び声が聞こえてきた。カラスにびっくりしているのかなと思っていたのだが、狐だった。あっちにもこっちにも・・・、雪の上にようやく玉子を産み出したばかりの若鶏が30羽近く横たわっていた。食べられた後があったのは一羽だけ。

「どうして必要以上に殺しちゃうんだろう。人間みたいで悲しい動物」と、事態を聞いた友人はメールをくれた。
 このメールと原発の話、一見関係無いようでいて、妙につながっているような気もして落ち着かない。
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 高校時代の三年間は、いい意味でも悪い意味でも、俺たちのその後の人生にずいぶん影響を与えているよね。えっ、その中の特に何がですと?笑うなよ、いいかい。それはな・・・こい・・koi・・恋。恋なんだよ。

 少し大きめの制服を着た同級生の中から、一人の女性の姿を眼で追うようになったのは一年生の夏ぐらいからかなぁ。

 以来、卒業までの三年間、悲恋、破恋、恥恋、笑恋、大失恋の数々。

 あまり胸はってよそ様に語れるものはないけれど、胸の中にはいつも特定の人がすんでいたよ。
廊下ですれちがった時にわずかに眼があっただけで、どんな部活の苦しさにも耐えられると思ったし、そこにほんの少しの笑顔でも付け加われば、それこそ一週間は天国に昇ったような気分が続いたね。

 当時はやった「高校三年生」という歌の中に「ぼくら、フォークダンスの手をとれば・・」という歌詞があったけど、そのフォークダンスが何日も前から楽しみで、前の日は念入りに髪を洗い、ツメをきり、と・・。でもね、笑っちゃうのは、イザその娘との番がまわってくるとガチガチになりながらも、わざとそっけなくするんだよね。ばかだねぇ、若いねぇ、かわいいねぇ、あのころの俺、俺たち。

 俺たちは三年間の中で、異性とのつきあい方を学んだと思うよね。想像をやたらふくらませ、美化しすぎることなく、また、その逆でもなく、様々な失恋や悲恋の中から、等身大の異性との関係のとり方、つきあい方を学んだんだと思うんだ。

 もっとも、俺の場合はまだまだ勉強が足りなかったとみえて、卒業後も悲恋、破恋・・は続くんだけどさ。

    




CDを買ってきた。
俺が高校生の頃の歌。
聞き直してみると、懐かしくはあるが、違和感もある。

ちなみに、三田明の「美しい十代」という歌。
若いころ,よく歌ったっけ。
その三番目の歌詞はこうだ。

遅くなるから さよならしよう
話しあったら つきない二人
明日またねと 手を振りあえば
丘の木立に 夕陽が紅い
美しい十代 あぁ十代
抱いて生きよう 幸福の花

「抱いて生きよう しあわせの花」かぁ。
いいなぁ。あの頃。

いまさらだけど
「遅くなるからさよなら」する時間が
「丘の木立に 夕陽が紅い」時間帯だ。
夕日が沈む前?
なんだ!まだ明るいじゃないか!
美しい十代・・・。

何を考えてこのような詞を書いたのだろうね。
そんな時代だったのかといえばちょっと違う。
俺は山形の田舎の高校生だったけれど
一級下の女の子と
お互いが暗くなるまで部活をやってから
待ち合わせて一緒に帰っていた。
わずか1kmのデートだったけど、当然のことながら暗かった。
別れ際に握手するだけの関係だったけれどね。
それを美しいというかどうかは主観の問題。

思うに
「暗くなるからさよならしよう」は、当時の若い作詞家が書いた詞ではないだろうね。
年寄りが想像で書いた詞だと思う。

舟木一夫の歌の詞もそうだ
学園広場の一番目

「空にむかって あげた手に
若さがいっぱい とんでいた」

修学旅行では

汽車はゆく 汽車はゆく
はるばると はるばると
若いぼくらの 修学旅行

汽車はゆく 汽車はゆく
ひとすじに ひとすじに
若いぼくらの 修学旅行

高校生は当然のことながら自分たちのことを「若い」とは歌わない。
「若い」は相対的な概念だ。
これらの歌詞も年寄りの作詞家が書いたものにちがいない。

いまさら、どうでもいいことだけどね。

かつての俺たちが歌っていたものを
これは当時の年寄りが作ったものだと言って、ああだこうだと
講釈を並べるのは、俺自身が歳をとったからだろうな。


あぁ、なんでこんなこと・・・
いい大人の書くことではないよな。
馬鹿だねぇ、おれ。
「百姓」としての誇りをもって生きる。
こんな時代遅れの旗を掲げながら活動する集団がある。
山形県南部の置賜地方。その名も「置賜百姓交流会」。
結成(というにはずいぶんといい加減な集まりだが)したのは1977年。
37年前だ。
卑下ではなく、「百姓」を前向きな意味を持つ言葉として日本で最初に使った団体と言われている。

「農民」が職業を表すとすれば、「百姓」とは「生き方」だ。
土の上に誇りをもって生きようする。当然のことながら農業の主体者は私だ、
国ではないという姿勢は百姓の基本。

情熱を込めて「百姓」を生きる人、その舞台としての農業を語る人だけでなく、
一緒にその世界を創ろうとする人も百姓だ。

もとより、自分だけの世界に閉じこもろうとは、はなっから考えていない。
時の権力、時代の流れに迎合しない生き方、
百姓としての生き方がますます求められる時代にあって、
いま、この「置賜百姓交流会」が全力をあげて呼びかけている催しがある。

http://antitpp.at.webry.info/201401/article_1.html

TPPに反対する人々の運動・全国寄合
日時;2月21日17時〜
場所;全林野会館・502
   東京都文京区大塚3-28-7
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内緒だぞ。
実はおれな、前に言ったかもも知れないけど、密かに品格ある男になることを目指しているんだよ。笑うなよ。大真面目なんだからよ。
どっかで聞いた話だって?そうかもしれん。

でな、他方で百姓として「農と土の大切さ」を語り、訴えてまわりたいとも考えているんだ。子どもたちや非農家の人たちに。合わせて言えば「品格ある百姓講談師」だ。

実はこのことは今は亡き作家の井上ひさしさんから勧めらていたことなんだ。
「菅野くん、農民講談師になってみないか。」

で、品格だけどさ。これは難しいよな。
もともとそんなものの持ち合わせがない上に、
例えば沖縄と向き合ううえで求められる品格とは何か?
原発と向き合ううえでは?肝心の土と農業ではどうだ?
かなりの自問自答が求められるよ。

その上、
生きる品格を大事にすると言うことは、問われている課題と逃げずに正面から向き合うこと。戦うことを厭わないこと。そう思うんだ。

それを避けていたのでは品格が守れないだけでなく、人々が共通に生きていく場すら守れない。それが現在の状況だろうか。

そんな中に「百姓講談師」の世界を求めていく。
おい!お前、百姓として今まで何を経験してきたんだよ・・もっと自信を持て!と自分のケツを蹴り上げながら・・・な。
大丈夫かな、俺。

「氷が溶けたらなんになる?」

 こんな「なぞなぞ」がありましたね。答えは「水になる」。でももう一つ答えが準備されていて、答えは「春になる」。


 大雪ですよ。積雪2mはありますね。屋根に1mぐらいたまればふすまの戸のあけ立てが不自由になり、「ヨイショッ、ヨイショッ」なんて掛け声をかけながら、2,3度引かなければ出入りができなくなる。夜中のトイレはまどろみのなかで用をたし、すぐに布団にもぐりこみたいのだけれど、「うっ、あかねぇ!」なんて言いながら力仕事をやっているうちにすっかり目が覚めてしまうのです。
 その頃は軒から厚く雪が垂れ下がり、「このままでは軒が折れてしまうよぉ。」なんて年寄りが騒ぎ立てるし、母屋だけでなく作業所、鶏舎、農機舎なども同じようなことになっていて、我が家の犬までも早くやれと吠えてくる。上だけならまだしも下の方も玄関から道路までの除雪をしなければ通れないし、車だって動かせない。台所の水道もちょろちょろと出しっぱなしにしておかないとすぐに凍って出なくなってしまう。鶏舎の水道管は何度か破裂してパイプから水が噴出した・・・こんな感じなんですよ。
 でもね、それでも春が待ち遠しいなんて思わない。雪が消えてなくなってほしいなんて考えないですよ。不思議でしょぅ?なぜだかわかりますか?雪に振り回されてはいますが、春の忙しさ、あわただしさに比べ、冬の方がずっと自由な時間があるからです。雪はいやだけど冬がいいというわけです。俺が駄農だからだろうが・・。

 来年度の作付け

 季節がめぐり、来年度の作付を決めなければならないころとなりました。種もみを定めるたんです。
 山形県の奨励品種に「つや姫」というのがあります。最近デビューしました。おいしいとの評判です。来年度から作ってみようと思っています。今までみなさんにご紹介してきましたのは「ひとめぼれ」、「コシヒカリ」の二種類。来年度からは「つや姫」が加わることになり、いくらなんでも品種が多すぎるとの声が家族から上がっていて何の作付けを止めるか・・どうしようかを迷っているんです。我が家の米を食べた方からは「ひとめぼれ」の方がおいしいとの評判を戴いていて、止めるとなると「コシヒカリ」かなとなるのですが、これも捨てがたく・・やっぱり「つや姫」を止めるかぁなどと・・どうどう廻り。正直迷っています。
 我が家の前には、およそ800haの水田が広がっている。一面むせ返るような緑。
 田んぼは今、苗から稲になろうとしている。体の中に子どもを宿しているのだ。稲の出穂(しゅっすい)は人間の出産にあたるのかもしれない。出穂は穂が顔をだすことをいう。その時期は品種によって違うが、我が家の「ひとめぼれ」で言えば、今は出穂の15日前ぐらいだ。たぶん、茎のなかで穂は1cmぐらいにはなっているだろう。濃緑の田んぼのなかで静かに進行する苗から稲への移行。どこか神秘的だ。

 この時期、夜になると「ピカピカッ」「パパパパッ」と稲妻が走る。実際は昼にも同じようにあるのかも知れないが、見えない。雷の音はしない。稲光だけだ。稲妻は昔、「稲夫(いなづま)」と書いたらしい。それがいつしか稲妻となった。稲光、稲妻が男で、田んぼは女。男と女の壮大な和合。稔りの舞台、いのちの舞台。昔の人はスケールの大きな発想をしたもんだ。

 夕方、ゴザとお酒をもって田んぼに出かける。800haのまんなかあたりに敷く。田面を渡る風が心地よい。オレの上には広々とした見わたすかぎりの空。西に朝日連峰が連なっている。雄大な山々。日が傾き、今にも山に入らんとしている。暮れ行く太陽に「人生」を重ねるもよし、逃げていく「希望」を重ねるもよし・・・。そういえば昔、「夕日にむかって叫べ」だったか「夕日にむかって走れ」だったか・・・そんな文句があったなぁ。どんな意味だったのだろう。

 茶碗に酒をそそぎ、口に含みながら、ただ黙って夕日の暮れ行く様を眺めている。静かに時が流れていく。やがて山ひだが消え、ほのかに明るい空と群青色一色になった山々が影絵のように浮かび上がってくる。そのころになれば、空のあちこちに星が姿を見せ始める。ときおり稲妻が走る。そしてオレは・・・まだ一人で静かに酒を飲んでいるのだ。

 くたびれているかい?だったら来いよ。田んぼとゴザは提供するよ。
都合がよければオレも一緒にやんべぇ。

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ようやく芽がで、苗が育ち始めました。
4月20日に撒いた種です。
これは「ひとめぼれ」。
田植えに向けて息子の春平は田んぼに発酵鶏ふんの散布を行っています。
裏山の朝日連峰では残雪をてっぺんに押し上げるように
ブナやナラの緑が頂上を目指して伸びて行きます。
田植えは5月20日からの予定です。
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紅葉が進む山々、里の銀杏。
それにリンゴや柿などの果物たち・・。
風景全体がカラフルに色づいている里の秋。稲刈りもすっかり終わった。
 
それはそれとして、世界的な食料不足の中、国内の稲作現場では4割を越える減反に、40年前の半値近いコメ価格がまかり通り、若い後継者は農業から逃げ、あるいは村を出て行き、高齢化ならぬ老齢化に歯止めがかからず、村も、地域社会も力を失い、青息吐息の瀕死の状態が続く・・村の秋。

 あっちこっちから、今年限りで「農じまい」の声が届けられる。小農(家族農)の屍が累々・・と横たわるこの国の村。

 すでに手遅れかも・・という状況なのだけれど、為政者にはちっとも響いてない。どうするんだろうね、この国の食料、この国の農業。そしてこの国自体。

政治の劣化が、この国で生きる人々のいのちの危機に直につながっている。