「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦

直江兼続(なおえかねつぐ) 最上義光(もがみよしあき)
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真言宗の古寺。慶長出羽合戦の時に直江軍によって焼き払われたとされるお寺です。

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旧暦9月29日。
関ヶ原での西軍敗北の報せを受け、直江軍は直ちに総退却となりました。

この時の富神山周辺での乱戦で義光の兜に敵弾が命中、今もその跡が生々しく残されています。

戦死者は直江軍1600ー最上軍600。

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直江軍が登ったとされる富神山の山頂です。

最上軍の拠点である山形城を攻める際に、山頂から眺めようとしましたが、城には霞がかかって全く見ることができませんでした。
10日待っても霞が晴れず、その間に関ヶ原での石田軍敗北の報が入り、上杉軍は撤退を余儀なくされました。

そのことから、この山を十日見山(とかみやま)、そして山形城を霞ヶ城(現在の霞城公園)と言われるようになったとも言い伝えられています。

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義光は、置賜・下長井地方に通ずる要衝の地である畑谷に、家臣である江口五兵衛を配置して置賜との境を守らせていました。

江口氏は東黒森山の尾根続きの館山に山頂を本丸として、各所に空堀を配した山城を築き、その任にあたりました。

直江軍は主力約2万を率いて荒砥から進撃し、山形城を目指して途中の畑谷城に迫りました。
旧暦の9月13日早朝、江口氏は手勢を指揮して迎え撃ちましたが、約二時(4時間ぐらい)の戦いで敗れて自刃して落城しました。

直江兼続は撫で斬りを命じて500個余の首を取ったと手紙で伝えています。

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谷柏相模守と飯田播磨守は、最上義光の命で畑谷城に救援に向かいましたが、すでに畑谷城は落城していました。

飯田播磨守は、上杉軍に追われる人々を谷柏相模守に託して、自分は追ってくる上杉軍と戦い戦死しました。

この清水は飯田播磨守が末期に飲んだ水と伝えられています。

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最上義光の妹で、伊達政宗の母親である保春院(義姫、お東の方)の警護役として仕えた武将加藤掃部左衛門清次を祀った塚。

清次は親友江口光清が畑谷城で上杉軍に討たれたことに憤激し、長谷堂の戦いに参戦しました。

長谷堂城の北方約1kmのところで戦死。



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