「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦
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元和8年(1622年)最上家は改易となり、近江大森など1万石、ついで5千石に減らされます。その後の領主鳥居忠政(24万石)、保科正之(20万石)らが城を改修して今に残る山形城になったと考えられています。 以後、幕府の政策として城の増改築が制限され、一方山形に移ってきた大名の禄高が小さくなったこともあり、城は次第に荒れ、明治を迎えました。 本丸は壊され、堀の中には32連隊がおかれ、戦後は「霞城公園」となりました。 元三の丸は山形市街の中心部になり、その面影をわずかに残しています。
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