「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦

直江兼続(なおえかねつぐ) 最上義光(もがみよしあき)
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出羽最上57万石、最上氏の居城です。
現在市民の憩いの場となっている「霞城公園」は山形城の二の丸部分。
国指定史跡となって、二の丸東大手門や本丸一文字門も復原されました。

南北朝時代の延文元年(1356年)、奥州大崎から最上に入った斯波兼頼が築城。
この山形城を全国でも指折りの大城郭にしたのは、第11代城主の最上義光でした。

堂々とした二の丸(今の霞城公園)は、文禄年間(1592年〜96年)以後に築かれたと推定されています。さらに慶長5年(1600年)以後には、57万石、出羽の太守にふさわしい巨大な城につくり改められました。

町には各地から集まった商人や職人が住み、市が立ち、生産や物の売買が盛んに行われていたと考えられます。寺や寺院を建て、街路にはクランクやT字路を設けるなどの防衛の配慮もなされています。

当時の山形の人口はおよそ3万人ぐらいで、奥羽地方でも最大の都市だったと推定されています。

史跡マップ>>こちら
義光の大改修
義光の大改修後、最盛期における山形城は次のように壮大なものでした。

■本丸
 東西:170m 南北:190m 面積:2.83ha

■二の丸
 東西:530m 南北:590m 面積:27.99ha

■三の丸
 東西:1,580m 南北:2,090m 面積:234.86ha
2008.06.25::修正削除
その後の山形城
元和8年(1622年)最上家は改易となり、近江大森など1万石、ついで5千石に減らされます。その後の領主鳥居忠政(24万石)、保科正之(20万石)らが城を改修して今に残る山形城になったと考えられています。

以後、幕府の政策として城の増改築が制限され、一方山形に移ってきた大名の禄高が小さくなったこともあり、城は次第に荒れ、明治を迎えました。

本丸は壊され、堀の中には32連隊がおかれ、戦後は「霞城公園」となりました。
元三の丸は山形市街の中心部になり、その面影をわずかに残しています。



2008.06.25::修正削除
慶長出羽合戦
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