長井市中央地区公民館

長井市中央地区公民館
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 明治15年に最上川に木橋の長井橋がかかるまで、長井から最上川東岸を
森・東五十川・浅立・畔藤を通って荒砥へ通ずる道は、大町の五十嵐歯科
から東に進み(新屋敷)病院東に進み、最上川堤防に達する道が古い道で
あった。
 最上川のつきあった所の南が宮舟場で、北が渡船場である。特に元禄7年
(1694)に最上川上流の舟運が開通し、宮舟場ができるとこの道は舟場と
商店街十日町・大町とを結ぶ重要な道路として、米やその他の物資の輸送
で大へん賑わった所でもある。

平成7年度設置。平成11年度修復。



 宮船場は元禄7年(1694)にでき、小鵜飼(こうかい)舟が置賜地方の
米・青苧をつんで酒田に下るようになると、藩の陣屋・米蔵が建ち、船衆
や引子連中が集まって舟場部落の家数も増えた。文政8年(1825)に舟場
衆が地蔵堂に寄進した鰐口には「船町中」と書いている。「町」と自ら
称したのは、船場が町並みを形成し栄えたことを誇ろうとする気持ちが
うかがえる。
 鰐口の表中央円内に記名されている豊野伊左衛門は船場陣屋の役人を
勤めた人である。

平成3年度設置。平成25年度修復。








 大正4年に大正天皇の御即位大典を記念して、後の世まで残る記念
事業をしようという町民の声により、最上川に沿う両岸の堤防の上に
数百本の染井吉野桜を植えた。それから20年ほど経過した昭和9年頃は
桜樹も成木となり「花時百朶爛漫(ひゃくだらんまん)、水に映じて
花氈(かせん=花の敷物)を布き、堤上錦繍(きんしゅう=にしき)の
幔(まん=はりめぐらした幕)をはる」と文人をも感嘆させた。附近
一帯は散策に適している。

平成3年度設置。平成21年度修復。

最上川堤防千本桜(長井市観光ポータルサイト)


 小出船場は宮船場より遅れてつくられたが、文化文政の時代(1804〜)
になり、粡町が長井で最も活気のある商店街となり、豪商が軒をならべる
と、小出船場は民間の船場として関西北陸からの物資輸入港として栄えた。
二ツ橋料理店から東へ287号線を越えて現在の堤防を下りたあたり、最上川
と古川の合流点付近に小出船場があった。船が入ると振鈴(しんれい)を
ならして町中にふれ、それに応じて背負い子が集まって荷揚げ商品を運ん
だ。明治10年には51艘の船があった。

平成3年度設置。平成19年度看板修復。






 日本の近代郵便制度の政府事業として始められたのは明治5年である。
長井郵便局が開局したのは明治5年7月1日で、駅逓頭(えきていかしら)
前島密と縁故関係のあった小出粡町の関野与四郎が局長に命じられ、
「小出郵便取扱所」の名で自宅に開設した。
 関野は日野屋の屋号で魚類・乾物を売買し戸長も勤めた有力者で、
蒼波(そうは)の号で俳句もよんだ文化人だった。

平成3年度設置。平成25年度修復。




 中山梧郎翁は昭和32年より12年間長井簡易裁判所判事として奉職。
かたわら、「きりを」を号して俳句を嗜まれた。
句集「ながゐ」はこの地の風土と人々を愛情をこめて詠まれている。
昭和48年より61年まで創設者佐藤柊波の後を継ぎ長井俳句会会長。
俳誌「流水群」を主宰。第二句集「氷滴」により昭和62年4月山形県
俳人協会より顕彰された。
 これを機に長井俳句会句有志相集い昭和62年10月11日句碑建立。
句は裁判官退職の偶感。

昭和63年度設置。(つつじ公園内)