長井市中央地区公民館

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 昭和56年9月建碑除幕。

 最上川 にごり上げゆく 水波に
 光するどく 暉らふしばしば

 明治37年大石田町に生まれる。本業は米穀薪炭商。大正14年「アララギ」
に入会、歌風は感性豊かで重厚である。
 昭和21年疎開中の師斎藤茂吉を大石田に迎え、茂吉の歌集「白き山」は
ここで生まれた。歌集「礫底」随筆「白き山と最上川」などを刊行し、斎藤
茂吉文化賞を受賞。
(平成5年度設置 平成19年10月に宮原から白つつじ公園内へ移設)




 昭和56年(1981)5月建碑除幕。
 
 春となる風騒げど 雪たかき
 山をそがひに 虹あらはれぬ

 明治30年(1897)4月長井市五十川に生まれる。大正9年(1920)に
「アララギ」に入会し、大正11年に結城哀草果のすすめで島木赤彦に、
後に斉藤茂吉に師事して作歌の指導を受ける。
 昭和20年(1945)に故郷五十川に疎開してそのまま定住。故郷の自然
や波乱にみちた生活を力強く詠みあげた歌集「草餐」「残虹」「野川」を
発刊し、斉藤茂吉文化賞を受賞する。

平成5年度設置 平成19年10月に宮原から白つつじ公園内へ移設。
令和2年修復。




 昭和56年3月8日建碑除幕。詩文は「青猪」の詩の一節。

 青ゆき 美しく つもりて
 谷なすところ 崖なすところ
 青猪はしる 青猪走る
 ああ
 雪降りたり 青き縞なして
 雪は つもりたり

青年の頃から農民運動に参加し、昭和7年25歳で処女詩集「街の百姓」を
敢行。
 戦後終始野にあって市民平和・民主教育・自然保護の諸運動を続けな
がら、日本の農の文化史を射程において詩の連作をつづけ、多くの後輩
を育成する。
 毎日出版文化賞受賞。
(平成5年度設置 平成19年10月に宮原から白つつじ公園内に移設)




 白賀(はくが)は本名を田辺与右ェ門といい、寛政元年(1789)越後蒲原郡
から、宮村開発移民の一人として宮村に移住したが、もともと深い学問の
教養があり、特に俳諧・市文に優れていたので、寺子屋の師匠のかたわら、
俳人グループと交際し、また依頼に応じて多くの写本を残すなど、文化の
普及向上に尽くした功績は高い。この碑は白賀を慕う門人たちの建てた報
恩碑と思われるが、年代は不詳。
 文化三年十月七日没七十一歳
 戒名は寿量院道本日照居士
(昭和62年度設置 平成20年度修復・再設置)




 寛政元年(1789)に越後から新天地を求めて中道に移住した田辺百姓は、
熱烈な日蓮宗信者で、椿(飯豊町)の本長寺を中心に、日蓮宗を心の支え
として開拓に励んできた。
 その後中道の人口も増え、中道に日蓮宗の寺を求めたいという気持ち
が高まり、一方山本英玄氏の奔走により、明治43年3月6日関係機関の許
可がおり、田辺百姓の長年の念願をはたした。本堂には祖師日蓮上人像
を中心に、鬼子母神・天曼荼羅が安置されている。鬼子母神については、
体質の弱い子をその取り子にしてもらうことによって、無事に成長させ
るという民間信仰も流行している。
(平成4年度設置)




 江戸時代に越後から米沢領内に集団で移住し、荒地の開墾に従事した
農民を、藩は田辺(たなべ)百姓といい熱心な日蓮宗信者であった。
 中道に田辺百姓19名が入植したのは寛政元年(1789)であるが、その折
彼等は日蓮上人の木像1体と三十番神の木像30体を持ち運んできた。番神
の堂を建てたのは同5年8月のことである。
 三十番神は法華守護の神として、1ヵ月30日、毎日代り番に守護する
30体の神のことである。現在のお堂は昭和53年の再建である。もともと
椿の本長寺の所属であったが、昭和17年地元恵光院の所属となった。
(昭和61年度設置 平成11年度修復・再設置)