戦国観光やまがた情報局

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首都圏で流している「天地人博2009」のテレビコマーシャルです。
その1「かねたん編」です。

伊達宗遠(だてむねとお):1324〜1385
  伊達家8代当主。陸奥国伊達郡を拠点に南朝方の武将として周辺地域に攻め入り、1380年頃からは数年をかけ、長井領であった出羽国置賜郡を攻略した。1383年には米沢成島八幡神社拝殿を造営している。
     関連史跡:成島八幡神社(米沢市)


伊達政宗(儀山)(だてまさむね(ぎざん)):1353〜1405
  伊達家9代当主。父・宗遠とともに米沢の長井広房を攻め追放し、置賜郡を伊達家の拠点の一つとした。鎌倉公方と京都公方の対立の中で奮戦、奥羽での伊達家の地位を確立し、伊達家中興の祖と呼ばれる。後の17代当主政宗の名もこのことにあやかった。
     関連史跡:資福寺 政宗墓所(高畠町)


伊達稙宗(だてたねむね):1488〜1565
  伊達家14代当主。周辺勢力と婚姻・養嗣子関係を結んで勢力を拡大。それまで前例のない陸奥守護職に任じられた。三男・実元の越後守護上杉家への入嗣問題をきっかけに、家臣団への統制強化に不満を持った有力家臣らに担がれた嫡男・晴宗に幽閉され、南奥羽全域を巻き込む天文の大乱が起こった。


伊達晴宗(だてはるむね):1519〜1577
  伊達家15代当主。稙宗の嫡男。父と対立して天文の大乱を引き起こした。乱の終息後に家督を相続。本拠地を米沢に移した。代々大崎氏が継承してきた奥州探題職に就任した。父と同じく、婚姻外交を駆使して伊達家の勢力拡大を図った一方、有力家臣の権限を認めて、宿老の中野宗時を重用し、その専横を許した。
     関連史跡:米沢城址


伊達輝宗(だててるむね):1544〜1585
  伊達家16代当主。晴宗の次男。父との対立を経て家督を継ぐ。権勢を振るう宿老・中野宗時が謀叛を起こすが、これを討伐。その後は謀叛鎮圧に功績のあった遠藤基信を重用した。相馬家とたびたび争ったほか、義父の最上義守の要請を受けて最上義光とも争う。嫡男・政宗に家督を譲った翌年、二本松義継に拉致され、救援に来た伊達軍の銃撃に巻き込まれ死去。
     関連史跡:資福寺 輝宗墓所(高畠町)


伊達政宗(だてまさむね):1567〜1636
  伊達家17代当主。輝宗の嫡男。独眼竜の異称で知られる。18歳で父から家督を譲られると、瞬く間に周辺諸国を席巻。摺上原の戦いに勝利して会津の蘆名家を滅ぼし、南奥羽のほぼ全域を手中に収めた。
     関連史跡:伊達政宗公生誕の地の碑


大有康甫(だいゆうこうほ):1534〜1618
  伊達稙宗の十三男。一風軒と号す。東昌寺十四世住職。伊達家の外交僧として活躍。政宗の学問の師として虎哉宗乙を推挙した。
     関連史跡:東正寺(南陽市)


伊達小次郎(だてこじろう):1568?〜1590
  輝宗の次男。政道(まさみち)と名乗ったとも云われる。蘆名家への養子の話があったが、佐竹家から義広が養子に入ったため、伊達家と蘆名家との関係が悪化した。1590年政宗が毒を盛られた事件が起こった際に誅殺された。


小原定綱(おばらさだつな):1555〜1592
  伊達小次郎の傳役。小次郎誅殺後、その遺骸の埋葬場所を求めて各地を流浪。埋葬が叶ったのちに殉死した。


粟野秀用(あわのひでもち):?〜1595
  伊達小次郎の傳役。二色根城主(南陽市)。小次郎誅殺後に伊達家を出奔し、関白豊臣秀次に仕えた。伊予松前15万石の大名にまで取り立てられる。1595年秀次事件に連座して自害した。この件では、伊達政宗も関与を疑われ、釈明に追われることとなった。


小梁川親朝(こやながわちかとも):?〜?
  1514年伊達稙宗に従って最上氏を攻めた。長谷堂城(山形市)の戦いにて、最上義定らの軍勢を破り、奪い取った長谷堂城の守備を任された。翌年、伊達稙宗の妹が最上義定に嫁ぐことで和議が成立すると、長谷堂城から撤退した。
     関連史跡:長谷堂城址(山形市)


小梁川親宗(こやながわちかむね):?〜1546
  親朝の子。天文の大乱では晴宗方につき、高畑城主となる。中野宗時とともに上洛するなど重臣として活躍し、北条氏康にも謁見している。
     関連史跡:高畑城址(高畠町)


小梁川盛宗(こやながわもりむね):1523〜1595
  親宗の子。高畑城主。伊達晴宗の娘婿。知勇に優れ、最上家や大内定綱との戦いで活躍した。しかし元亀の変の祭に、討伐を受けた中野宗時らを高畑城下にて見過ごしたため、輝宗から叱責された。後に出家して泥播斎と号す。政宗に近侍して、様々な献策をした。
     関連史跡:高畑城址(高畠町)


小梁川宗重(こやながわむねしげ):1545〜1602
  盛宗の子。刑部。一家に列せられる。


小梁川宗朝(こやながわむねとも):1469〜1565
  親朝の弟。京で兵法・剣術を修行し、将軍足利義晴に召し出された。帰国して稙宗に仕え、天文の大乱では、西山城に幽閉されていた稙宗を救出した。乱の終息後も稙宗に近侍し、稙宗の死後、殉死した。


小梁川宗秀(こやながわむねひで):1510〜1570
  宗朝の子。中野宗時らが反乱を企てた元亀の変では、新田景綱とともに追討軍の先鋒を務めて小松城を攻めた。宗時らを敗走させる奮戦のすえ、討死した。
     関連史跡:小松城址(川西町)


桑折景長(こおりかげなが):?〜?
  伊達稙宗の三男・実元の越後守護上杉家への入嗣に反対し、中野宗時らとともに稙宗の嫡男・晴宗を擁立した。天文の大乱では晴宗の重臣として活躍。


桑折貞長(こおりさだなが):?〜1577
  景長の長男。伊達晴宗の奥州探題就任に尽力し、牧野久仲とともに奥州守護代に任じられた。中野宗時、牧野久仲父子が謀叛した元亀の変後に、久仲に替わって小松城主となる。
     関連史跡:小松城址、佛成寺(川西町)


桑折宗長(こおりむねなが):1532〜1601
  貞長の長男。相馬家との争いや人取橋の戦いで活躍。摺上原の戦いにも出陣した。隠居後は点了斎不曲と号す。評定衆として政宗を補佐した。


桑折政長(こおりまさなが):1556〜1593
  宗長の長男。摺上原の戦いに父とともに出陣した。文禄の役の祭は、伊達政宗に従って朝鮮に渡海したが、病を得て釜山浦にて病死した。妻は飯坂宗康の長女、伊達政宗の側室・猫御前の姉。


原田宗政(はらだむねまさ):?〜1582
  原田城主。桑折宗長の次男で、伊達家累代の宿老・原田家を継ぐ。1582年に戦死。


原田宗時(はらだむねとき):1565〜1593
  桑折宗長の三男。山嶺源市郎の子。原田家を継いだ伯父の宗政が、嗣子の無いまま戦死したため。その跡を継いだ。伊達家宿老として会津攻略、佐竹・岩城連合軍との戦いなどで活躍した。朝鮮出兵の際は、政宗に従って渡海したが、病を得て対馬にて死去。
     関連史跡:原田城址(川西町)


原田宗資(はらだむねすけ):1582〜1623
  桑折宗長の四男。原田宗時が病死したため、伊達政宗の命により原田家を継いだ。徳川家康が上杉景勝の討伐を決め、帰国を命じられた政宗が宿敵の相馬領を通過する際に、使者として赴き、無事に通過させることに成功した。伊達騒動の当事者のひとり、原田甲斐宗輔の父。


片倉景時(かたくらかげとき):?〜?
  小桜城主(長井市)。天文の大乱では晴宗方につく。稙宗方の鮎貝、大立目、最上氏の連合軍の南下を押し返し、置賜地方での晴宗方の勝利に貢献した智勇兼備の名将。
     関連史跡:小桜城址(長井市)


片倉景親(かたくらかげちか):?〜?
  景時の長男。意休斎と号す。父の跡を継いで小桜城主(長井市)となる。輝宗・政宗の二代に仕え、大内定綱への使者を務めている。弟の景重は米沢八幡神社の神職となった。
     関連史跡:小桜城址(長井市)


片倉景綱(かたくらかげつな):1557〜1615
  米沢八幡神社の神職・片倉景重の次男。遠藤基信の推挙により、伊達政宗の近侍となる。知の面から政宗を補佐し、参謀として活躍した。伊達成実、鬼庭綱元とともに「伊達の三傑」と称される。笛の名手としても知られる。


片倉喜多(かたくらきた):1539?〜1610
  鬼庭良直の娘。片倉景綱の異父姉。男子に恵まれなかった母は離縁され、から倉景重に再嫁した。その後に生まれたのが景綱である。鬼庭良直も再婚して男子をもうけているため、鬼庭綱元の異母姉でもある。のちに伊達政宗の乳母・養育係を務めた。


片倉重綱(かたくらしげつな):1585〜1659
  景綱の長男。のちに重長に改名。父に劣らぬ知勇兼備の武将として活躍した。大坂の陣では、病気の父に代わって出陣、後藤基次を討ち取るなどの武功を挙げた。「鬼の小十郎」の異名を持つ。


矢内重定(やないしげさだ):?〜?
  米沢城下・大町の検断職に任じられた。合戦の際は騎馬で従軍しとと云われる。娘が片倉景綱に嫁ぎ、嫡男の重綱を産む。伊達政宗が仙台に移った際にも仙台大町の検断職を務めた。


鬼庭良直(おににわよしなお):1513〜1585
  左月斎。川井城主(米沢市)。武勇に優れ、評定役を務めた。人取橋の戦いでは、伊達政宗から金色の采配を賜り、全軍を指揮した。老齢のため甲冑は着けず、黄綿帽子に水色陣羽織という出で立ちで奮戦するも、壮絶な討死を遂げた。


鬼庭綱元(おににわつなもと):1549〜1640
  良直の長男。1575年に家督を継ぎ、川井城主(米沢市)となる。行政手腕に優れ、38歳で奉行に抜擢された。朝鮮出兵の際は物資補給を担当して、伊達軍に餓死者を出さなかった。伊達家の内政を支え、片倉景綱、伊達成実とともに「伊達の三傑」と称せられる。


遠藤基信(えんどうもとのぶ):1532〜1585
  役行者金伝坊の子。はじめ中野宗時に仕えたが、宗時の謀叛の企てを知り、伊達輝宗に新田景綱とともに訴えでて、謀叛鎮圧に功績を挙げた。これにより輝宗の信頼を得て、伊達家の内政を取り仕切るようになった。織田信長や北条氏照らとの外交交渉を担当したほか、片倉景綱の才能を見抜き、伊達政宗の近侍に推挙した。輝宗が非業の死を遂げると、その葬儀後に殉死した。
     関連史跡:資福寺・伊達輝宗墓所(高畠町)


遠藤宗信(えんどうむねのぶ):1572〜1593
  基信の長男。父の死後家督を継ぐ。伊達家宿老。佐竹・蘆名連合軍との戦いで軍功をあげる。朝鮮出兵でも大功を挙げるが、帰国後出奔し、のちに諭されて帰参する。朝鮮で得た病が癒えず、京で病没した。


屋代景頼(やしろかげより):1563〜1608
  置賜郡屋代郷(高畠町)を本拠とした一族の出身。祖父の閑盛は伊達家の国老であったが、父の代で所領が没収された。兄は鹿股家を継いだため、景頼が屋代家を継いだ。政宗に近侍して奉行に任じられ、朝鮮出兵の際は岩出山城の留守居役を任された。次第に傲慢な振る舞いが多くなり、政宗に咎められて追放された。


後藤信康(ごとうのぶやす):1555〜1614
  湯目重弘の次男。後藤信家の養子となって後藤家の家督を継いだ。知勇兼備の武将と知られ、黄色の母衣を身にまとって戦ったため、「黄後藤」の異名を持つ。対蘆名戦では、桧原城(北塩原村)を守備した。その後も朝鮮出兵など、数々の戦いで武功を挙げた。


湯目景康(ゆのめかげやす):1564〜1638
  重康の子。人取橋の戦いや摺上原の戦いで活躍した。葛西・大崎一揆の鎮圧後に佐沼城主となる。伊達政宗が豊臣秀次の謀反に加担したとの疑いをかけられた際、津田原で秀吉に拝謁し、政宗の無実を訴えた。この功績により津田と改姓した。慶長出羽合戦の時は、最上家への援軍の副将として活躍した。


湯目重旧(ゆのめしげひさ):?〜1600
  奥羽の関ヶ原と呼ばれる慶長出羽合戦の際、伊達家から最上家へ援軍として派遣される。西軍敗北により撤退を開始した直江兼続率いる上杉軍への追撃戦で討死した。
     関連史跡:湯目の碑(山形市)


伊達政景(だてまさかげ):1549〜1607
  晴宗の三男。留守顕宗の養子となり、奥州の名家・留守氏を継いだ。朝鮮出兵にも従軍し、帰国の途中で伊達姓を拝領した。慶長出羽合戦では、最上家への援軍の大将として、約3000の軍勢を率いて出陣した。


鮎貝宗重(あゆかいむねしげ):1555〜1624
  鮎貝城主(白鷹町)。日傾斎と号す。長男の宗信が最上義光の計略に乗り謀反を図る。宗重は説得を試みるが、宗信は聞き入れなかったため、伊達政宗に訴え出て、鮎貝城を攻めさせた。宗信は最上領に落ち延び、家督は次男の宗益が継いだ。その後も政宗に近侍し、様々な評定に参加した。
     関連史跡:鮎貝城址(白鷹町)


新田景綱(にったかげつな):?〜?
  舘山城主(米沢市)。中野宗時の孫娘を妻にしていた長男の義直が宗時の謀反に加担していることを知り、義直を捕縛して、遠藤基信とともに伊達輝宗に訴え出た。小梁川宗秀とともに追討軍の先鋒を務め、宗時らの拠る小松城(川西町)を攻め落とした。家督は次男の義綱が継いだ。
     関連史跡:舘山城址(米沢市)


中野宗時(なかのむねとき):1501?〜1571?
  伊達家重臣。伊達稙宗の嫡男・晴宗を擁立して稙宗を幽閉させた。その後、稙宗方と晴宗方に分かれて争った天文の大乱では、晴宗の参謀として勝利に貢献した。その功績から晴宗に重用され、家臣団髄一の権勢を振るった。輝宗が伊達家の家督を継ぐと、謀反を企てたため討伐された。相馬領に落ち延びたが、そこも追われ、会津に向う途中で飢えと寒さから死去した。中野常陸。


中野親時(なかのちかとき):?〜?
  宗時の長男。伊達家の分国法である「塵芥集」の制定にあたって、父とともに家老評定人として連署している。


牧野宗興(まきのむねおき):?〜1542
  牧野家は伊達家の歴代宿老を務めた名家。伊達稙宗が大崎氏を攻めた際には第一陣の大将を務めた。天文の大乱では晴宗方に付くが、稙宗方の攻撃を受け息子の景仲とともに戦死。中野宗時の次男が家督を継いだ。


牧野久仲(まきのひさなか):1529?〜?
  中野宗時の次男。小松城主。伊達家累代の宿老・牧野家を継いだ。伊達晴宗の奥州探題就任に尽力し、桑折貞長とともに奥州守護代に任じられた。伊達輝宗の代に、父・宗時とともに謀反し小松城にて戦うが、敗れて相馬領に落ち延びた。


富塚仲綱(とみづかなかつな):?〜1542
  伊達家宿老。洲島城主(川西町)。天文の大乱では伊達稙宗方につき、戦いに敗れて討死。そのため富塚家は一時断絶した。


富塚宗綱(とみづかむねつな):1543〜1613
  仲綱の長男、幼少時に父が討死しお家断絶となるが、伊達晴宗に許され富塚家を再興した。伊達輝宗の代になって再び宿老に取立てられた。人取橋の戦いに従軍し活躍する。和漢連句にも長じていたという。


富塚信綱(とみづかのぶつな):?〜1627
  宗綱の長男。伊達家宿老。佐竹・蘆名連合軍との戦いで軍功を挙げる。朝鮮出兵や大坂の陣でも戦功を挙げた。最上家が改易された際、伊達政宗の命を受け、政宗の母・保春院を仙台に連れて帰った。


浜田宗景(はまだむねかげ):?〜?
  一本柳館主(高畠町)。伊達稙宗が大崎氏を攻めた際に第二陣の大将を務めた。天文の大乱では晴宗方について宿老となる。


浜田景隆(はまだかげたか):1554〜1591
  伊達家宿老。一本柳館主(高畠町)。大崎合戦では陣代として出陣、摺上原の戦いでは後備を務めるなど、各地の戦いで活躍した。大崎・葛西一揆の鎮圧戦で、宮崎城を攻略中に鉄砲で撃たれ戦死した。


土肥単備中守(どひたんびっちゅうのかみ):?〜?
  山上地区を本拠とした在地領主で、伊達氏家臣の戸板氏か。土肥(多)備中守も同一人物と思われる。


片倉修理亮(かたくらしゅりのすけ):?〜?
  片倉景広の長男。下長井庄の平山郷や朴沢郷等に所領を与えられ、天正2年の「着到帳」には馬上1、鑓6と記されている。長井市平山には現在でも周囲を堀と土塁で囲んだ片倉館跡があり、片倉修理亮の居館と伝わっている。伊達政宗の岩出山移封の際、修理亮の支族が当地に残り帰農したといわれている。


安久津修理助(あくつしゅりのすけ):?〜?
  安久津孫二郎の子か孫。安久津の名字は伊達郡大石郷の安(阿)久津に由来するもので、下長井地方や伊達地方に所領が与えられた。長井市時庭正法寺境内には現在でも土塁の一部が残り時庭館の跡とされ、安久津氏の居屋敷とみられている。歌丸氏も安久津氏の一族で下長井庄の時庭と歌丸一帯に所領が与えられていた。


大町家継(おおまちいえつぐ):?〜?
  大町氏は伊達氏の重臣で刈田郡大町郷(宮城県白石市)を本貫とし、大町七郎が九野本で所領を与えられていた。長井市九野本の正福寺に隣接し土塁が残っており大町氏との関りが想定されている。大町家継と大町七郎の関係は不明。


大津美作守(おおつみまさかのかみ):?〜?
  大津美作守藤原光本といい、宮沢在城の城主。大津氏は宮内に居住し、宮内熊野神社と深い関りを有する。嘉吉3年(1443)に熊野神社が火災に遭い、その際に太刀や獅子を奉納している。大津美作守の名称は繰り返し使用されている。


大津土佐守(おおつとさのかみ):?〜?
  宮沢城主で政宗の家臣である。宮沢城は伊達氏の領国境にある城館群の背後に築いた北部防衛線の要の位置にあり、国人領主である大津氏は重臣に準じる扱いを受けた。子の大津将監が天正二年最上攻めに参陣。大津土佐守の名称は繰り返し使用されているが、最後の大津土佐守(大津将監の孫)は天正19年政宗の移封に随伴し、栗原郡武隈村に移った。


大津郷次(おおつさとつぐ):?〜?
  大津土佐守の弟で、大津庄左衛門。天正19年蒲生家に仕え宮沢城三千石の知行を与えられたが、慶長三年上杉氏に仕えることができず熊野神社の神主になった。


粟野義広(あわのよしひろ):1185〜?
  粟野次郎藤原義広は、伊達家3代当主の伊達義広である。居城を伊達郡桑折郷の粟野大館に移した。『米府鹿之子』に、二色根館は「粟野次郎藤原義広が居城なり」と記すが、おそらく居城ではなく、義広が館を築かせた伝承と思われる。


粟野喜左衛門尉(あわのきざえもんのじょう):?〜?
  伊達(粟野)義広の子孫、粟野十郎左衛門尉宗次。二色根館の館主で、伊達の親族であったが家臣となった。中山城等、領国境の諸城館の後方支援をしながら米沢盆地北部東側を護っていた。


粟野喜右衛門尉(あわのきえもんのじょう)?〜1595
  粟野十郎左衛門尉宗次の子で粟野藤八郎。政宗の近侍であったが天正18年(1590)勘気を蒙って出奔し、羽柴秀吉に仕えた。名を粟野杢頭秀用(もくのかみひでもち)と改め、伊予十五万石の領主となって関白秀次の聚楽の城に近侍したが、文禄4年(1595)に秀次事件に関係し死罪となった。


増田摂津守藤原興隆(ますだせっつのかみふじわらのおきたか):1526〜1591
  梨郷上館に居城した増田氏三代目。増田氏は伊達稙宗、晴宗、輝宗、政宗に仕えた一族で伊達郡増田村と羽前の内に采地を賜った。妻の広田伊賀の娘は伊達政宗の乳母である。


増田宗繁(ますだむねしげ):?〜?
  興隆の子、増田将監宗繁、梨郷上館に居城した。摺上原の戦いで一日で首九級を得る活躍を見せ、文禄・慶長の役でも政宗に従った。豊臣秀吉に拝謁し、景光の刀を賜わった。


浜田伊豆守景隆(はまだいずのかみかげたか):1554〜1591
  出羽国屋代庄一本柳の武将。宗景の子。伊達政宗の信頼が厚く、摺上原合戦などに出陣。葛西大崎一揆で討死した。


浜田大和(伊豆)守宗景(はまだやまとのかみ・いずのかみむねかげ):?〜?
  出羽国屋代庄一本柳の武将。屋代庄を中心に勢力を張り、伊達氏の重臣・宿老として知られる。宿老の一人として、伊達稙宗の時代に整備された「塵芥集」に署名している。


鮎貝成宗(あゆかいなりむね):?〜1460
  初代鮎貝城主(白鷹町)。鮎貝氏は藤原安親を祖とし、横越城(同町)を拠点としたが、応永3年(1396)に成宗が鮎貝城を築き、鮎貝氏を名乗ったという。瑞岩寺を開き、相応院を祈願所とした。


鮎貝盛宗(あゆかいもりむね):?〜?
  4代目鮎貝城主(白鷹町)。天文の乱において伊達稙宗につくが、勝利した晴宗の安堵状によると領地の拡大が許された。


鮎貝宗信(あゆかいむねのぶ):?〜?
  6代目鮎貝城主(白鷹町)。父宗重と仲違いしたことが領主伊達政宗に伝わり、謀反人として鮎貝城を攻められた。その原因は諸説あり、最上義光との内応が知られている。近年の研究では、伊達家中でも最上位の家柄であり、独立性の強かった鮎貝氏を完全な支配下におくために父子の争いに政宗が乗り出したのだろうと述べられている。逃亡した宗信は、義光四男の山野辺義忠の家臣となり鮎貝十郎座衛門と名乗った。


高玉茂平(たかだましげひら/もへえ):?〜?
  高玉城(白鷹町)の城主。高玉氏を名乗り、兄の鮎貝宗重に城を任されるが、四代でついえた。高玉茂兵衛、高楡兵部大輔とも。


国分政信(こくぶんまさのぶ):?〜?
  伊達政宗時代の人物。国分氏は、もとは信濃国の領主だったが奥州へ移って伊達家に従い、刈田、伊達、最上、長井など、各地に領地を有した。萩生郷を本拠としたことから、政信の時代には交換や売買によって土地を萩生郷周辺に集め、伊達家の領内統治に重要な役割を担った。なお、政信は伊達政宗の岩出山移封に同行し萩生城を離れている。


中津川伯耆守(和泉)(なかつがわほうきのかみ(いずみ)):?〜?
  中津川氏は、福島県国見町石母田を本拠としながら、中津川郷一円を所領した領主である。中津川伯耆守は伊達稙宗、晴宗時代の当主で、石母田にある西館に居住していたが、上原館も名目上は中津川伯耆守の居館であった。天文の乱では稙宗に付いて次男・助兵衛と敵対した。乱後は伯耆守を助兵衛に譲り、自身は和泉に改名している。


中津川助兵衛(なかつがわすけのひょうえ):?〜?
  中津川伯耆守の次男である。父の上原館に居住したが、天文の乱の際には伊達晴宗方に付き、岩倉館に籠って兄・弥五郎と戦闘を行っている。乱後は、父から伯耆守の官名と上原館を譲り受けた。


中津川弥五郎(なかつがわやごろう):?〜?
  中津川伯耆守の長男で、別名を大膳という。父・伯耆守と共に行動し、天文の乱においても、弟・助兵衛と敵対し、助兵衛が守る岩倉館へ攻め込んだ。


中津川丹波守(なかつがわたんばのかみ):?〜?
  伊達輝宗、政宗時代の人物で、中津川弥五郎の子。会津、越後、田村、荘内への使者を務めたほか、会津との国境警備を行って敵を討ち取るなど文武両道で活躍した。政宗からは、中津川郷の金山における監督権を認められている。


五十嵐正栄(いがらしまさひで):?〜?
  伊達輝宗・政宗時代に活躍した人物である。先祖は越後の蒲原郡に住んでいたが、寛政年中(1460〜65)に正栄の祖父・栄正(左馬助)が椿郷へ移り、伊達尚宗に仕えた。正栄は片倉小十郎の副官を務め、小旗に片倉家の鐘の紋を使うことを許されている。輝宗が阿武隈川において畠山義継に殺害される場に同席しており、その後の政宗による二本松攻めにも従軍した。


五十嵐正仲(いがらしまさなか):?〜?
  伊達政宗時代の人物。政宗の岩出山移封に同行せず椿郷に残り、蒲生氏郷、上杉景勝に仕えた。上杉時代には中山城下に移り、最上の陣に参加。また大坂の陣へも出兵し、江戸時代には米沢へと移っている。国分政信が出た後の萩生城に入ったとされる赤座八右衛門(あかざはちえもん)は会津を領する蒲生氏郷の家臣で、伊達時代から椿郷に居住した五十嵐正仲の協力を得て、統治に努めた。


遠藤四郎左衛門(上野守)(えんどうしろうざえもん(こうずけのかみ)):?〜?
  遠藤氏は手ノ子郷周辺に広い土地を有した領主で、代々四郎左衛門を襲名した。手ノ子郷は越後方面への守備の要であり、領主である遠藤氏は、越後と置賜の交通の要である街道百二十里の監督を任じられていた。なお伊達家が他の大名に贈答する鷹は良質で「伊達の名鷹」と言われたが、この産地が遠藤氏の領内にあったことから、伊達政宗にも度々鷹が献上されている。このような鷹場の監督も遠藤氏の役割であったとみられる。


天下分け目の関ヶ原合戦と時を同じくして、東軍方の最上義光と西軍方の上杉軍・直江兼続が出羽・山形で激突した「慶長出羽合戦」。この戦いは畑谷城・長谷堂城を中心に激戦が繰り広げられ、上山でも壮絶な戦いが行なわれました。

大河ドラマ「天地人」でもいよいよ関ヶ原の場面が登場し、この慶長出羽合戦も取り上げられることでしょう。
「慶長出羽合戦」で戦った最上義光や直江兼続についての講演会や展示会等が開催されます。貴重な資料も展示されますので、是非ご来場ください。

◎上山城 秋の特別展「兼続と義光とかみのやま」

▼会期:9月19日(土)〜10月18日(日)
▼会場:上山城特別展示室
▼入館料:大人400円(団体350円)、高・大学生350円(団体300円)、小・中学生50円(団体40円)※毎週土曜日は小・中学生無料

■講演会
 (1)「慶長五年の直江兼続」
      日時:9/20(日) 午後2時〜
      会場:上山城特別展示室内
      講師:阿部哲人氏(米沢市上杉博物館学芸員)
 (2)「慶長出羽合戦と虎将・最上義光の業績」
      日時:10/4(日) 午後2時〜
      会場:上山城特別展示室内
      講師:揚妻昭一郎氏(最上義光歴史館学芸員)
  ※上山城入館料が必要(聴講は無料)

■史跡巡り
    「米沢藩上杉家ゆかりの史跡を訪ねる」
      日時:9/26(土)午前8時30分〜午後5時
      案内講師:加藤和徳氏(山形県文化財保護協会理事)
      定員:20名(申込み順)
      参加費:4,000円(保険料・バス代・昼食代・拝観料含む)


▼お問合せ
  (財)上山城管理公社
   上山市元城内3−7  TEL&FAX 023−673−3660
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山本寺景長(さんぽんじかげなが):1550〜1582
  一門衆。不動山城主山本寺定長の弟。天正6年の御館の乱で、定長は上杉景虎に味方したため景勝軍に敗れた。弟景長は上杉景勝に味方し活躍した。
  天正8年(1580)景長は兄定長のあと、山本寺家を継ぎ不動山城主となった。
  天正10年(1582)織田信長の攻撃を受けて魚津城は落城し、景長は竹俣慶綱、吉江宗信、吉江信景、安部政吉らとともに自刃した。


直江信綱(なおえのぶつな):?〜1581
  譜代・旗本衆。上野国総社長尾顕景の子。与板城主直江景綱の娘お船の方の婿となる。上杉景勝の奉行職。
  天正9年(1581)春日山城中で、御館の乱の論功行賞のもつれから、毛利秀広が山崎秀仙を斬殺。秀仙と一緒にいた信綱はとっさの出来事に驚き、秀広に斬りかかったが、逆に斬殺されてしまった。


泉沢久秀(いずみさわひさひで):?〜1615
  上田衆。上杉景勝の直臣。慶長3年(1598)景勝の会津移封に伴い、荒砥城1万1千石の城代となった。
  慶長6年(1601)米沢移封により2千8百石を知行した。元和元年(1615)死去。嗣子が無く泉沢家は断絶。


甘粕景継(あまかすかげつぐ):?〜1611
  上杉景勝の景の一字を賜わり、名を備後守景継と改める。
  文禄2年(1593)庄内酒田城主となった。慶長3年(1598)景勝の会津移封に伴い、2万石の白石城主となる。慶長16年(1611)死去。墓は米沢市林泉寺にある。


鉄 景信(くろがねかげのぶ):?〜1597
  もと上田坂戸城主長尾政景の家臣。政景死後、上田衆を掌握して領内を治め、景勝が謙信の養子となると側近として春日山城へ移り、謙信に従属、戦功を挙げた。
謙信死後は景勝の直臣となり、上田衆を率いて五十騎組の精鋭を作り上げた。


河田長親(かわだながちか):1545〜1581
  上杉謙信の重臣。永禄12年魚津城主となり越中守将を統括した。天正9年(1581)4月8日、魚津城で死去。


吉江宗信(よしえむねのぶ):1505〜1582
  譜代衆。謙信、景勝二代に仕える上杉家重臣。蒲原郡吉江城主。景勝時代には老齢となり留守城在番となる。
  天正9年(1581)河田長親病死により越中魚津城在番となるが、翌天正10年(1582)、信長軍に包囲され越中魚津城で自刃した。


吉江景資(よしえかげすけ):1527〜1582
  譜代、旗本衆。吉江城主で謙信の旗本として春日山城の留守を預かった。
  天正6年(1578)の御館の乱では上杉景勝方として軍功をたてる。
  天正9年(1581)から越中魚津城守備に付くが、翌10年、信長の攻撃を受け、父宗信と共に自刃した。


菅名綱輔(すがなつなすけ):?〜1582
  越後国衆。菅名但馬守。上杉謙信・景勝に仕える。御館の乱では、景虎方の拠点となった加茂城を攻め落とした。
  のち新発田重家の乱でも奮戦したが、放生橋の戦いで討死した。


本庄繁長(ほんじょうしげなが):1539〜1613
  揚北衆。元服と同時に家督を相続し本庄城主となる。
永禄11年(1568)信玄の調略に応じた繁長は上杉氏から独立を目論むが、謙信の猛攻を受け、嫡子千代丸(後の顕長)を人質に降伏。
  御館の乱、新発田攻め、最上攻めで活躍するも恩賞はなかった。
  慶長3年には1万1千石の福島城主に任ぜられる。家康との和睦交渉をまかされ、上杉家は改易を免れた。
  慶長18年(1613)死去。享年75.嫡男顕長が先立って死去しているため、家督は次男義勝が充長と改名し相続した。


中条景泰(ちゅうじょうかげやす):1558〜1582
  吉江景資の次子。謙信より一字を賜わり景泰と名乗る。天正2年中条家を相続し鳥坂城主となった。天正10年越中魚津城で自刃。享年25。


水原親憲(すいばらちかのり):1546〜1616
  大関阿波守親信の子、弥七郎。謙信・景勝に仕え水原家を相続。慶長3年、5千5百石で亀ヶ城主(猪苗代城)となった。
  最上攻めでは兼続の本隊に属し畑谷城、長谷堂城を包囲。上杉軍の撤退に際し殿軍を務め活躍した。
  慶長6年には会津三奉行に任ぜられる。慶長19年の大坂冬の陣にも鉄砲隊を率いて参陣。元和2年(1616)死去。享年71。


竹俣利綱(たけのまたとしつな):?〜1614
  揚北衆。竹俣城主竹俣慶綱の嗣子がなかったため、長尾景人が竹俣城主を相続し、利綱と改名した。
  会津移封に伴い守山城主となり、米沢城に移り慶長18年死去。


市川房綱(いちかわふさつな)?〜1657
  竹俣利綱の遺領を相続した房綱は、慶長19年の大坂冬の陣と元和元年大坂夏の陣に出陣。寛永9年(1632)江戸家老になった。寛永12年には米沢藩の奉行も務め2千石を知行した。明暦3年(1657)死去。


下条忠親(げじょうただちか):?〜1617
  河田長親の次男。慶長3年景勝の会津移封に従って二本松城主となる。慶長6年米沢移封に同行。慶長13年鮎貝城主となり慶長19年の大坂冬の陣に参陣。元和3年(1617)死去。


新発田長敦(しばたながあつ):1538〜1580
  新発田綱貞の嫡男、源次郎。新発田城主。新発田重家は弟。謙信・景勝に仕える。
  御館の乱では景勝を支持し、揚北衆の取りまとめと景虎与党の鎮圧に活躍した。天正8年(1580)病死。


色部顕長(いろべあきなが):?〜1587
  色部勝長の嫡男、弥三郎。平林城主。天正4年家督を弟長真(長実)に譲り隠居。天正15年死去。


色部光長(いろべみつなが):?
  色部長真(長実)が死去すると、幼少の光長が家督を相続。直江兼続の妹(樋口兼豊の二女)を妻に迎える。慶長3年1万石の金山城主となる。慶長6年米沢城下に移り3千3百石を知行。大坂冬の陣にも参戦。


甘糟長重(あまかすながしげ):?〜1604
  謙信・景勝に仕える。景勝の命で三条城主となり、天正14年新発田攻めに参陣。景勝に従い慶長3年会津、慶長6年米沢へ移る。慶長9年死去。
  墓は米沢市栄松寺にある。


千坂景親(ちさかかげちか)1536〜1606
  千坂氏は上杉家直臣で、文禄4年伏見普請総奉行を務め、慶長3年会津移封で5千5百石を知行。慶長8年江戸家老を務め、慶長11年死去。


斉藤朝信(さいとうとものぶ):?〜1591
  赤田城主。謙信・景勝に仕える。天正6年御館の乱で軍功をたてた。天正9年(1581)越中魚津城に入ったが、翌10年には信濃海津城に移った。天正19年死去。


志駄義秀(しだよしひで):1560〜1632
  義秀は直江兼続家臣団の与板衆として活躍。慶長3年会津移封に従い酒田城主となった。慶長6年には荒砥城主となり、1千石を知行した。元和8年(1622)米沢城で奉行職となる。寛永9年(1632)死去。墓は米沢市善光寺にある。享年73。


本村親盛(ほむらちかもり):?〜1600
  最上義光攻めの第二弾として上山城を攻めたが、途中、物見山山麓において最上方の奇襲を受け、大敗を喫した。自身も深田にはまって苦戦し、討死した。
     関連史跡:大将塚(埋葬地/上山市)


横田旨俊(よこたむねとし)?〜?
  旧蘆名家臣。主家没落後、越後にきて上杉家に仕えた。会津移封にあたって、対最上の最前線となる中山城主となる。慶長出羽合戦の際は、第二陣として上山城攻略に向かうが、本村隊の敗北を受けて退却した。戦後も中山城主として対最上の防衛に任にあたった。
     関連史跡:中山城址(上山市)


倉賀野綱元(くらかのつなもと):?〜?
  小滝城主。慶長出羽合戦では、別働隊約8百を率いて進軍し、狸森楯(上山市)を攻略、長谷堂城を取り囲む本隊と合流した。


安部綱吉(あべつなよし):1569〜1646
  菅原内膳の子、右馬助。父は越後安部荘を領していたが、本庄繁長と戦い討死した。そのため各地を渡り歩き、出羽国北条郷の宮内に落ち着いたという。
  慶長出羽合戦では、倉賀野綱元の配下として参陣し、長谷堂城の戦いで武功を挙げた。その後、北条郷の代官となり、宮内の町割りや新田開発、治水事業に尽力した。また金山奉行として金山の経営も任された。
     関連史跡:熊野大社・安部右馬助の顕彰碑(南陽市)、綱正寺(墓/南陽市)


溝口勝路(みぞぐちかつはる):?〜1600
  左馬助。慶長出羽合戦では軍奉行を務めた。撤退に際しては水原親憲とともに殿軍として鉄砲隊を指揮、親憲は富神山東麓、左馬助は柏倉中林山に布陣し、追撃に出た最上軍と激戦を展開した。勝路はこの戦いで重傷を負い、夜営した長岡楯にて息を引き取った。
     関連史跡:長岡楯跡(山形市)


鉄 泰忠(くろがねやすただ):1564〜1635
  島倉泰明の子。鉄景信の養子となる。孫左衛門、上野介。会津神指城築城の総奉行を努めた。慶長出羽合戦では、第一陣として参加。大坂冬の陣では軍奉行として武功を挙げ、徳川秀忠かた感状を受けた。江戸城の石垣普請や堀普請の総監も務めた。
     関連史跡:神指城址(会津若松市)


下 吉忠(しもよしただ):?〜1614
  父・秀忠は北条氏の家臣で、小田原征伐の際に戦死。その後、吉忠は上杉家に仕えて頭角を現し、出羽庄内の尾浦城主となった。慶長出羽合戦では、別働隊を率いて庄内から最上領に侵攻したが、直江兼続率いる上杉軍本隊の退却を知らされず、谷地城に孤立し、最上義光に降った。その後、最上軍の庄内攻略戦に先陣として参加、引き続き尾浦城主に任じられた。
     関連史跡:尾浦城址(鶴岡市)


伊東豊後守(いとうぶんごのかみ):?〜1600
  九州日向国の領主だった伊東家の一族である。島津家と協力関係にあったため、1587(天正15)年、豊臣秀吉による九州平定によって所領を失ったが、その後蒲生氏郷に仕えて中津川の岩倉館に入った。氏郷の死後は上杉家に仕え、豊後守・日向守親子が18名の家臣を率いて最上の陣に参戦するも、豊後を含む18名が八ヶ沼の戦いで戦死。家臣の山川儀助と日向守の二人だけが帰還できた。


天下分け目の関ヶ原の戦いと時を同じくしておきた「慶長出羽合戦」。上杉の智将・直江兼続と山形城主・最上義光との壮絶な戦いが繰り広げられた足跡を辿るルートバスが運行されます。

◎おいしい山形 旬・感バス【慶長出羽合戦】ルートバス
 9月5(土)〜11月23(月)の土・日・祝日運行

●運行行程 (1日2回運行)※観光ボランティアガイドがご案内します。
  JR山形駅東口バス乗り場(9:15、13:40)
    ↓
  畑谷城址徒歩散策(9:50〜10:40、14:20〜15:10)
    ↓
  長谷堂城址徒歩散策(11:10〜12:10、15:40〜16:40)
    ↓
  JR山形駅東口バス乗り場(12:40、17:10)

●運行日
   9月/ 5(土)6(日)12(土)13(日)19(土)20(日)21(月)22(火)23(水)26(土)27(日)
  10月/ 3(土)4(日)10(土)11(日)12(月)17(土)18(日)24(土)25(日)31(土)
  11月/ 1(日)3(火)7(土)8(日)14(土)15(日)21(土)22(日)23(月)
●料金:1日券(午前・午後共通利用可)1700円(小学生850円、未就学児無料)
●予約なしで気軽に乗車。当日限り乗り降り自由

▼問合せ:山交バス株式会社観光課
     TEL023−647−5173
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大河ドラマ「天地人」の放送を記念して、上杉・最上ゆかりの地である5市町(山形市・米沢市・上山市・山辺町・白鷹町)がコラボレーションしたイベントがこの秋開催されます。
大河ドラマでもいよいよ天下分け目の関ヶ原の戦いへと展開し、山形県ゆかりの地もこれから登場していきます。
「5市町コラボイベント・秋の陣」で一足先にいざ出陣!!

□最上・上杉ゆかりの地「5市町コラボイベント・秋の陣」
□会期:9月13日(日)〜27日(日)

◎9/13(日)
  ●畑谷城交流祭(山辺町) 
     時間:10:30〜20:00
     会場:畑谷城跡付近
     親子ウォークラリー、交流アトラクション、畑谷城史跡巡りなど
  ●大河ドラマ「天地人」シンポジウム
     時間:13:30〜16:30
     会場:山形テルサ・ホール
     入場無料・事前申込(先着500名)
     小和田哲男氏基調講演、パネルディスカッションなど

◎9/18(金)〜27(日)
  ●越後・会津・置賜「天地人うまいもの市」
     会場:伝国の杜広場

◎9/19(土)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     オープニングイベント、芋煮振る舞い、天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●上山秋まつり(上山市)
     市内巡行
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園

◎9/20(日)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     木目込み人形(最上義光兜)講座(事前申込)10:00〜14:00
     芋煮振る舞い、天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●上山秋まつり(上山市)
     市内巡行
  ●御輿渡御行列・ふるさと秋祭り「踊りの山車」(上山市)
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園
  ●しらたか工芸体験まつり(白鷹町)
     深山地区伝統工芸の村
  ●白鷹町食の文化街道 うんまえもの茶屋

◎9/21(月)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     天地人ゆかりの地ハイキング(事前申込)9:00〜14:00
     芋煮振る舞い、天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●上山秋まつり(上山市)
     市内巡行
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園
  ●しらたか工芸体験まつり(白鷹町)
     深山地区伝統工芸の村
  ●白鷹町食の文化街道 うんまえもの茶屋

◎9/22(火)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     木目込み人形(最上義光兜)講座(事前申込)10:00〜14:00
     天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園
  ●白鷹町食の文化街道 うんまえもの茶屋

◎9/23(水)
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園

◎9/25(金)
  ●「天地人」公演宝船ツアー2009(米沢市)
      18:30〜 伝国の杜置賜文化ホール
  
◎9/26(土)
  ●兼続どん丼まつり(米沢市)
      11:30〜 伝国の杜広場
  ●よねざわ食の陣〜牛牛まつり〜
      11:30〜 松川河川敷
  ●神田紫エコ講談「もったいない善兵衛」
      14:00〜 伝国の杜置賜文化ホール
  ●よねざわ上杉戦国絵巻「夜の陣」
      川中島合戦を夜バージョンで再現
      18:00〜 松川河川敷

◎9/27(日)
  ●兼続どん丼まつり(米沢市)
      11:30〜 伝国の杜広場
  ●無人販売「棒杭市2009」
      10:00〜 伝国の杜広場
  ●大河ドラマ「天地人」記念 全国まちづくりシンポジウム
      13:00〜 伝国の杜置賜文化ホール
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大河ドラマ「天地人」の放送記念イベントとして、全国まちづくりシンポジウム2009「天地人のこころを現代に活かす〜歴史を活かしたまちづくり〜」が開催されます。
大河ドラマ「天地人」の脚本を担当している小松江里子さんと、NHKチーフプロデューサーの内藤愼介さんによる「天地人」対談のほか、「天地人」ゆかりの3市の市長によるパネルディスカッションが開催されます。

開催日:平成21年9月27日(日)

時 間:開場 午後0時30分 開演 午後1時  終了予定 午後3時30分
     第1部 「天地人」対談
        「大河ドラマ『天地人』と地域の活性化」
          特別ゲスト:小松江里子氏(大河ドラマ「天地人」脚本家)
                 内藤愼介氏(大河ドラマ「天地人」制作統括)

     第2部 パネルディスカッション
        「天地人を活かしたまちづくり〜次の一手〜」
          コーディネータ:堀内史子氏(旅館招湯苑・女将)
          パネラー:菅家一郎氏(会津若松市長)
                井口一郎氏(南魚沼市長)
                安部三十郎氏(米沢市長)

会 場:伝国の杜 置賜文化ホール(米沢市丸の内1−2−1)

入場料:無料(入場整理券が必要です)

定 員:500名

主 催:全国まちづくりシンポジウム実行委員会
共 催:大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会、米沢市歴史団体連絡協議会
後 援:米沢市教育委員会


入場整理券の配布方法について
米沢市役所・伝国の杜・置賜総合文化センターにて整理券を配布しております。
 お問合せ:米沢市天地人推進室 電話0238-22-5111 内線2809
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出羽の虎将最上義光と上杉の智将直江兼続との激戦が行なわれた「慶長出羽合戦」。その戦いの地・畑谷城址では城主・江口五兵衛光清が自刃して果てました。大河ドラマ「天地人」を記念して「畑谷城交流祭」が開催されます。

□日時:平成21年9月13日(日)
     10:30〜20:00
□会場:畑谷城址入口(ごへえ宿)周辺

 ●江口五兵衛光清公の法要 10:30〜
 ●親子ウォークラリー   10:30〜12:00
   ※参加申し込みが必要(申込締切は9/11(金)まで)

◎<第一部イベント>畑谷城交流アトラクション
 ●郷土芸能披露   13:30〜
 ●畑谷城史跡めぐり 15:00〜17:00
   ※参加申し込みが必要(申込締切は9/11(金)まで)

◎<第二部イベント>畑谷城攻防戦・戦没者鎮魂イベント
 ●畑谷城ミニコンサート 17:00〜
 ●灯ろう流し      18:30〜
 ●閉会         20:00


■無料シャトルバス運行
  山辺駅 ⇔ 山辺町役場 ⇔ 会場(畑谷ごへえ宿)

▼問合せ・申し込み:山辺町観光協会
          TEL023−667−1106
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天下分け目の関ヶ原合戦と時を同じくして、慶長出羽合戦と云われた「長谷堂合戦」が行なわれました。出羽の虎将・最上義光と上杉の智将・直江兼続との激戦が繰り広げられた戦いです。
大河ドラマ「天地人」放送を記念して、戦いの場となった長谷堂の地で「天地人祭り」が開催されます。

□期間:平成21年9月19日(土)〜22日(火)
□会場:長谷堂城跡公園・本沢公民館
□駐車場:会場及び会場周辺には駐車場がありませんので、
車で来場される場合は、臨時駐車場(西部工業団地内東北コーデンの裏)をご利用ください。
     臨時駐車場及び山形駅西口から、天地人祭り会場までシャトルバスを運行いたします。


◎長谷堂城跡公園会場
 ●物産販売  9/19(土)〜21(月) 10:00〜16:00
 ●イベント
    ・9/19(土)
       オープニングイベント、芋煮振る舞いなど
    ・9/20(日)
       城山宝探し(長谷堂城跡を散策してお宝をゲット!)
        11:00〜15:00(10:30〜14:30に受付、随時スタート)
       新そばまつり
        11:00〜15:00(笹盆ざる 1枚300円)
    ・9/21(月)
       天地人ゆかりの地ハイキング(事前申し込み)
        9:00〜14:00 (参加費300円)
        対象:約5時間のハイキング及び軽登山可能な方20名(抽選)
        申し込み:8月31日(必着)まで。
はがきに住所、氏名、年齢、電話番号、「ハイキング」と記入し山形市観光物産課へ。
           
◎本沢公民館会場
 ●天地人パネル展示・観光コーナー 9/19(土)〜22(火)10:00〜16:00
 ●イベント
    ・9/20(日)・22(火)
       最上義光公の木目込み兜作り教室(事前申し込み)
        9:00〜14:00 (定員20名)
        費用:4000円(材料込)
        申し込み:8月31日(必着)まで。
はがきに住所、氏名、電話番号、受講希望日、「木目込み」と記入し山形市観光物産課へ。


■無料シャトルバス運行
 9/19(土)・20(日)・21(月)
  車で来場される場合は、臨時駐車場(西部工業団地内東北コーデンの裏)をご利用ください。
  臨時駐車場及び山形駅西口から、天地人祭り会場までシャトルバスを運行いたします。

  ●臨時駐車場(9:30〜15:00まで約20分毎運行)⇔長谷堂城跡駐車場(9:40〜17:00まで約20分毎運行)
  ●山形駅西口(9:30〜15:00まで約1時間毎運行)⇔長谷堂城跡駐車場(10:00〜16:30まで約1時間毎運行)


▼問合せ:山形市観光物産課
     山形市旅篭町2丁目3−25
     TEL 023−641−1212
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ナビゲータ山口良一さんが、やまがたの魅力を紹介している情報番組「やまがた発!旅の見聞録」で、「天地人ゆかりの地を訪ねて」と題して県内ゆかりの地を紹介されます。
第一回は山口良一さんが米沢市で直江兼続ゆかりの地を巡り、天地人博や林泉寺などを地元の人と触れ合いながらご紹介します。

■やまがた発!旅の見聞録
 <テレビ埼玉・千葉テレビ・テレビ神奈川・山形放送(YBC)>

■8月22日(土)
 午前9時25分〜9時40分(山形放送の日時)
 「天地人ゆかりの地を訪ねて〜米沢市〜」

■8月29日(土)
 午前9時25分〜9時40分(山形放送の日時)
 「天地人ゆかりの地を訪ねて〜後編〜」

▼放送後に動画が見られます
 旅の見聞録

大河ドラマ「天地人」の放送記念イベントとして、大河ドラマ「天地人」シンポジウムを開催いたします。
NHK大河ドラマ「天地人」の時代考証をご担当されている小和田哲男氏の講演と、小和田氏をコーディネーターにお迎えし、奥羽の関ヶ原とも呼ばれる「慶長出羽合戦」についてのパネルディスカッションを開催します。

開催日:平成21年9月13日(日)

時 間:開場 午後0時30分 開演 午後1時30分  終了予定 午後4時30分
     第1部 小和田哲男氏基調講演
        「裏側から読みとく戦国武将 〜ドラマと史実のうそほんと〜」
     第2部 パネルディスカッション
        「もう一つの関ヶ原 慶長出羽合戦とは何だったのか」
          コーディネータ:小和田哲男氏
          パネラー:伊藤清郎氏(山形大学地域教育文化学部教授)
                遠藤 英 氏(九里学園高等学校教諭)

会 場:山形テルサ ホール(山形市双葉町1−2−3)

入場料:無料(入場整理券が必要です)

定 員:500名

主 催:大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会
共 催:大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会、NHK山形放送局
後 援:大河ドラマ「天地人」広域観光連携協議会


入場整理券の配布方法について
山形県観光振興課、各総合支庁観光振興室、やまがた観光情報センター、NHK山形放送局にて整理券を配布しております。
上記のほか、FAX、はがきでも受け付けいたします。【氏名・住所・郵便番号・電話番号・整理券の枚数】を明示してお申し込みください。後日整理券をお送りいたします。

※たいへんご好評をいただき、規定の枚数に達したため、入場整理券の配布を終了させていただきました。どうもありがとうございました。

お申し込み・お問合せ
 大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会(事務局:山形県観光振興課)
  郵便番号:990−8570 山形市松波2−8−1
   電話:023(630)2373  FAX:023(630)2097
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永正21年(1524)〜慶長14年(1609)
 綾姫。上杉景勝の生母で、上杉謙信の姉でもある。父は越後守護代長尾為景、母は虎御前。
 坂戸城主長尾政景に嫁ぎ二男二女をもうけた。長男義景は10歳で早世、二男顕景は後の景勝、長女は上条城主・上条政繁に嫁ぎ、二女は上杉景虎(北条氏政の七男で謙信の養子)に嫁いだ。
 夫政景の死後、才気煥発な少年樋口与六(後の兼続)を見出し、喜平次(景勝)の小姓として推挙。その後謙信の招きで、景勝とともに春日山城へと移り、景勝は謙信の養子となった。
 仙洞院は、「御館の乱」で景勝と景虎(二女の夫)が争うことになり辛い立場に置かれながら、動乱の時代を景勝とともに歩んだ。
 その後、景勝の移封に伴い会津そして米沢城へ移る。慶長14年(1609)2月15日、米沢城二の丸で死去。享年85。墓は米沢市林泉寺にある。

 大河ドラマ「天地人」では、仙桃院、二女は華姫となっている。

清水光氏(しみずあきうじ):1582〜1614
  最上義光の三男。のち義親(よしちか)。最上氏の一族であった清水義氏の養子となり、清水家を継ぎ清水城主となった。慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦った。その後の庄内攻略戦では、叔父の楯岡光直とともに総大将を務めた。若い時に豊臣氏の人質となっていたため、豊臣秀頼との繋がりがあり、大坂の役に際して内通を疑われた。兄の最上家親に清水城を攻められ、嫡子・義継ともども自刃した。
   関連史跡:清水城址(大蔵村) 


清水義氏(しみずよしうじ):1547〜1586
  最上氏一族の清水氏6代目当主。清水城主。1565年に父・義高が大宝寺義増に敗れ、討死したため跡を継いだ。その後は最上義光と連携して大宝寺氏とたびたび争う。男子が無かったため、義光の三男・光氏を養子に迎えた。のちに娘の清水姫は義光の継室となった。


山野辺光茂(やまのべあきしげ):1588〜1664
  最上義光の四男。のち義忠(よしただ)。慶長出羽合戦後に父・義光の命により山野辺城主となり、山野辺家の名跡を継いだ。山野辺の城下町整備や治水事業を行なうなど、優れた行政手腕を発揮して領民に慕われた。兄・家親が急死し、その子家信が藩主を継いだが、家信は若年で国政を執るには力不足で、光茂を当主に推す声が強くなった。このため家臣団がまとまらず、最上家改易の原因となった。改易により光茂も池田家に預けられた。後に水戸藩の家老となり、徳川光圀の教育係を務めた。
   関連史跡:山野辺城址(山辺町)


上山光広(かみのやまあきひろ):1594〜1627?
  最上義光の五男。のち義直(よしなお)。1616年に2万1千石にて上山城主となり、上山姓を名乗った。最上家改易により黒田家に預けられ、4,5年後に自害したと云われる。
   関連史跡:上山城(上山市)


大山光隆(おおやまあきたか):1602?〜1623
  最上義光の六男。1615年に2万7千石にて庄内大山城主となり、大山姓を名乗った。最上家改易により酒井家に預けられ、翌年広島にて自害した。
   関連史跡:大山(尾浦)城址(鶴岡市)


長瀞義保(ながとろよしやす):?〜1591?
  最上義守の次男。兄・義光が天童氏を攻め滅ぼすと、その命により天童氏を盟主として義光に対抗した最上八楯の一員である長瀞氏を継いだ。
   関連史跡:長瀞城址(東根市)


長瀞光忠(ながとろあきただ):?〜?
  義保の跡を継いで長瀞城主となる。1596年湯沢城に拠る楯岡満茂が小野寺義道の攻撃を受けた際、小国光基とともに救援に赴いて撃退した。


白岩光広(しらいわあきひろ):1589〜1672
  長瀞義保の子。白岩義広の養子となり、白岩家を継いで白岩城主となった。1615年松根城を築城して城主となり、松根氏を称した。最上家親が急死した件を、楯岡光直による毒殺であると幕府に訴え出た。幕府は調査したが証拠が無く、光広を立花家へ配流する処分を下した。
   関連史跡:白岩城址(寒河江市)


楯岡光直(たておかあきなお):?〜1629?
  最上義守の三男。楯岡城主。楯岡満茂が湯沢城(湯沢市)に移り、湯沢氏を称するようになったため、その跡を継いで楯岡氏を名乗った。慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦った。その後の庄内攻略戦では、甥の清水光氏とともに総大将を務めた。最上家信が藩主となると、最上義光の四男・山野辺光茂の擁立に動いた。このため、最上家中は二分して混乱し改易された。改易後は細川家に預けられた。
   関連史跡:楯岡城址(村山市)


楯岡満茂(たておかみちしげ):1556?〜1639?
  楯岡城主。1586年横手城主の小野寺義道が侵攻してきた際、有屋峠で最上義康とともに戦い、苦戦の末にこれを撃退した。1595年逆に仙北地方に侵攻し、湯沢城(湯沢市)を攻め落とした。そのまま城主となり、湯沢氏を称した。
  慶長出羽合戦のときは、小野寺氏に対する守備を担当した。のちに由利郡に移り、本荘城を築城、本荘氏を称して、最上家中の最高の4万5千石を領した。
   関連史跡:本荘城(由利本荘市)


楯岡満広(たておかみちひろ):?〜?
  満茂の弟。関ヶ原合戦後、兄に従って由利郡に移る。矢島城(由利本荘市)3千石を与えられた。最上家改易により兄弟ともに酒井家に預けられた。


氏家定直(うじいえさだなお):?〜1570?
  最上家の宿老。天文の大乱時に、伊達に味方した主君・最上義守の名代として出陣した。義守とその嫡男・義光が争った際には、病身をおして調停に入り、義光への家督相続を実現させた。


氏家守棟(うじいえもりむね):?〜1591?
  定直の子。知略に優れ、最上義光の懐刀と呼ばれた。最上義守・義光親子の争いに介入する伊達輝宗との和睦交渉を担当。謀略をもって天童氏や上山氏を攻略したほか、鮭延城攻めや観音寺城攻めなど各方面で活躍した。


成沢道忠(なりさわみちただ):?〜?
  成沢城主。氏家守棟の従弟。最上義光と上山満兼・伊達輝宗連合軍が戦った柏木山合戦では、山形城南方の要となる成沢城を守備した。
   関連史跡:成沢城址(山形市)


氏家光氏(うじいえあきうじ):1565?〜?
  成沢道忠の子。氏家守棟の子が十五里ヶ原の戦いで戦死したため、守棟の養子となり氏家家を継いだ。最上義光の三女・竹姫を娶り、重臣として活躍した。慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣した。


延沢満延(のべさわみつのぶ):1544〜1591
  大力剛勇の武将。延沢城主。最上八楯の一員。はじめ天童氏に味方し、大いに最上義光を苦しめた。義光の長女を満延の子に嫁がせるという条件で、義光方に寝返った。このため天童氏は敗北。義光と力比べをしたときに、あまりの強さに桜の木にしがみついた義光を、その桜の木ごと引き抜いたという逸話をもつ。
   関連史跡:延沢城址(尾花沢市)


延沢光昌(のべさわあきまさ):?〜?
  満延の子。最上義光の長女・松尾姫を娶った。父の死後に家督を継ぎ、慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣、続いて上杉領であった庄内地方を攻略した。その後、1614年清水義親討伐に参加、最上家改易後は加藤家に預けられた。


志村光安(しむらあきやす):?〜1609
  最上義光の重臣。「いかなる強敵も彼の前には降った」と云われる最上家の知将。慶長出羽合戦の際には、長谷堂城を守備した。直江兼続率いる上杉軍2万に対し、篭城戦を展開。ついに守りきり上杉軍を撤退に追い込んだ。戦後、庄内侵攻戦に加わり、東禅寺(酒田)城主となった。
   関連史跡:亀ヶ崎城址(酒田城址)・永泉寺の供養塔(遊佐町)


志村光清(しむらあききよ):?〜1614
  光安の子。父の死後に家督を継ぎ、亀ヶ崎城主となる。最上義光が死去した後、最上家親の家督相続に反対した一栗高春に、鶴岡城内で襲われ斬殺された。
   関連史跡:亀ヶ崎城址(酒田市)


鮭延秀綱(さけのべひでつな):1562〜1646
  佐々木貞綱の子。鮭延城主。横手城主小野寺氏に仕えていたが、最上義光に攻められ降伏。その後は最上家家臣として活躍した。慶長出羽合戦では、副将として長谷堂城の守備にあたった。その最中、上杉軍に夜襲をかけて、直江兼続本陣を脅かすほどの戦果うぃ挙げ、兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめた。
   関連史跡:鮭延城址(真室川町)


庭月広綱(にわつきひろつな):?〜1650
  佐々木氏(鮭延氏)の一族。鮭延秀綱が最上義光に攻められた際、同じく攻撃を受け降伏した。
   関連史跡:庭月観音(鮭川町)


谷柏直家(やがしわなおいえ):1551〜1610
  最上義光の小姓。片桐蔵人。谷柏館主。慶長出羽合戦では、飯田播磨守らとともに畑谷城救援に向う。途中、畑谷城が落城したことを知り、追われて逃げてきた領民達を保護した。上杉軍の追撃を防ぐために殿郡として戦っていた飯田が討ち取られたことを知ると、引き返して飯田の首を奪い返した。長谷堂城に隣接する谷柏館も上杉軍の攻撃を受けたが、よき防戦して守りきった。
   関連史跡:谷柏館跡(山形市)


飯田播磨守(いいだはりまのかみ):?〜1600
  実名不詳。天童八楯のひとつで、村山郡北部(村山市本飯田)を本拠地としていた。天正年間に村山郡南部に移封となり、飯田館を築いた。慶長出羽合戦では、畑谷城の救援に向った。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたった。避難の時間を稼ぐために残って上杉軍と交戦し討死した。
   関連史跡:飯田館跡(山形市飯田)・たらたら清水(最後の地/山形市)


江口光清(えぐちあききよ):1544?〜1600
  畑谷城主。慶長出羽合戦の際、最上義光から山形城に退却するよう命令されたが、城を棄てるのは武士の名折れとしてこれを拒否し、直江兼続率いる上杉軍2万との徹底抗戦に出た。約3百の兵で奮戦したものの、畑谷城は落城し、全員討死した。連歌の才があり、義光の連歌会に何度も同席している。
   関連史跡:畑谷城址(山辺町)・長松寺(供養碑/山辺町)


加藤清次(かとうきよつぐ):?〜1600
  悪戸楯主。伊達政宗の母・保春院の警護役を務めた。親友の江口光清が畑谷城で討死したことに憤激し、長谷堂合戦に参陣したが、長谷堂城の北方で戦死。
   関連史跡:掃部の碑(供養碑/山形市)


坂 光秀(さかあきひで):?〜1616
  成沢城主。慶長出羽合戦では、援軍として長谷堂城に駆けつけた。戦後、東禅寺(酒田)城主となった志村光安に代わって、長谷堂城主となった。
   関連史跡:清源寺・坂光秀の肖像画(山形市)


堀 喜吽(ほりきうん):?〜1600
  最上義光の御伽衆。筑紫喜吽とも。筑前で生まれ、兵法家として諸国を巡り、今判官と称した。連歌にも長じており、義光とともに京での連歌会に出席している。慶長出羽合戦の際、撤退する上杉軍に対し、自ら先頭に立って追撃する義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため、単騎で突撃した。上杉軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、義光の馬前で戦死、義光自身も兜に銃弾を受けた。


里見民部(さとみまんぶ):?〜1614
  実名不詳。最上義光の誘いに乗り、上山城主・上山満兼と誘いを拒んだ兄・内蔵助を斬殺した。父の義近(越後守)が代わって上山城主となる。慶長出羽合戦では、上杉軍の別働隊4千を約5百の兵で奇襲し、撃退した。上杉側に城を明け渡す約束をしていたが、義近が軍奉行として山形城に入った(人質に取られた)ため、逆に奮戦したとも云われている。最上義康の廃嫡事件に関わり、上山城を退去。加賀前田家などへの士官を義光に妨害され、各地を流浪した末に尾浦城主・下吉忠に預けられた。将来に禍根を残すとして、義光が遺言し、義近、民部、民部の子の権兵衛(光正)など主従23名が切腹させられた。
   関連史跡:上山城址(上山市)・天澤寺の里見主従墓地(鶴岡市)


草刈正辰(くさかりまさたつ):?〜1600
  志摩守を称す。慶長出羽合戦の際に、上山城へ援軍として派遣された。山中に伏兵して上杉軍を待ち伏せし、隊列が延びたところを奇襲、大将・本村親盛を討ち取り、上杉軍を壊滅状態に追い込んだ(物見山の戦い)。勢いに乗じて、上杉側の拠点・中山城攻略のため攻め込んだが、上杉鉄砲隊の反撃を受け、戦死した(広河原の戦い)。
   関連史跡:首塚(両軍の戦死者を祀る/上山市)・広河原古戦場跡(上山市)
天文16年(1547)〜天正15年(1587)
 新発田城主・新発田尾張守長敦の弟。新発田家は兄長敦が家督を継いだため、五十公野家を相続し、五十公野源太と名乗るが後に治長と改名。
 謙信の死後勃発した「御館の乱」では景勝に味方し、戦功をあげ武名を轟かせた。
 天正7年(1597)兄長敦が病死すると、生家の新発田家を相続。名を重家と改名。
 「御館の乱」後の論功行賞で、恩賞を不服として景勝を見限り、信長に通じて挙兵。信長の支援を受け、新潟・沼垂などを占領し戦線を拡大していった。
 しかし、天正10年(1582)信長が本能寺で自刃すると、秀吉と家康の抗争に乗じて勢力伸張を画策した重家は、両者の停戦で孤立したところを景勝に攻められ、新発田城は落城。天正15年(1587)自害。享年41。
天文15年(1546)〜天正10年(1582)
 武田信玄の四男として誕生。母は側室諏訪御料人。上杉景勝の正室となった菊姫の兄でもある。
 母方の諏訪氏の名跡を継ぐが、兄の武田義信の死により、武田氏の後継者として武田勝頼となり、元亀4年(1573)父信玄の死により家督を相続する。
 信玄は病床で「孫の信勝が元服するまで後を継ぎ、甲・信・上・駿を束ねよ」と勝頼に遺して逝去した。勝頼は遺命を守るため諸国と戦うが、長篠の戦いで織田・徳川軍に惨敗。
 勝頼は北条氏政の妹と結婚し北条氏と同盟を強化するが、後に北条氏と対立。天正7年(1579)上杉景勝に妹菊姫を娶らせ、上杉氏と同盟を結ぶが、天正10年(1582)織田・徳川軍の侵攻を受け自害。享年37。勝頼の代で武田家は滅亡。
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