戦国観光やまがた情報局

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米沢市西部、鬼面川西岸の高台に鎮座する神社。
古くから、置賜郡成島荘の鎮守として崇敬をあつめ、長井氏、伊達氏、上杉氏といった歴代領主によって、改築・修理が行われてきました。

伊達政宗は、八幡神社への信仰が篤かったらしく、米沢から岩出山へ移る際に、この成島八幡宮を分霊し、岩出山城内に祀りました。
後に、政宗は仙台開府にあたって、総鎮守として大崎八幡宮を創建し、大崎地方にあった大崎八幡宮と米沢から分霊してきた成島八幡宮を合祀しました。現在、大崎八幡宮社殿は国宝に指定されています。


米沢市南西部、大樽川(鬼面川)と小樽川の合流地点に位置する丘陵上に築かれた山城です。一説には伊達家統治時代の「米沢城」ともいわれていますが、通説では伊達政宗の父・輝宗が、政宗に家督を譲ったのち、この舘山城に隠居したといわれています。

天然の要害となっているため、戦時にはこの城に拠って戦う計画であったらしく、麓には伊達家臣団の屋敷町が取り巻いていました。
平時は、政務を執るのに便利な平城の米沢城、戦時は、守りやすい山城の舘山城というように役割が分かれていたようです。

上杉氏の時代となると、舘山城は使用されませんでしたが、麓の屋敷町はそのまま上杉家臣団の屋敷町となりました。

山の中腹に見えるのは、東北電力舘山発電所です。


独眼竜の異名で有名な、仙台藩初代藩主・伊達政宗は永禄10年(1567)、米沢城で生まれました。幼少期から青年期(25歳)まで米沢城を居城としていました。

政宗は、天正12年(1584)に18歳で家督を継ぎ、米沢城主となりました。天正17年(1589)には会津の蘆名氏を攻め滅ぼし、南奥羽の覇権を握ります。このとき会津黒川城(のちの会津若松城)に居城を移します。

翌天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐、その後の奥羽仕置により会津を没収されたため、約1年で居城を米沢城に戻します。
ところが、この年の冬に起こった葛西・大崎一揆を裏から扇動した罪に問われ、いちおう無罪となりますが、伊達家伝来の所領は没収となり、代わりに旧葛西・大崎領を与えられ、天正19年(1591)岩出山城(宮城県大崎市)に転封となりました。

「伊達政宗公生誕の地」の碑は、米沢城址・上杉神社参道脇と、一説に伊達家統治時代の「米沢城」とされる舘山城址にそれぞれ建てられています。


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