高畠町観光協会

 現代日本児童文学の先覚者、浜田広介は、明治26年高畠町一本柳に農家の長男として出生。米沢中学(現、県立米沢興譲館高校)から、早稲田大学英文科に学んで、童話一筋50余年。一千篇に及ぶ殊玉の作品を世に残し、日本のアンデルセンと称えられている。
 処女作「黄金の稲束」をはじめ「むくどりのゆめ」「ないた赤おに」「りゅうの目のなみだ」など、その童話の母胎は、豊かな自然に恵まれたふるさとと、母親への深い愛情といわれている。
 昭和47年に高畠町初の名誉町民に推挙されたが、翌年秋、80歳で永眠。素朴で純情善意に満ちた詩情豊かな広介童話を21世紀の未来に伝えるために、浜田広介記念館は平成元年5月に建設された。
 広介の遺品、生原稿などが展示されているほか、童話ルームでは、マルチスクリーンで上映される、「ないた赤おに」や読書ルーム、喫茶コーナーもあり、子供たちはもちろん、大人の方にも楽しんでいただける施設である。

※浜田広介−1893.3.5〜1974.11.17

浜田広介記念館HP
{PDF} ダウンロード 265.8KB_Adobe PDF

鳩峰高原に群生している山ツツジが見ごろを迎えております。

福島県飯坂まで続く国道399号は、新緑がまぶしくマイナスイオンたっぷりですが、
つづら折りの続く山道ですので、交通には十分気をつけてください。
 犬の宮に対座する猫の宮は昔、養蚕の神として信仰があつかった。一方、猫などのペットの神としても知られ、ペットの健康祈願や供養に訪れる人も多い。

−由来−

 延暦年間(781年〜805年)高安村に代々庄屋で信仰深い庄右衛門とおみね夫婦が住んでいた。二人には子供がなく、猫を心から可愛がっていたが、なぜか次々と病死してしまう。今度こそ丈夫な猫が授かるようにと祈っていた。ある夜、同じ夢枕に観音菩薩が現れ「猫を授けるから大事に育てよ。」とのお告げがあり、翌朝庭に三毛猫が現れ、夫婦は大いに喜び、玉と名付けそれはそれは子供のように大切に育てていた。
 玉も夫婦にますますなつき、そして村中のネズミをとるのでたいそう可愛がられていた。
 玉は不思議なことに、おみねの行くところどこへでも付いていった。寝起きはもちろんの事、特に便所へいくと、天井をにらみ今にも飛び掛からんばかりに耳を横にしてうなっている。おみねは気持ちが悪く思い、夫にそのことを話してみた。
 夫が妻の姿をして便所に行くとやはり、玉は同じ素振りをする。庄右衛門はいよいよあやしく思い、隠し持っていた刀で猫の首を振り落とした瞬間、首は宙を飛び屋根裏にひそんでいた大蛇にかみついた。
 この大蛇は、70数年前に三毛犬、四毛犬に殺された古狸の恐念の血をなめた大蛇が、いつかいつの日か仕返しをしようとねらっていたが、玉が守っているため手出しできなかったのだった。
 この事を知った夫婦は大いにくやみ村人にこの事を伝え、村の安泰を守ってくれた猫のなきがらを手厚く葬り、堂を建て春秋二回の供養を行ったという。
犬の宮に対座する猫の宮は昔、養蚕の神として信仰があつかった。一方、猫などのペットの神としても知られ、ペットの健康祈願や供養に訪れる人も多い。

−由来−

 延暦年間(781年〜805年)高安村に代々庄屋で信仰深い庄右衛門とおみね夫婦が住んでいた。二人には子供がなく、猫を心から可愛がっていたが、なぜか次々と病死してしまう。今度こそ丈夫な猫が授かるようにと祈っていた。ある夜、同じ夢枕に観音菩薩が現れ「猫を授けるから大事に育てよ。」とのお告げがあり、翌朝庭に三毛猫が現れ、夫婦は大いに喜び、玉と名付けそれはそれは子供のように大切に育てていた。
 玉も夫婦にますますなつき、そして村中のネズミをとるのでたいそう可愛がられていた。
 玉は不思議なことに、おみねの行くところどこへでも付いていった。寝起きはもちろんの事、特に便所へいくと、天井をにらみ今にも飛び掛からんばかりに耳を横にしてうなっている。おみねは気持ちが悪く思い、夫にそのことを話してみた。
 夫が妻の姿をして便所に行くとやはり、玉は同じ素振りをする。庄右衛門はいよいよあやしく思い、隠し持っていた刀で猫の首を振り落とした瞬間、首は宙を飛び屋根裏にひそんでいた大蛇にかみついた。
 この大蛇は、70数年前に三毛犬、四毛犬に殺された古狸の恐念の血をなめた大蛇が、いつかいつの日か仕返しをしようとねらっていたが、玉が守っているため手出しできなかったのだった。
 この事を知った夫婦は大いにくやみ村人にこの事を伝え、村の安泰を守ってくれた猫のなきがらを手厚く葬り、堂を建て春秋二回の供養を行ったという。
亀岡文殊は、丹後(京都)の切戸の文殊、大和(奈良)の安倍の文殊とともに、日本三文殊の一つとして有名である。
 大同2年(807年)に、東北地方布教のため、当地を訪れた徳一上人が、五台山に似た山容に心うたれ堂宇を建立したのが文殊堂の始めといわれている。
 別当、大聖寺は真言宗に属し、皇室の勅願所として、国家安穏の祈祷を命ぜられ、また、徳川5代将軍綱吉以来家茂まで十代の間、ご朱印百石を賜わり、中納言格の待遇を受けた天下の名刹となっている。
 文殊堂は文殊菩薩、すなわち釈遵の左にいて知恵を司る菩薩をまつり、中国では五台山がその浄土とされ、昔から、『三人よれば文殊の知恵』といわれるように、学問の神様として知られている。入学、入社試験等の合格祈願に訪れる人があとを絶たない。
 境内には、老杉の大木が繁り、歴史の重みと厳かな雰囲気がただよう。大聖寺本坊には、大日如来を本尊としてまつり、ほかに桧の寄木造漆箔像の木造聖観世音菩薩立像(県指定)と阿弥陀、薬師像の2体がある。いずれも鎌倉時代の作とみられている。文殊尊に参詣し傍らの大黒天の前に行き両手で尊像を抱き、「軽くなり給え」と念ずれば、次第に軽くなり、「重くなり給え」と念ずれば重くなり、また、願望達成のときには軽く持ち上げられるという。
 参道入口には仁王門があり、両脇には金剛力士像がある。参道途中には、十六羅漢像、芭蕉句碑、『南無阿弥陀仏』と刻された義民高梨利右エ門の念仏碑があり、薬師如来をまつる払川薬師堂のほか、文殊堂背面には大日如来、普賢菩薩、虚空蔵菩薩がまつられ、また一山の守護神、蔵王権現が鎮座している。
 茶屋で一休みして名物のこんにゃくを食べたりするのも「文殊様」を訪れる楽しみの一つである。

Googleマップ
国指定史跡「日向洞窟」前のしだれ桜がようやく満開状態です\(^o^)/
写真は27日朝に撮ったものです。

また、本日、高畠町立第一中学校の桜並木がライトアップされています。見事な桜並木をぜひ!
江戸時代当時、樹林の奥のこの洞くつは、誰がいうともなく鬼の岩屋として立ち入り禁止の地だったという。その後、次第に衆人の目にとまるようになり、石鏃などを拾う人も現れるようになった。
 洞くつは、通称立石の標高230mの山麓にあり、西から第4岩陰、第1洞くつ、第2洞くつ、第3岩陰からなる遺跡群である。昭和30年秋以降4次にわたって、同大教授山内清男博士、山形大学柏倉亮吉教授の指導のもとに発掘調査が行われ、その結果、何千年もの間使用されていた複合遺跡であることが判明。すなわち、中央の第1洞くつは、入り口の高さ3.5m、幅5m、奥行き14mのひょうたん状の洞くつで、洞くつ前面の堆積層は2m余りもあり、基盤の五層の内第1層の表土には、縄文晩期以降の造物第2層には、晩期から草創期各時期のもの、最下層には縄文時代草創期の造物が包含されていた。この層の土器(隆起線文土器片、爪形文土器片等)石器は、(石槍・研磨器・石斧等)考古学的には、旧石器文化から縄文文化への発展過程を解明する上で極めて重要であるとされ、(外に人骨・クマ・シカ・キツネ・カモ・ヤマドリほか多数の骨も発掘)縄文草創期(1万年前頃)の存在が全国的に知れ、学会からも高く評価された。