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名 称:上山城(月岡城)
営業時間:9時〜16時45分
休業日:7月第1月〜金曜
料 金:入場400円
交 通:JRかみのやま温泉駅→徒歩10分
駐車場:あり
所在地:山形県上山市元城内3-7
問合せ先:【電話】023-673-3660


 参考サイト:上山城(別名・月岡城)

1911〜1993
1911年5月7日、山形県東田川郡朝日村に生まれ。
亥年生まれの四男であることから「猪四郎」と命名された。

1921年に上京後、日大芸術科映画科に進学。
1933年、22才で東宝(当時PCL)に入社。
翌年より助監督として山本壽次郎監督に師事。
1951年、『青い真珠』で監督デビュー。
1953年、『大平洋の鷲』で円谷英二と初仕事。
54年に監督した『ゴジラ』が大ヒット。

円谷コンビで『空の大怪獣ラドン』『ガス人間第一号』『マタンゴ』『妖星ゴラス』『モスラ』『地球防衛軍』『怪獣大戦争など、多くの特撮映画を監督および演出して怪獣映画ブームとなり、海外にも反響を呼んだ。

1970年代には『帰ってきたウルトラマン』『サンダ−マスク』などのテレビ作品も監督。
1975年『メカゴジラの逆襲』を最後に現場を離れる。

1984年、助監督時代からの親友、黒澤明の作品で現場に復帰。
「野良犬」では助監督をつとめ、「影武者」では監督部チーフ、演出補佐として「乱」「夢」「まあだだよ」「八月の狂詩曲」を手がける。
また、大林宣彦監督「異人たちとの夏」にカメオ出演したこともある。

1993年2月28日、永眠。享年81歳。遺作は1975年『メカゴジラの逆襲』。


代表作品

* 太平洋の鷲(1953年)
* さらばラバウル(1954年)
* ゴジラ(1954年)
ゴジラ シリーズ 第1作 (1954年度製作版)
* 空の大怪獣ラドン(1956年)
* 地球防衛軍(1957年)
* 美女と液体人間(1958年)
* 宇宙大戦争(1959年)
* モスラ(1961年)
* 妖星ゴラス(1962年)
* 海底軍艦(1963年)
* マタンゴ(1963年)
* モスラ対ゴジラ(1964年)
* 三大怪獣 地球最大の決戦(1964年)
* 流星人間ゾーン(1973年)
* メカゴジラの逆襲(1975年)
メカゴジラの逆襲

1732〜1801

江戸時代後期の豪農であり偉大な商人資本家。

「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に。」

参考書>

本間光丘―人を活かし金を活かす本間流ビジネスマインド
鈴木 旭 (著) ダイヤモンド社 ; ISBN: 4478941157

内容(「BOOK」データベースより)
上杉鷹山を指南した男。酒田商人本間光丘の経営学の神髄。山形・酒田の「本間さま」の基盤を築いた本間光丘―彼は、230年前に既に、リストラ、リエンジ、堅実経営、共存共栄策を実践していた。
目次

第1章 自由都市酒田の伝統・自主自立の気概―本間光丘の精神的土壌
第2章 新興商人のチャンピオン―新時代を開いた本間家創業者の苦闘
第3章 米相場の天才、本間宗久の登場―トップランナー本間家急躍進の秘密
第4章 若き三代目光丘の着眼点―「相場は永く家を保つ道にあらず」
第5章 本間流ケインズ政策の真相―永続的発展の基盤づくり
第6章 破産大名の再建請負ビジネス―経営コンサルタント付き金融サービス事業
第7章 上杉鷹山の再建アドバイザー―貸し付け資本主義の実践
第8章 救済対策から始まった保険ビジネス―人を助けて自分も儲けるアイデア
第9章 最も確実な資本蓄積の道―江戸期商人のやむをえない選択
第10章 蝦夷地経営に乗り出す本間船―果たせぬ夢を追う老商人の情熱


酒田本間家の三代目当主。酒田本間家二代光寿の三男、名は光丘。

「天下第一の豪農」として、庄内藩十四万石の領内において二十四万石の大地主であり、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれ、「金銀財貨は積んで山の如く、伊呂波四十八蔵の倉庫には、累々たる米俵、金銀・銅貨・紙幣・古銭等その数算する能はず」とまでうわさされた羽後酒田の本間家中興の祖といわれる。

本間家はすでに寛永年間にその祖商業を営みながら、酒田町三十六人衆の一人として酒田町長人となり、町政に参与していた。海船問屋として庄内・最上平野に産する米・藍・漆晒、蝋、紅花、からむしなどを買占めて、これを大阪方面に回漕し、帰船には同地方の既製品・古着などを積込んできて販売し、巨利をえた。光丘の代には私財を投じて最上川の治水、酒田西浜の防砂林の植樹、酒田港口の灯台の建立、天明の飢饉における救済などを行い、その功により藩主から「御勝手御用掛」を命ぜられ、その財力によって、藩財政整理に参与し、やがて士分に取立てられ、1770(明和7)年には五百石三十人扶持の高取となった。藩財政整理への参与は庄内藩以外の諸藩にも及んだが、とりわけ米沢藩主鷹山の上杉家中興の偉績に与って力があった。

本間家はその後も着実に発展し、その大名貸しは支藩松山、新庄、米沢、上ノ山、本荘、津軽、南部にまで及んだ。明治以後、最盛期の大正時代には田地が約1600町歩、一族の経営する会社名義のものをあわせると、3000町歩はあっただろうといわれる。大正7年光丘の植林の功績により正五位の贈位があり、これを記念して大正11年「贈正五位本間四郎三郎光丘翁頌徳会」が組織され、光丘神社が建立された。これに対して本間家から光丘以来の本間家の蔵書、建設費、維持基金が頌徳会に寄贈され「光丘文庫」が建立された。現在の市立酒田光丘図書館である。また1768年光丘が建てた旗本2000石の格式をもつ本間家本邸は、山形県指定重要文化財として、酒田市が管理している。「日本歴史大事典」
 



1927〜1997

作家。教師。

東田川郡黄金村高坂(現在山形県鶴岡市)生れ。農業小菅繁蔵の次男、本名留治。

山形師範学校卒業。業界紙編集長を経て作家生活に入る。
1973年「暗殺の年輪」で第69回直木賞受賞。

架空の藩、海坂藩(うなさかはん)という故郷である庄内を舞台にした小説が多い。藤沢周平文学の特徴として、全ての作品の水準が極めて高い事。藤沢周平は決して筆の早いほうではなかった分、緻密な作品を書いていたのではないだろうか。他の作家に好かれる作家としてもよく知られている。



藤沢周平のすべて文芸春秋 (編集) 文春= (編集) ISBN:4163533907

目次

1 別れ
2 周平さんと私
3 藤沢周平が遺した世界
4 半生を紀行する
5 藤沢作品と私
6 藤沢さんを語りつくす
7 藤沢さんの頁
8 藤沢さんへの手紙




「藤沢周平の世界」文芸春秋 (編集) 文春= (編集) ISBN:4167217635

城山三郎、丸谷才一、中野孝次、井上ひさし、常盤新平、尾崎秀樹といった、藤沢時代小説をこよなく愛する人びとが綴った三十篇。読み巧者による類まれなる作品解説であり、藤沢文学の魅力の源泉を読み解くための貴重なガイドでもある。さらに藤沢氏自身の講演や対話、インタビューなどを加えて構成したファン必携の一冊。

目次

一作一作が勝負(向井敏)
モノクロームの魅力(駒田信二)
故郷の味(丸谷才一)
作家的肉体―『暗殺の年輪』(駒田信二)
負のロマン―『又蔵の火』(常盤新平)
佐知の魅力―『用心棒日月抄』(常盤新平)
爽快なユーモア―『用心棒日月抄』(丸元淑生)
人肌のぬくもり―『一茶』(藤田昌司)
闇を透視する目―『驟り雨』(有明夏夫)
アンソロジーは中継駅―『橋ものがたり』(井上ひさし)〔ほか〕





清河八郎(きよかわはちろう)

1830〜1863

出羽国田川郡清川村(現山形県東田川郡立川町大字清川)に庄内一の醸造石数を誇る酒屋斎藤家の長男として生まれた。幼名を元司といい、後の清河八郎の名は、故郷清川の川を大河の意味の河に変えて、故郷を立て称したと伝えられています。

青年時代に江戸の東条文蔵、安積艮斎、千葉周作らに学んで文武を修行し、その間近畿、西国、北海道地方を周遊し、また江戸神田に塾を開いて子弟の教育に当った。


1862年(文久2年)清河八郎は、将軍警護の名目で江戸の浪士を召し抱えるよう幕府に進言し「浪士組」を結成。京都へ上洛。

もっとも清河の真意は将軍警護ではなく、これを朝廷直轄の尊皇攘夷軍にすることにあったことから、清河に不満を唱えた芹沢鴨と近藤勇の各派は「浪士組」を離脱。京都守護職の任にあった会津藩の預かりで「新選組」を発足させた。

一方、清河の「浪士組」は江戸へ帰還させられ、当時江戸取締の任にあった庄内藩(鶴岡17万石、藩祖は徳川四天王・酒井忠次)の配下「新徴組」を結成。清河八郎の暗殺後は勤王色を一掃して庄内藩13代藩主 ・酒井左衛門尉忠篤の預かりとなり、江戸市中の警護にあたった。

ちなみに「新徴組」と「新選組」はともに「浪士組」から分かれた組織であるが、お互いに交流もあった。

例えば「新徴組」隊士の中川一と「新選組」局長の近藤勇とはお互いに手紙で交流を続けていたし、「新徴組」のちょうちんには、有名な「新選組」の山形模様が描かれていたという。

新人物往来社「新選組史跡事典〜東日本編」等より引用


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通称「お宮さま」で市民に慕われています。

大物忌大神と月読命を祀っており、国家泰平、武門吉事の宮。
境内の城輪神社社殿は、桃山時代(市指定有形文化財)の建造物。
江戸時代の高荘な楼門建築として有名な、随身門(市文化財)は圧巻です。
拝殿左奥には弁天池があり、カモや県の鳥に指定されているオシドリがいます。

山形県山形市宮町3-7
TEL 023-623-0460
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1316〜1379

斯波家氏 足利泰氏の長男であるが、庶子。
下総國香取郡大崎に住み、斯波郡を相伝されて往来、斯波氏を名乗ると伝わる。

斯波家氏―宗家―宗氏(家貞)―家兼(大崎氏祖)―兼頼(最上氏祖)
最上兼頼―直家・・・・・・・・・・・・・・・・義守―義光(よしあき)
最上兼頼 羽州管領として「山形城」(霞城・かじょう)を築く
最上義光 妹の「義姫」は伊達輝宗の正室で、伊達政宗の母。


山形城主最上氏の祖。

奥州探題斯波家兼の二男、南北朝動乱のはじめの頃、奥羽は南朝方の勢力が強く、これに対して足利氏は北朝勢力拡大のために、奥州探題を遣わして軍事・民政を司らせた。

斯波家兼は貞和2年(1346)奥州大崎の地に下向し、その長男直持は陸奥を管し大崎氏の祖となった。

次子兼頼が、出羽を管する羽州(出羽)探題(資料によっては出羽按察使)として山形に入部したのは、延文元年(1356)41才の時である。当時の山形地方も南北両朝勢力の争乱の巷で、「持明院殿方足利之将軍」と「大覚寺殿方新田殿」の合戦が絶えず、各国は飢渇に陥っており、南北両朝勢力の確執は山寺立石寺にも及び、立石寺山中において両朝の衆徒らが抗争をつづけていた。

天童舞鶴山には北畠天童丸がいて南朝勢力の回復に努めており、山形近くの山家には南朝方の山家信彦があって兼頼の山形入部を阻んでいた。ことに村山郡の川西地方には南朝方の大江氏が、鎌倉時代以来寒河江庄の地頭として根強い在地勢力をうちたてていた。兼頼はこうした山形への入部に先立って、まず山家氏と婚を通じて懐柔し、政略的手段を持ってこれを抑えた。

さらに成生庄地頭里見義景に実子がなかったので、兼頼の弟義宗をその養子とし、兼頼の孫頼直を義宗の養子として、北畠天童丸が居を津軽浪岡に移したとき、この頼直に舞鶴山上に山城を築かせ天童頼直を称させた。

また山形城の城郭建築に先立って、山寺立石寺の根本中堂を再建し、山形に日吉神社を勧請するなどの宗教的政策により、長い戦乱に悩んでいた当地方民心の収攬をはかった。文中2年(1373)には、最大の南朝勢力だった大江氏も足利方に降り、兼頼は、村山郡の豪族を討伐するよりは、懐柔することによって戦かわずして勢力の拡大を果たした。

兼頼は藤沢清浄光寺十代の遊行元愚に帰依し、其阿と号し大手門前に遍照山無量寿院光明寺を建て、天授元年(1375)60才で家督を長子直家に譲って隠居、自らその開山となった。元授5年(1379)64才で卒去。

光明寺は後年鳥居氏の城修築のさい、城の東(寺町通り)の現在地に移された。寺領1750石、出羽時宗50余ヵ寺の触頭だった。境内には兼頼の御廟があり、寺宝に「光明寺由来記」、等身大の兼頼木像がある。

誉田慶恩「奥州の驍将・最上義光」より



真壁 仁(まかべじん)

1907〜1984
詩人。山形県山形市宮町の生まれ。本名仁兵衛。

「峠は決定を強いる所だ、峠には決別のための明るい憂愁が流れている…」これは昭和22年に詩誌「至上律」に発表された詩人、真壁仁の代表作である。

青年時代、ホイットマン、フランシス=ジャム、フィリップなどに親しみ、一九二八(昭和三)年、更科源蔵と「至上律」を創刊した。

一九三二(昭和七)年、処女詩集『街の百姓』を出版。その後、農業を営みながら詩作だけでなく、文学、地域文化、農業問題、教育問題等、広範囲にわたる評論活動を故郷、山形の地から展開。「野の思想家」として活躍した。また、山形市教育委員、山形市農業委員などを歴任した。

第二次大戦後の詩集には、『青猪の歌』『日本の湿った風土について』『蔵王詩集』などがある。

また、評論には、『定本 人間茂吉』のほか、『黒川能』『詩の中にめざめる日本』『わが峠路』などの著書がある。

真壁仁の詩には、土に生きる農民の生活と、自然と人間への愛がうたわれている。

●詩集

1. 『青猪の歌』(青磁社 一九四七年)
2. 『日本の湿った風土について』(昭森社 一九五八年)
3. 『日本現代詩文庫14 真壁仁詩集』(土曜美術社 一九八四年)
※残念ながら、真壁仁の詩集は二○○一年現在すべて絶版となっている。




 
1. 作者と出典
作者●真壁仁 一九○七(明治四○)年―一九八四(昭和五九)年 詩人。山形県の生まれ。青年時代、ホイットマン、フランシス=ジャム、フィリップなどに親しみ、一九二八(昭和三)年、更科源蔵と「至上律」を創刊した。一九三二(昭和七)年、処女詩集『街の百姓』を出版。その後、農業を営みながら詩作だけでなく、文学、地域文化、農業問題、教育問題等、広範囲にわたる評論活動を故郷、山形の地から展開。「野の思想家」として活躍した。また、山形市教育委員、山形市農業委員などを歴任した。
 第二次大戦後の詩集には、『青猪の歌』『日本の湿った風土について』『蔵王詩集』などがある。また、評論には、『定本 人間茂吉』のほか、『黒川能』『詩の中にめざめる日本』『わが峠路』などの著書がある。
 真壁仁の詩には、土に生きる農民の生活と、自然と人間への愛がうたわれている。

出典●『日本の湿った風土について』(昭森社刊 一九五八年)より採録した。

2. 資料リスト
A真壁仁関係
●詩集

1. 『青猪の歌』(青磁社 一九四七年)
2. 『日本の湿った風土について』(昭森社 一九五八年)
3. 『日本現代詩文庫14 真壁仁詩集』(土曜美術社 一九八四年)
※残念ながら、真壁仁の詩集は二○○一年現在すべて絶版となっている。



●評論

1. 『黒川能』(日本放送出版協会 一九七一年)
2. 『詩の中にめざめる日本』(岩波新書 一九七三年)
3. 『定本 人間茂吉』(三省堂 一九七六年)
4. 『紅花幻想』(高陽堂書店 一九八一年)
5. 『みちのく山河考』(法政大学出版局 一九八二年)
6. 『野の自叙伝』(民衆社 一九八四年)
7. 『最上川への回帰』(法政大学出版局 一九八四年)
8. 『北からの詩人論』(宝文館出版 一九八五年)
9. 『修羅の渚―宮沢賢治拾遺―』(法政大学出版局 一九九五年)  


●真壁仁に関する研究

1. 『真壁仁をとりまく詩人たち1・2』(杉沼永一編著 山形Bibliaの会 一九九四・一九九六年)
2. 『真壁仁研究』第一号・第二号 (真壁仁研究編集委員会編 東北芸術工科大学東北文化研究センター 二○○○・二○○一年)
※特に第一号は詳細な年譜・評伝・著作解説など、真壁仁を知るために  便利。



●映画

1. 『牧野物語 その2 峠―蔵王と真壁仁―』(小川プロダクション 一 九七七年)

製作:小川プロダクション
監督:小川紳介
製作:飯塚俊男、伏屋博
雄助監督:渡辺孝明 見角貞利
撮影:奥村祐治
撮影助手:林鉄次
録音:瓜生敏彦
ミキサー:久保田幸雄
進行:白石洋子、畑中広子
出演:真壁仁
1977/モノクロ/16ミリ/43分

Production Company : Ogawa Productions
Director : Ogawa Shinsuke
Producers : Iizuka Toshio, Fuseya Hiroo
Assistant Directors : Watanabe Takaaki, Mikado
Sadatoshi
Photography : Okumura Yuji Camera
Assistant : Hayashi Tetsuji
Sound : Uriu Toshihiko
Sound Editor : Kubota Yukio
Logistics : Shiraishi Yoko, Hatanaka Hiroko
Appearance : Makabe Jin
1977 / B? / 16mm / 43 min


●評論

1. 『黒川能』(日本放送出版協会 一九七一年)
2. 『詩の中にめざめる日本』(岩波新書 一九七三年)
3. 『定本 人間茂吉』(三省堂 一九七六年)
4. 『紅花幻想』(高陽堂書店 一九八一年)
5. 『みちのく山河考』(法政大学出版局 一九八二年)
6. 『野の自叙伝』(民衆社 一九八四年)
7. 『最上川への回帰』(法政大学出版局 一九八四年)
8. 『北からの詩人論』(宝文館出版 一九八五年)
9. 『修羅の渚―宮沢賢治拾遺―』(法政大学出版局 一九九五年)




石原莞爾(いしわらかんじ)

1889〜1949

陸軍軍人・東亜連盟運動の指導者。「永久平和」の先駆者

鶴岡市日和町生まれ。

警察官石原啓介の次男。庄内中学2年から仙台幼年学校に進み、1909年陸軍士官学校卒業、ついで陸軍大学に入り、18年2番の成績で卒業し、その天才と形式や権威にとらわれない天衣無縫の言動とで注目を集めた。19年、純正日蓮主義を唱える田中智学の国柱会に入会し、強烈な日蓮宗への信仰を抱いた。21年陸大兵学教官となり、22年8月から25年9月まで軍事研究のためドイツに留学し、フリードリヒ大王とナポレオンの戦史を研究した。

この戦史研究と日蓮宗信仰とを結合して独特の“世界最終戦”の観念を構成した。東洋文明を代表する日本と西洋文明を代表するアメリカとの間に人類最後の絶滅戦争としての世界最終戦が近い将来に戦われるというのである。その世界最終戦に備えるための第1目標として、満蒙を領有し持久戦体制をつくるという満蒙領有論にもとづき満州事変を主導、満州国建国を推進した。

35年参謀本部作戦課長、翌年同戦争課長に就任し、「高度国防国家」建設のための計画、政策を立案した。

二・ニ六事件では戒厳参謀となり、冷静強硬に鎮圧を主張、実践し、同時に裏面で「革新」実現のための工作をおこなった。

37年作戦部長、芦溝橋事件にさいしては対ソ戦準備を最優先させる立場から不拡大方針を唱えたが部内の大勢に押し切られ、関東軍参謀副長に転出したが協和会などの満州支配方式について参謀長東条英機中将をはげしく批判して仇敵の関係となり帰国した。

39年陸軍中将、41年予備役に編入。立命館大学で国防論を講ずるとともに、東亜連盟協会の顧問に就任し、欧米帝国主義の圧迫を排除する“日満支”の東亜連盟の結成を訴え、石原の予言者的人格も手伝って熱烈な支持者をえた。

しかし東条による憲兵、特高の圧迫がはなはだしく、42年9月鶴岡市に移住し、山形県を中心に運動を続けた。終戦後は極東国際軍事裁判の証人として尋問されたが起訴されず、飽海郡高瀬村西山に同志と集団農場を営み開墾事業にあたった。

昭和52年6月13日、浦和市の石原忠氏から石原莞爾に関する史料1,114点が鶴岡市郷土資料館に寄託された。


「石原莞爾」青江 舜二郎 (著)
中央公論社 ; ISBN: 4122019206

満州事変の首謀者、世界最終戦争の予言者、東条英機の手厳しい弾劾者。石原莞爾は、反骨精神みちみちた一介の喧嘩師か、それとも、熱烈な法華信仰に生き世界史の行く末を見据えた理想主義者だったのか。ひとりの劇作家が、同じ東北人として無限の共感をいだいて描いた、一軍人の肖像。

第1章 外向島国
第2章 傾斜する祖国
第3章 西欧の没落
第4章 "創造"序曲
第5章 夢幻楽土
第6章 修羅まんだら
第7章 隠れ里



1893-〜1973

童話作家 児童文学者

東置賜郡屋代村大字一本柳生れ。農家浜田為助の長男。米沢中から早稲田大学英文科に入学、入学の年に「万朝報」の懸賞小説に短編「零落」が入選したのを最初として、いくつかの小説を発表し、「途暗し」は北村透谷賞を受賞している。また他方童話にも情熱を燃やし、大正5年に書いた処女作「黄金の稲束」が「大阪朝日新聞」の懸賞に1等入選、選者の巌谷小波より作者の善意性がくまれ、以後「善意を旨として」を自己の創作のより拠とする。

早大卒業後、春秋社に勤めたが、間もなく児童雑誌「良友」を編集、「花びらの旅」「一つの願ひ」などを同誌にのせ童話作家の志を確立。

精華書院、実業の日本社に勤務、12年の関東大震災以後、文筆生活を決意、その北方郷土性と、農家に生れたことに起因する重農主義と、宗教性を漂わせた童話を書き、小川未明とともに小波のお伽噺を近代的童話に昇華させた。

広介は東北人らしいねばりと誠実な人がらで大正・昭和の50年以上を約1000編におよぶ童話を書きつづけ、戦後の児童文学の盛況をもたらす先駆的役割をつとめたが、その業績にたいして昭和15年、日本文化協会より児童文化賞、17年には野間文芸奨励賞、28年には芸能選奨文部大臣賞が与えられ、32年には「浜田広介童話選集」に産経児童出版文化賞が与えられた。

また日本児童文芸家協会の初代理事長、会長に就任した。

38年5月古希を祝い郷里広介会が中心となり、鳩峰高原に「むく鳥の夢」の童話碑、40年秋母校屋代校の校庭に「道ばたの石」の詩碑が建てられた。

47年11月、高畠町初の名誉町民に推された。郷土にちなんだ書・詩・文集「折節の歌」(浜田広介墨跡保存会)をまとめて、永眠。 

48年11月27日、日本児童文芸家協会葬で、その功績を偲んだ。

日本近代文学館「日本近代文学事典」より引用


代表作

「泣いた赤おに」「花びらのたび」「龍の目のなみだ」「むく鳥のゆめ」など




1867〜1954

建築学者・工学博士。米沢座頭町生れ。
米沢藩士伊東祐順(平田東助の実兄)の次男。

外国語学校独逸語科、第一高等学校、東京帝国大学工科大学造家学科、同大学院と進む。法隆寺を研究して明治31年「法隆寺建築論」と題する論文を発表した。これは日本建築史における最初の論文で、これによって34年工学博士の学位を受く。

30年に「造家学」を「建築学」と改称したのは彼の提唱による。

32年東京帝国大工科大学助教授、38年同教授となり、のち帝国学士院会員、帝国芸術院会員、東京帝国大名誉教授となる。この間、明治工業史編纂委員、関東大震災後の帝都復興院評議員、外務省対中国文化事務局委員、日独文化事業評議員、史蹟名勝天然記念物保存協会評議員、国宝保存会会員、法隆寺壁画委員会委員長等、多方面で活躍する。

日本に初めて建築学を一つの科学として仕立てあげ、日本の建築芸術の発展経路を明らかにすると共に、中国から中央アジア、満州、仏印等を調査して、中国・インド建築に関して「伊東忠太建築文献」「支那建築装飾」など多くの著述を残している。

また在来の中国風の日本寺院建築にあきたらず、東京築地本願寺をインド様式で設計したことも有名であるが、伊勢両宮、明治神宮、平安神宮、靖国神社、震災記念堂、外地では台湾神宮、樺太神宮、朝鮮神宮、そして米沢の上杉神社等、建築設計の実務に当り造営された神社仏閣は実に数多く、何れも日本建築の粋といわれる。昭和18年に文化勲章を受賞する。

学生時代に、米沢には洋学校があるだけに高校への合格率は高いが、進学者は極めて少ないことを思い、

1.郷里の優秀な学生に学費を貸し与えること
2.学生の多い土地に寄宿舎を設けること
3.郷里で教育を奨励すること
4.機関誌を発行し講演会等を催すこと、

を柱とする育英事業の発足を同郷の有志に提唱した。これが次第に多くの賛同者を得て結成されたのが「米沢有為会」である。

米沢市は昭和29年2月名誉市民条例を定め、まず博士を名誉市民に推薦した。 「米沢風土記」より引用



1751〜1822

米沢藩主。再建の達人。

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、為さぬは人の為さぬなりけり」

江戸一本松藩邸生れ。
日向国高鍋藩主秋月種美の二男。幼名松三郎、のち直松。

1760年上杉重定の養子として江戸桜田の米沢藩邸に移る。

1766年元服、弾正大弼に任ぜられ、治憲と称し翌年襲封し【鷹山】と号す。

1785年隠居するまでは藩主として、また隠居してからは藩主治広の後見役として引きつづき40数年間その政治をみた。儒者細井平洲、医師藁科貞祐の影響を強く受け、家臣莅戸善政を重用して藩政の根本的な改革にあたり、秋田藩主佐竹義和、白河藩主松平定信とともに、寛政期の藩政改革を指導した三名君の一人に数えられた。

彼の襲封当時の米沢藩は財政困難におちいっていたため、重臣の反対をおしきり、みずから奥女中の数を一時に50余人から9人に減じたり鋤をとるなどして緊縮政策を推進した。

とくに、農村の復興につとめ、家臣にも開墾を奨励し、飢饉にそなえて備籾倉を設置、天明の飢饉には1人の餓死者も出さなかったという。積極的に副業の奨励に力を用い、桑、楮、漆等の栽培を指導して回り、京都や越後国小千谷の職人を招いて、製糸技術を改良し、織布技法の輸入をはかった。藩主みずからが産業技術取得の先頭に立ったので家中の工業が大いに興り、米沢の織物は江戸に売り出されて声価を高めた。

また、藩校興譲館を建て学問を奨励し西洋医学も採用。しかし改革の財源を江戸の三谷家や本間家にたよったため、改革の成果をこれらの豪商に吸いあげられ、財政難はなかなか解決しなかったといわれる。

 明治5年、旧士族の運動により、藩祖謙信とともに上杉神社に祀られた。また明治35年、摂社松ヶ崎神社に祀られた。米沢市内には、両神社の他に餐霞館遺跡、藉田の遺跡、文部省史蹟、「一字一涙の碑」等多くの史跡が保存されている。 「日本歴史大事典」

参考

代表的日本人 岩波文庫 内村 鑑三 (著), 鈴木 範久 (翻訳)

 1 西郷隆盛―新日本の創設者
 2 上杉鷹山―封建領主
 3 二宮尊徳―農民聖者
 4 中江藤樹―村の先生
 5 日蓮上人―仏僧

内村鑑三(一八六一―一九三〇)は,「代表的日本人」として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人をあげ,その生涯を叙述する.日清戦争の始まった一八九四年に書かれた本書は岡倉天心『茶の本』,新渡戸稲造『武士道』と共に,日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作である.





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