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石原莞爾(いしわらかんじ)

1889〜1949

陸軍軍人・東亜連盟運動の指導者。「永久平和」の先駆者

鶴岡市日和町生まれ。

警察官石原啓介の次男。庄内中学2年から仙台幼年学校に進み、1909年陸軍士官学校卒業、ついで陸軍大学に入り、18年2番の成績で卒業し、その天才と形式や権威にとらわれない天衣無縫の言動とで注目を集めた。19年、純正日蓮主義を唱える田中智学の国柱会に入会し、強烈な日蓮宗への信仰を抱いた。21年陸大兵学教官となり、22年8月から25年9月まで軍事研究のためドイツに留学し、フリードリヒ大王とナポレオンの戦史を研究した。

この戦史研究と日蓮宗信仰とを結合して独特の“世界最終戦”の観念を構成した。東洋文明を代表する日本と西洋文明を代表するアメリカとの間に人類最後の絶滅戦争としての世界最終戦が近い将来に戦われるというのである。その世界最終戦に備えるための第1目標として、満蒙を領有し持久戦体制をつくるという満蒙領有論にもとづき満州事変を主導、満州国建国を推進した。

35年参謀本部作戦課長、翌年同戦争課長に就任し、「高度国防国家」建設のための計画、政策を立案した。

二・ニ六事件では戒厳参謀となり、冷静強硬に鎮圧を主張、実践し、同時に裏面で「革新」実現のための工作をおこなった。

37年作戦部長、芦溝橋事件にさいしては対ソ戦準備を最優先させる立場から不拡大方針を唱えたが部内の大勢に押し切られ、関東軍参謀副長に転出したが協和会などの満州支配方式について参謀長東条英機中将をはげしく批判して仇敵の関係となり帰国した。

39年陸軍中将、41年予備役に編入。立命館大学で国防論を講ずるとともに、東亜連盟協会の顧問に就任し、欧米帝国主義の圧迫を排除する“日満支”の東亜連盟の結成を訴え、石原の予言者的人格も手伝って熱烈な支持者をえた。

しかし東条による憲兵、特高の圧迫がはなはだしく、42年9月鶴岡市に移住し、山形県を中心に運動を続けた。終戦後は極東国際軍事裁判の証人として尋問されたが起訴されず、飽海郡高瀬村西山に同志と集団農場を営み開墾事業にあたった。

昭和52年6月13日、浦和市の石原忠氏から石原莞爾に関する史料1,114点が鶴岡市郷土資料館に寄託された。


「石原莞爾」青江 舜二郎 (著)
中央公論社 ; ISBN: 4122019206

満州事変の首謀者、世界最終戦争の予言者、東条英機の手厳しい弾劾者。石原莞爾は、反骨精神みちみちた一介の喧嘩師か、それとも、熱烈な法華信仰に生き世界史の行く末を見据えた理想主義者だったのか。ひとりの劇作家が、同じ東北人として無限の共感をいだいて描いた、一軍人の肖像。

第1章 外向島国
第2章 傾斜する祖国
第3章 西欧の没落
第4章 "創造"序曲
第5章 夢幻楽土
第6章 修羅まんだら
第7章 隠れ里


▼Yamagatan ver9

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