スタッフヤマガタン(ヤマガタン事務局)

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『信・和・創』

他人のためにつくそうとする「誠」の心。
力を合わせ平和を求める心。
創意工夫をこらし新しいものを創造しようとする心。

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 学校名:山形電波工業高等学校(でんぱこうぎょう)
 区分 :私立,高校,全日制
 学科 :情報技術科、電子工学科、電気科、土木科、建築科
 住所 :〒994-0065 山形県天童市大字清池藤ヶ丘556
 HP  :山形電波工業高等学校
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「ぼっこす」「ぶづぐす」ともいう

大意)壊す
   「ぶづぐす」はぶっ壊す位強調した言い方

用例)たのむがら、俺の車 ぼっこすなずう。
標準語)たのむから、俺の車 こわさないでよー。

用例)あー、ごしゃげできた。おまえな車ばぶづぐしてけっからなー。
標準語)あー、頭に来た。君の車ぶっ壊してやるからねー。

石原莞爾(いしわらかんじ)

1889〜1949

陸軍軍人・東亜連盟運動の指導者。「永久平和」の先駆者

鶴岡市日和町生まれ。

警察官石原啓介の次男。庄内中学2年から仙台幼年学校に進み、1909年陸軍士官学校卒業、ついで陸軍大学に入り、18年2番の成績で卒業し、その天才と形式や権威にとらわれない天衣無縫の言動とで注目を集めた。19年、純正日蓮主義を唱える田中智学の国柱会に入会し、強烈な日蓮宗への信仰を抱いた。21年陸大兵学教官となり、22年8月から25年9月まで軍事研究のためドイツに留学し、フリードリヒ大王とナポレオンの戦史を研究した。

この戦史研究と日蓮宗信仰とを結合して独特の“世界最終戦”の観念を構成した。東洋文明を代表する日本と西洋文明を代表するアメリカとの間に人類最後の絶滅戦争としての世界最終戦が近い将来に戦われるというのである。その世界最終戦に備えるための第1目標として、満蒙を領有し持久戦体制をつくるという満蒙領有論にもとづき満州事変を主導、満州国建国を推進した。

35年参謀本部作戦課長、翌年同戦争課長に就任し、「高度国防国家」建設のための計画、政策を立案した。

二・ニ六事件では戒厳参謀となり、冷静強硬に鎮圧を主張、実践し、同時に裏面で「革新」実現のための工作をおこなった。

37年作戦部長、芦溝橋事件にさいしては対ソ戦準備を最優先させる立場から不拡大方針を唱えたが部内の大勢に押し切られ、関東軍参謀副長に転出したが協和会などの満州支配方式について参謀長東条英機中将をはげしく批判して仇敵の関係となり帰国した。

39年陸軍中将、41年予備役に編入。立命館大学で国防論を講ずるとともに、東亜連盟協会の顧問に就任し、欧米帝国主義の圧迫を排除する“日満支”の東亜連盟の結成を訴え、石原の予言者的人格も手伝って熱烈な支持者をえた。

しかし東条による憲兵、特高の圧迫がはなはだしく、42年9月鶴岡市に移住し、山形県を中心に運動を続けた。終戦後は極東国際軍事裁判の証人として尋問されたが起訴されず、飽海郡高瀬村西山に同志と集団農場を営み開墾事業にあたった。

昭和52年6月13日、浦和市の石原忠氏から石原莞爾に関する史料1,114点が鶴岡市郷土資料館に寄託された。


「石原莞爾」青江 舜二郎 (著)
中央公論社 ; ISBN: 4122019206

満州事変の首謀者、世界最終戦争の予言者、東条英機の手厳しい弾劾者。石原莞爾は、反骨精神みちみちた一介の喧嘩師か、それとも、熱烈な法華信仰に生き世界史の行く末を見据えた理想主義者だったのか。ひとりの劇作家が、同じ東北人として無限の共感をいだいて描いた、一軍人の肖像。

第1章 外向島国
第2章 傾斜する祖国
第3章 西欧の没落
第4章 "創造"序曲
第5章 夢幻楽土
第6章 修羅まんだら
第7章 隠れ里


「生徒の未来を切り拓く学校」をめざす。
「生徒の自主的活動が盛んな学校」をめざす。
「学習で生徒が成長できる学校」をめざす。
「生徒をかえるプロ教師集団の学校」をめざす。

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 学校名:蔵王高等学校(ざおう)
 区分 :私立,高校,全日制
 学科 :自動車工学科、情報機械科、普通科、自動車工学専攻科
 住所 :〒990-2332 山形県山形市飯田3-11-10
 HP  :蔵王高等学校
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1893-〜1973

童話作家 児童文学者

東置賜郡屋代村大字一本柳生れ。農家浜田為助の長男。米沢中から早稲田大学英文科に入学、入学の年に「万朝報」の懸賞小説に短編「零落」が入選したのを最初として、いくつかの小説を発表し、「途暗し」は北村透谷賞を受賞している。また他方童話にも情熱を燃やし、大正5年に書いた処女作「黄金の稲束」が「大阪朝日新聞」の懸賞に1等入選、選者の巌谷小波より作者の善意性がくまれ、以後「善意を旨として」を自己の創作のより拠とする。

早大卒業後、春秋社に勤めたが、間もなく児童雑誌「良友」を編集、「花びらの旅」「一つの願ひ」などを同誌にのせ童話作家の志を確立。

精華書院、実業の日本社に勤務、12年の関東大震災以後、文筆生活を決意、その北方郷土性と、農家に生れたことに起因する重農主義と、宗教性を漂わせた童話を書き、小川未明とともに小波のお伽噺を近代的童話に昇華させた。

広介は東北人らしいねばりと誠実な人がらで大正・昭和の50年以上を約1000編におよぶ童話を書きつづけ、戦後の児童文学の盛況をもたらす先駆的役割をつとめたが、その業績にたいして昭和15年、日本文化協会より児童文化賞、17年には野間文芸奨励賞、28年には芸能選奨文部大臣賞が与えられ、32年には「浜田広介童話選集」に産経児童出版文化賞が与えられた。

また日本児童文芸家協会の初代理事長、会長に就任した。

38年5月古希を祝い郷里広介会が中心となり、鳩峰高原に「むく鳥の夢」の童話碑、40年秋母校屋代校の校庭に「道ばたの石」の詩碑が建てられた。

47年11月、高畠町初の名誉町民に推された。郷土にちなんだ書・詩・文集「折節の歌」(浜田広介墨跡保存会)をまとめて、永眠。 

48年11月27日、日本児童文芸家協会葬で、その功績を偲んだ。

日本近代文学館「日本近代文学事典」より引用


代表作

「泣いた赤おに」「花びらのたび」「龍の目のなみだ」「むく鳥のゆめ」など



元氣印のゆえん

1.窯から出た上出来のフランスパンのはぜる音は「パチパチプチプチ」と実ににぎやかです。麦工房シベールのおいしいラスクはそんな元氣のよいおしゃべりなフランスパンから出来上がります。

2.そのままでは食べにくくなったパンの2度のおつとめ、元来ラスクは再生品でありましたが、元氣印ラスクフランスは焼き上がり、ひとやすみしたら、明るく元氣に素直にラスクになりました。

3.麦工房シベールのラスクフランスは日本全国どこへでもいつでも喜んで元氣よく飛んで参ります。

包み袋の裏面コピーより引用

株式会社シベール
990-2338 山形県山形市蔵王松ヶ丘2-1-3
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『校章について』

昭和23年10月13日制定。生徒阿部敬二君の作品が入選。「高」を中心にした四枚の花片は、ペンと四つの中心高、分校を表し、四本のペンを結んだ環と、それに付いている「○」は、宇宙と夜空の星を意味している。大いなる希望を胸に秘め、輝く星空のもと、夜勉学に励む姿を象徴して遺憾ない。最初環について星が三つずつ12個あったのを4個に減らし、改められたということである。(10周年記念誌より転載)

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 学校名:山形県立山辺高等学校(やまのべ)
 区分 :公立,高校,全日制
 学科 :食物科、福祉科、看護科
 住所 :〒990-0301 山形県東村山郡山辺町大字山辺3028
 HP  :山形県立山辺高等学校
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1867〜1954

建築学者・工学博士。米沢座頭町生れ。
米沢藩士伊東祐順(平田東助の実兄)の次男。

外国語学校独逸語科、第一高等学校、東京帝国大学工科大学造家学科、同大学院と進む。法隆寺を研究して明治31年「法隆寺建築論」と題する論文を発表した。これは日本建築史における最初の論文で、これによって34年工学博士の学位を受く。

30年に「造家学」を「建築学」と改称したのは彼の提唱による。

32年東京帝国大工科大学助教授、38年同教授となり、のち帝国学士院会員、帝国芸術院会員、東京帝国大名誉教授となる。この間、明治工業史編纂委員、関東大震災後の帝都復興院評議員、外務省対中国文化事務局委員、日独文化事業評議員、史蹟名勝天然記念物保存協会評議員、国宝保存会会員、法隆寺壁画委員会委員長等、多方面で活躍する。

日本に初めて建築学を一つの科学として仕立てあげ、日本の建築芸術の発展経路を明らかにすると共に、中国から中央アジア、満州、仏印等を調査して、中国・インド建築に関して「伊東忠太建築文献」「支那建築装飾」など多くの著述を残している。

また在来の中国風の日本寺院建築にあきたらず、東京築地本願寺をインド様式で設計したことも有名であるが、伊勢両宮、明治神宮、平安神宮、靖国神社、震災記念堂、外地では台湾神宮、樺太神宮、朝鮮神宮、そして米沢の上杉神社等、建築設計の実務に当り造営された神社仏閣は実に数多く、何れも日本建築の粋といわれる。昭和18年に文化勲章を受賞する。

学生時代に、米沢には洋学校があるだけに高校への合格率は高いが、進学者は極めて少ないことを思い、

1.郷里の優秀な学生に学費を貸し与えること
2.学生の多い土地に寄宿舎を設けること
3.郷里で教育を奨励すること
4.機関誌を発行し講演会等を催すこと、

を柱とする育英事業の発足を同郷の有志に提唱した。これが次第に多くの賛同者を得て結成されたのが「米沢有為会」である。

米沢市は昭和29年2月名誉市民条例を定め、まず博士を名誉市民に推薦した。 「米沢風土記」より引用


『校章の由来』

本校の校章は、校歌にある月山に自生する高山植物「黒ゆり」を図案化したもので、釣り鐘状紫黒色の花と、長楕円形緑の葉を各々三つ交互に配置したものです。この黒ゆりは、冬の苛烈なモンスーンに生きていることから、根性・忍耐を、群生の多年草であることから伝統と協調を、飾らない花の気品から素朴・純真とそれぞれに校風の心を表しています。


 詞:土井晩翠  曲:田中寅之助  ♪校歌

 1.普く知識を世界に求め
   祖国の精華を無窮に守る
   大道踏みゆく師弟の宿
   山形工業高校栄えよ

 2.馬見ヶ崎川流れて清し
   清くも流れて大海めざし
   注ぐや象徴我らの教
   昼夜にたゆまず進みてやまず

 3.高きは月山虚空を凌ぐ
   六千余尺の雄々しき姿
   麓は大地に天へと昇る
   いみじさ尊き我らの理想

 4.共存共栄標語となして
   子弟を養ふ母校の使命
   つとめて日本の誉を来たし
   平和と光と幸とを増さん

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 学校名:山形県立山形工業高等学校(やまがたこうぎょう)
 区分 :公立,高校,全日制
 学科 :機械システム科、電子システム科、情報システム科、
     建築システム科、土木環境システム科
 住所 :〒990-0041 山形県山形市緑町1-5-12
 HP  :山形市立商業高等学校
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『マーキュリー』

ローマ神話に出てくる「マーキュリー」をかたどり、翼のある杖に二匹の蛇をからみ合わせ。それに「YAMAGATA COMMERCIAL」の頭文字「YとC」を組み合わせたものである。翼は使節、飛躍を現し、杖は和合を、蛇は知恵をつかさどる。大正7年4月1日市立商業高等として開校された当時、初代校長 渡辺徳太郎によって制定された。


 詞:草野心平  曲:伊藤翁介

 1.千歳山 春はむらさき
   千歳山 冬はしろがね
   マーキュリー 金にひかりて
   そびえ立つ わが学び舎ぞ
   山商われらが母校 ああ山商

 2.群青の 天に雲なく
   晴れわたる 北の山河
   真と善 美をも求めて
   高鳴るや われら胸ぬち
   山商われらが母校 ああ山商

 3.純粋は 蔵王の雪の
   白の如 光りかがやき
   大き夢 つねにいだきて
   眉あげよ われら朋がら
   山商われらが母校 ああ山商

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 学校名:山形市立商業高等学校(やまがたしりつしょうぎょう)
 区分 :公立,高校,全日制
 学科 :商業科、情報科、経済科
 住所 :〒990-2481 山形県山形市あかねヶ丘1-9-1
 HP  :山形市立商業高等学校
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『校章のいわれ』

山査子(さんざし・メイフラワー)の花弁、葉、とげを図案化したものである。清純・気品と共に、メイフラワー号にちなんで、旺盛な闘志・遠大な開拓者精神・溌剰たる自由の精神を象徴している。

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 学校名:山形県立寒河江高等学校(さがえ)
 区分 :公立,高校,全日制
 学科 :普通科、果樹園芸科
 住所 :〒991-8511 山形県寒河江市六供町2-3-9
 HP  :山形県立寒河江高等学校
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1751〜1822

米沢藩主。再建の達人。

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、為さぬは人の為さぬなりけり」

江戸一本松藩邸生れ。
日向国高鍋藩主秋月種美の二男。幼名松三郎、のち直松。

1760年上杉重定の養子として江戸桜田の米沢藩邸に移る。

1766年元服、弾正大弼に任ぜられ、治憲と称し翌年襲封し【鷹山】と号す。

1785年隠居するまでは藩主として、また隠居してからは藩主治広の後見役として引きつづき40数年間その政治をみた。儒者細井平洲、医師藁科貞祐の影響を強く受け、家臣莅戸善政を重用して藩政の根本的な改革にあたり、秋田藩主佐竹義和、白河藩主松平定信とともに、寛政期の藩政改革を指導した三名君の一人に数えられた。

彼の襲封当時の米沢藩は財政困難におちいっていたため、重臣の反対をおしきり、みずから奥女中の数を一時に50余人から9人に減じたり鋤をとるなどして緊縮政策を推進した。

とくに、農村の復興につとめ、家臣にも開墾を奨励し、飢饉にそなえて備籾倉を設置、天明の飢饉には1人の餓死者も出さなかったという。積極的に副業の奨励に力を用い、桑、楮、漆等の栽培を指導して回り、京都や越後国小千谷の職人を招いて、製糸技術を改良し、織布技法の輸入をはかった。藩主みずからが産業技術取得の先頭に立ったので家中の工業が大いに興り、米沢の織物は江戸に売り出されて声価を高めた。

また、藩校興譲館を建て学問を奨励し西洋医学も採用。しかし改革の財源を江戸の三谷家や本間家にたよったため、改革の成果をこれらの豪商に吸いあげられ、財政難はなかなか解決しなかったといわれる。

 明治5年、旧士族の運動により、藩祖謙信とともに上杉神社に祀られた。また明治35年、摂社松ヶ崎神社に祀られた。米沢市内には、両神社の他に餐霞館遺跡、藉田の遺跡、文部省史蹟、「一字一涙の碑」等多くの史跡が保存されている。 「日本歴史大事典」

参考

代表的日本人 岩波文庫 内村 鑑三 (著), 鈴木 範久 (翻訳)

 1 西郷隆盛―新日本の創設者
 2 上杉鷹山―封建領主
 3 二宮尊徳―農民聖者
 4 中江藤樹―村の先生
 5 日蓮上人―仏僧

内村鑑三(一八六一―一九三〇)は,「代表的日本人」として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人をあげ,その生涯を叙述する.日清戦争の始まった一八九四年に書かれた本書は岡倉天心『茶の本』,新渡戸稲造『武士道』と共に,日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作である.




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 学校名:山形県立山形南高等学校(やまがたみなみ)
 区分 :公立,高校,全日制
 学科 :
 住所 :〒990-0034 山形県山形市東原町4-6-16
 HP  :なし
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『敬・愛・信』

すべての人を敬う心から礼儀がうまれ、すべての人に愛情と思いやりの心で接することから、生活にうるおいが生まれます。そしてこの敬愛の心から、お互いに信頼する心が生まれます。人を敬い、愛し、信じること一人がいきていくうえでなくてはならない、大切な心です


 詞:荒井陽一  曲:藤澤 孚

 1.花かをる 霞城のほとり
   風わたる 蔵王の空に
   咲き出づる 駒草のように
   たゆみなく 道を求めむ
   世を開く 希望に起つは
   山形城北 ああ城北
   われらの われらの学園

 2.さみどりの 北の大地に
   朝こそ 朋友と研きて
   みのりゆく 稲穂のように
   夕さえ 我を尋ねむ
   世を担う 理想に起つは
   山形城北 ああ城北
   われらの われらの学園

 3.時代の波 うつろひゆけど
   樹氷原 吹雪をしのび
   陽に向かい そびえるように
   永遠に ともに歩まむ
   世を照らす 慈愛に起つは
   山形城北 ああ城北
   われらの われらの学園

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 学校名:山形城北高等学校(やまがたじょうほく)
 区分 :私立,高校,全日制
 学科 :特進科、進学総合コース、情報コース、幼教福祉コース
 住所 :〒 990-0039 山形市肴町1-13
 HP  :山形城北高等学校ホームページ
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かなり大粒の大豆を使用しています。
ソフト感、風味は横綱級。


株式会社仁藤商店
〒990-0033 山形県山形市諏訪町1-2-25
TEL 023-622-2069


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