最上義光歴史館
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《平成27年度6月分の入館者アンケート集計結果》
この集計結果は平成27年6月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。 常設展示 (6/1 〜 6/30) 開館日数・・・・・・・・・・・・・ 25日間 入館者数・・・・・・・・・・・・・・2,406人 回答者数・・・・・・・・・・・・・・191人 1.歴史館をどこで知りましたか (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・15% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・5% (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・13% (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・2% (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・4% (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・7% (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・17% (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・14% (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・16% (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・6% 2.歴史館の入館は何回目ですか (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・87% (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・8% (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・5% 3.ご覧になられた感想 (1)内容はいかがでしたか �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・45% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・48% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・7% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0% (2)最上義光と最上家について �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・45% �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・52% ��わからなかった・・・・・・・・・・・・2% �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑ�1% 〜利用者の声〜 ◎当時の書類等が展示してあり、親近感がわいた。 ◎本当に無料でよいのかなと思った。上杉、伊達との関係が知れてよかった。自転車置き場の場所が分かりづらい。 ◎ガイドさん、ありがとうございました。 ◎義光さんのことはよく知りませんでした。今日、拝見できて良かったです。 ありがとうございました。 ◎ボランティアの方の説明が分かりやすかったです。今後とも続けて下さい。 ◎とってもきれいにまとまってます。 ◎無料なのに、この内容は見事だと思います。ありがとうございました。 ◎展示の説明文が難しいと思います。説明文の他にビデオ上映などがありましたら、もっと理解が得られたことと思います。ワイヤレスガイドの内容の理解が出来ませんでした。自分の知識の低さを反省しています。歴史上、大変貴重なる資料館として大変有意義でした。展示資料を理解するには相当なる知識を必要と感じました。更なる自習によりまして、又再び訪れたいとかんがえています。ありがとうございました。 ◎盛者必滅でしょうか?!ガイドさんに説明してもらったので、よく分かった。観光が楽しいものになりました。ボランティアして下さって、ありがとうございました。これからも頑張って下さい。 ◎解説が少し見にくかったかも。刀とかかっこよかったです。 ◎太刀が素晴らしい。金屏風も良かった。家系図も。 ◎資料が少ないように思う。 ◎最上氏についてはほとんど知識がなかったが、上杉との関係等よく分かった。 ◎歴史が好きなので楽しく過ごせました。館の方々が親切でよかったです。 ◎手紙等について口語訳があり良かった。 ◎昔から知っている。ときどきたちよりますけどいつもたのしいです。 ◎戦国の記念館で無料な所はなし。家のことより義光個人のことを良く説明している。 ◎暗くて字が小さくて読めない資料があった。山形県の歴史について概略理解した。 ◎鉄の指揮棒がすごい:最上様怖いと思いました(笑)ペーパークラフトの無料ダウンロードがすごいです。普通お金とりそうなのに・・・ ◎おおがらですうきな人生を歩んだ人。 ◎遠慮せずにガイドをお願いすればよかった。嫁さんを連れてまた来ます。 ◎山形城主一覧の城主名、カナをつけてもらうと読みやすいのですが。難しくて名前が読めません。 ◎こちらから要望しなくても、直ぐ案内して下さったのには少々驚きました。感謝です。 更に歴史の事が好きになりそうです。ありがとうございます。 ◎日本刀の美しさに感動しました。 ◎最上義光の系図家来など系図年表だけでなく、展示物を多くして理解し易いものとしてほしい。 ◎次回は子供達(長男は歴史大好き)と一緒に伺って、もう一度ガイドをお願いしたいです。ありがとうございました。 ◎とても良かったです。これだけの資料を無料で見られるのは、とても良心的で、すごいと思います。 ◎江戸時代に改易となった最上家の歴史が良く理解出来た。展示内容、数は少ないが充実している。北陸奥の名家、大大名の一つ最上家の栄光、最上義光の業績、次女駒姫のあわれさが悲しい。山形市民が最上義光を敬慕している様が感じられた。これだけの展示の維持を無料で行っていることがすばらしい。 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



「鮎貝(白鷹町鮎貝を中心とする地頭)のことは、(政宗自らが米沢城から)出馬したので、直ちに(当主鮎貝宗信を)自落(他氏領国への落ち延び)させる。早々に(鮎貝)城中へ打ち入るので詳しくは述べない。」。現在いうところの「鮎貝宗信の政宗への謀反事件の勃発」である。その慌ただしい状況下で認められた天正十五年「十月十四日、伊達五郎(成実)宛、伊達政宗書状」(図1 仙一四三)中の記載である。
図1 伊達政宗書状(竹田 秀 氏所蔵)
この事件を『貞山公治家記録』天正十五年十月十四日の条は、『鮎貝宗重入道日傾斎より「嫡子宗信とずっとずっと私は不和の上、最上義光の勧めで(伊達政宗に対する)謀反の企てがあった。私はしきりに意見したが聞き入れなかった。このたびすでに鮎貝城に拠って兵を起こそうとした。私(宗重)は高玉(白鷹町)へ退出した。すみやかに宗信を退治してほしい。」と言上してきた。(政宗公は)時刻を移さずすぐに誅伐すると仰せ出だされた。その時、老臣らは協議して「最上より加勢があるだろう。特に宗信の他にも(伊達家中に)内通の者があるかもしれない。」と政宗に言上した。』と記す。このように、元禄期編纂の伊達家の正史『貞山公治家記録』は、この鮎貝父子の一件を、
⑴伊達政宗に対する鮎貝宗信の謀反。
⑵最上義光が鮎貝宗信に勧めたことによる謀反。
としており、この説は現在定説となっている。
さらに『貞山公治家記録』は、「乱を武力鎮圧し鮎貝宗信を自落させた後、政宗は鮎貝日傾斎(宗重)の忠義の志に感謝し、柴田郡の内に采地を与え、二男の七郎宗益を家督に命じ、もとのように伊達家中では一家の上座においた。」と続ける。
⑶政宗が事件後、鮎貝氏をいかにも手厚く処置した。
という表現である。
果たして、⑴・⑵・⑶は真実なのか。以下、後世の編さん書ではなく、確かな同時代史料のみから検証していこう。
同じく事件勃発の天正十五年「十月十四日、桜田兵衛資親宛、伊達政宗書状」(仙一四一)には次の記載がある。
➀鮎貝の地において、父で隠居している鮎貝宗重と当主宗信父子の間が取り乱れ、隠居している宗重が鮎貝から高玉へと除かれ、難しい事態となっているので、政宗自身今日下長井へ出陣し下知をもって静める。
�∈脳綮瓩醗肪�氏の境目のことなので、心得ておくように。
➀より、鮎貝父子の紛争に、政宗が自らの意志で軍事介入したことがわかる。�△茲蝓∪�宗は軍事進攻する鮎貝の地が最上領との境目であることから警戒していることがわかる。
さらに、同日の天正十五年「十月十四日、後藤孫兵衛信康宛、伊達政宗書状写」(仙一四四)には次の記載がある。
�0廠�親子(鮎貝宗重と当主宗信親子)の間に紛争がおき、隠居している宗重らの面々とその仲間(一派)が取り除かれた。政宗はそのまま出陣し鮎貝へ押し寄せて合戦に及び、(宗信の兵)五十人余りを討ち取り、鮎貝城の実城(本丸)ばかりが残る状態となっている。明日は実城を押し破るであろうからご安心ください。
�い修両紂∈脳紊箸旅餠�あたりは何事もなく静かである。
以上、➀・��より、この事件を当初政宗は「鮎貝父子間の紛争」と認識し、政宗自身の判断で鮎貝城へ向けて出陣し宗信を攻めたことが判明する。�い茲蠅海琉豬錣乃糎�は鮎貝宗信に加勢せず全く動いていないことが判明する。
しかし、天正十五年「十一月四日、宮沢元実宛、伊達政宗書状写」(仙一五〇)では、一変して次のような表現となる。
�グ廠�宗信のことは去る十月十四日伊達氏に対する逆意(謀反)を企てたけれども、即刻出馬し、数百人を討ち取り、そのまま鮎貝城に押し詰めたので、鮎貝勢は一日も支えられず、その夜鮎貝宗信は行方知れずになって失踪してしまった。これによりすぐに仕置き(処置・裁定)を行い、翌日十五日に米沢城に馬を納めた。
�Δ修慮紂�何事もなくいかにも静かで平和そのものである。
事件勃発当初「鮎貝父子間の紛争」と認識してた政宗が�イ砲茲蝓△修僚酋綟�後に「鮎貝宗信による伊達政宗への謀反」と認識を一変させていることが判明する。政宗はこの事件が「鮎貝父子間の紛争」であるという事実を勃発当初から完全に認識していたにもかかわらず、十九日後の十一月四日に「鮎貝宗信による伊達政宗への謀反」であると事実のねつ造を行い、それを家中に宣伝し始めたと考えられるのである。
�Δ蓮↓い塙腓錣仔匹爐筏糎�がこの件で最後まで一切加勢せず全く動かなかったことを証明するものである。さらに、鮎貝の一件に義光が関係していることを示す史料は、政宗自身の発給書状をはじめリアルタイムのものは一切なく、政宗自身義光が関係しているとの認識を持っていなかったと考える。『貞山公治家記録』 編者が「最上義光ノ勧メニ依テ叛逆ノ企アリ。」と自らの解釈を記した可能性が極めて高く、事実としては義光はこの一件に全く関係していない公算が極めて高い。
政宗は、鮎貝氏が最上領の境目を領する大きな勢力をもち、伊達家中で「一家」の最上位という位置付けの一方で、伊達氏とは独立した鮎貝七郷を領する国人であることに不安を覚えていた。鮎貝氏が近い将来最上氏と同心し、さらに近隣の境目の「伊達氏の従属国人であるが伊達氏・最上氏の両属的性格をもつ国人(中山の小国氏など)」らとともに、一大勢力となって伊達氏に敵対することになることに大きな脅威を感じていた。そのため鮎貝氏を境目の地から排除し、伊達氏の完全家臣化したいと考えていた。そんな折、「鮎貝父子間の紛争」が勃発したのを好機ととらえ、政宗自ら大軍を率い鮎貝領に出陣し、当主宗信を最上領に自落させ、事後処理として鮎貝氏を柴田郡内へ移し、伊達氏の完全家臣化することに成功したというのが真相であろう。
実は鮎貝氏は、政宗の出自と同じ藤原北家の山蔭中納言を祖とし、その孫の藤原安親が下長井荘の荘官となり、やがて武士として土着化した氏族で、伊達氏に全く劣らぬ名門であった。それもまた政宗にとっての脅威の一つであったろう。
現在、この鮎貝の一件を、「最上義光が北の庄内へ侵攻しそれに集中しており、南の伊達氏からの侵攻を恐れ、その手だてとして義光が鮎貝宗信に勧めて謀反事件を勃発させた。これにより政宗・義光の不和が決定的となった。」と説かれる傾向にある。しかし、これは逆に庄内侵攻で手一杯で義光が介入できないこの時期を好機ととらえ、政宗が鮎貝領へ軍事侵攻し、自らの目的を果たしたというのが実情であると考える。
図2 伊達晴宗知行状(部分 鮎貝宗房氏所蔵)
本来、伊達氏は独立国人である鮎貝氏の本領七郷、そして「天文二十二年正月十七日、鮎貝兵庫頭宛、伊達晴宗知行状」(図2)で保証していた「守護不入」特権(棟役・段銭・諸公事を免除された上に、守護伊達氏の裁判権=検断権の不入を許されること)を有する知行地には入ることができないルールであった。しかしそれを犯して政宗が侵攻するには「正当なる理由」=「政宗への謀反」を創出する必要があったと解されるのである。
尚、政宗・義光の不和が決定的となったのは、天正十五年八月政宗の斡旋により成立した義光と庄内の大宝寺義興の和睦が、十月の義光の庄内侵攻により破綻したことによる。
《註》
・鮎貝氏は本領「最上川左岸の鮎貝・山口・箕和田・高岡・深山・黒鴨・栃窪の一帯七郷」を領する伊達氏とは独立した国人であった。
・本文中の「仙一四一」・「仙一五〇」は『仙台市史 資料編』⒑(一九九四年)掲載の「一四一号」・「一五〇号」文書の略。
■執筆:大沢慶尋(歴史博物館青葉城資料展示館主任学芸員)「歴史館だより��22」より