最上義光歴史館
|
最近、歴史館から外にでると・・・
(。−_−。)トテモ、暑いデス・・ しかも、日差しが痛い・・( ̄− ̄A;)フキフキ (歴史館の中は、快適なのに・・) 真夏がくるのが ヽ(;▽;)ノ 怖ぃ。 そこで、今年も 『 フラッペ氷 』 始めました〜。 ★彡(ノ^ ^)ノ *☆フラッペ氷☆* ヘ(^ ^ヘ)★彡 それと、新メニューが登場です。 ♪NEW★*☆ヽ( ^-^)/★*☆NEW♪ じゃ〜ん! 『スイーツロール』 外側がタコスの生地なので、サクサクの食感が(^−^)b Good! 味は3種類!! [ アップルキャラメル ] [ 抹茶あずき ] [ カスタードベリー ] です。 味の感想は、食べてみてのお楽しみ! なくなりしだい終了となりますので、 (* ̄▽ ̄*)興味のある方は、お早めにどうぞ。 |
|
【松根備前守光広/まつねびぜんのかみあきひろ】 〜俳人・松根東洋城の先祖〜
義光の弟である義保の子。義保は長瀞城主。兄の片腕となって出羽南部の平定に尽力したが、天正19年(1591)に戦死。ときに光広は3歳の幼児だった。義光がこれを哀れんで、息子同然にいつくしみ育てたと、宇和島市に残る古記録は伝えている。 光広は成人の後は山形市漆山に居住したこともあったが、西村山の名門白岩家の名跡を継いで「白岩備前守」を名乗る。 慶長5年(1600年)の関が原合戦、長谷堂合戦のときは12、3歳だったから、まず戦陣の経験はなかっただろうと思われる。元和2年(1616)、庄内櫛引郷に居城松根城を築いて松根姓を名乗る。一1万2千石、一書に1万3千石とある。 義光に育てられたことに対する報恩の気持ちからか、最上家を思う心が人一倍厚い人物だったようだ。 熊野夫須美神社に、那智権現別当あて、年次無記8月20日付、光広の書状が一通ある。 「最上出羽守義光が病につき、神馬一疋ならびに鳥目(銭)百疋を奉納いたします。御神前において御祈念くださるようお頼みします」という内容である。 「白岩備前守光広」の署名からみて、松根移転以前であることは明らか。義光の病が重くなった慶長18年(1613)のものと推定される。出羽からははるかに遠い紀州那智に使者を遣わして、病気平癒の祈りをささげたのである。あるいは、光広はそのころ上京中だったかもしれない。 義光が亡くなり、跡を継いだ駿河守家親も3年後の元和3年ににわかに亡くなり、その後を12歳の少年、源五郎家信が継ぐ。とかく問題行動を起こしがちな幼い主君に、家臣たちは動揺する。 家を守りたてるべき重臣たちのなかには、義光の四男山野辺光茂こそ山形の主にふさわしいとして、鮭延越前、楯岡甲斐らの一派が公然と動きはじめる。 かくてはならじ、お家のためになんとかせねばと、光広は「山野辺一派が策謀をめぐらし当主家親を亡きものにした」と幕府に直訴した。幕府でも一大事とばかり徹底的に究明したが、事実無根と判明。偽りの申し立てをした不届きの所業として、光広は九州柳川の立花家にあずけられてしまう。彼はここ柳川でおよそ五十年を過ごす。藩主立花宗茂との親交を保ちつつ、寛文12年(1672)84歳の生涯を終える。 その子孫が四国宇和島の伊達家につかえ、家老職の家柄を伝えて維新を迎えた。 高名な俳人松根東洋城(本名豊次郎1878〜1964)は、この家の9代目にあたる。宮内省式部官などを勤めながら夏目漱石の門下として俳壇で活躍、のち芸術院会員となった。 昭和4年6月、父祖の地である庄内の松根から白岩をおとずれた東洋城は、昔をしのんで次のような句を残した。 故里の故里淋し閑古鳥 青嵐三百年の無沙汰かな 出羽の最上から九州柳川へ、そして更に四国の宇和島へ。先祖のたどった長い長い3百年の道程だった。宇和島市立伊達博物館の庭には、「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑がある。 最上家の改易で会津・蒲生氏により接収破却された松根城の跡には、最上院がある。光広の妻が晩年に住んだという松根庵には、彼女の墓碑が寂しくたっている。 ■■片桐繁雄著 |
|
最上義光に殉じた寒河江十兵衛
(一) 慶長十九年(1614)一月十八日、最上出羽守義光は病により生涯を閉じた。その際、寒河江肥前、山家河内、長岡但馬、寒河江十兵衛の四人は、二月六日に義光墓前にて腹を切り主の死に殉じた。これが世間に取り沙汰され、後世に語り伝えられてきた。この話しの誕生は、元和八年(1622)の最上家改易から十二年後の寛永十一年(1634)に、最上の旧臣と思われる人物が書き残した『最上義光物語』(原本が『続群青類従』に収録)に日く、「慶長十九年寅の正月十八日、六十九歳にて逝去したまひけり、法名玉山白公大居士とそ申ける、然に寒河江肥前守、同十兵衛、長岡但馬、山家河内は内々御供可仕と存ける故、妻子に暇乞し諸事懇に申置、光禅寺にて切腹致けり」とあるのが話しの発端であろうか。それに何かと解釈を加え世上に喧伝されてきた。しかし、それら全てを事実を伝えるものとして受入れてよいのか。ここに、寒河江十兵衛の後裔が伝えた『寒河江家文書』(以下、『文書』)から当時の記録を拾い、少しでも真実を知る手立てを探っていきたい。なお、『文書』は「拾兵衛」とあるが、ここでは「十兵衛」に統一した。 (二) 「寒河江家略系」 十兵衛元茂−親清−勝昌−勝弘−広政−範勝−元清−元澄 十兵衛の没後は、草苅薩摩二男の織部(親清)が、娘の婿養子に入り跡を継ぐ。織部は鶴ヶ岡に在勤、最上家改易の際には城内の諸道具引渡役を勤めた。最上家退散後は会津蒲生家に三百石で仕官、主家破綻の後は加藤家に仕え寛永十九年(1642)に没、行年五十五歳。三代・勝昌の時に加藤家没落後の慶安元年(1648)に、松平大和守家に再仕官を果たすと以後、主家の重なる転封に一度は禄を離れたこともあったが、前橋藩にて寒河江の名跡を維新まで伝えた。 『文書』から四代・勝弘の「勝弘聞書」(以下、「聞書」)に、十兵衛の貴重な生前の姿を垣間見ることができる。その主な箇所を拾い、原文を多少、現代文に書き改め述べてみよう。 日く、「十兵衛ハ義光公二仕エ、武頭鉄砲預リ弐百六捨石ヲ賜ル、義光公折紙黒印有、近所居御心易被召之由、アル時、近習ノ若輩者卜争イガ起キタ、家老達ハ十兵衛ノ非ヲ責メ、切腹ヲ申シツケタ、シカシ義光ノ温情ニヨリ、兎角命御貰御暇被下候由、夫ヨリ仙台在中エ夫婦ハ引篭、義光公ヨリ年々金子給り露名送由、ソノ後、文禄ノ役二義光ノ出陣二際シ、コノ事ヲ遅レテ知ツタ十兵衛ハ、其頃道中筋食物等モ不自由ノ折柄ナレバ、煎粉具足肩懸ヲ支度、義光ノ後ヲ退ツタノデアル、ソシテ御陣小屋参御供支度旨願、則義光公御出有テ御勘気御免、夫ヨリ前々通リ御心易被召仕由、高麗陣ヨリ帰還ノ後、長岡但馬守、寒河江肥前守、寒河江十兵衛三人、面々日頃忍深キ故、追腹御物語申上由、義光公老病六拾九歳、慶長十九甲寅正月十八日御逝去、同二月六日ニ右三人者光禅寺ニテ切腹ス、十兵衛行年五拾五歳、則最上山形三日町光禅寺義光公御廟并三人者墓今有、最上山寺中坊ニモ右之通廟三人者共墓有、十兵衛義光公御在世時、数度取合之砌武功モ有由、委ハ我幼少ニシテ父親類離不具事計也」 このように、十兵衛の生前を僅かながらも知ることができる。特に義光から目をかけられ、切腹を免れ最上家を退散後の浪人時代、義光から年々扶助を受けていたという事実、そして文禄の役に降し帰参を許されたことなどから人一倍、義光に対して深く恩義を感じていたのであろう。寒河江肥前、長岡但馬にしても、十兵衛と共通したものを持っていたことから、義光の生前中に共に主の死に殉じようと、誓い合った仲間であったのだろう。 (三) しかし、「聞書」に山家河内の名が見えないのは何故か。勝弘は十兵衛の死から五十五年後の寛文二年(1669)に生まれ、元文二年(1737)に没した。父からは寒河江の由緒や曾祖父の殉死の話しを、目を輝かせながら聞き入ったであろう。だが、特に寒河江の家の特筆に値いする殉死物語の内に、山家河内の姿が無かった。勝弘の意識の中に河内は存在しなかったのだろうか。 光禅寺が七日町から現在地に移ったのは、最上家の後に山形に入った鳥居忠政が、寛水五年(1628)に死去の後、長源寺を前任地の岩城から移すため、光禅寺を現在地に移したのだという。その際、旧臣達が義光などの遭骸・石塔などを掘り出し、運んだという。しかし、殉死者の墓についての記録は無い。日く、「…(光禅寺)ニ義光・家信(家親)・義俊三代ノ石塔并殉死四人ノ石塔アリ、殉死ノ石塔ハ百年忌之立申トアリ…」と、百年忌にあたる正徳三年(1713)に、四人の墓が建てられたという。それは従来の粗末な墓を新たに建て直したものなのか。「聞書」は三日町光禅寺に義光と三人(河内を除く)の墓があったことを伝えいる。七日町に在った光禅寺が、三日町(現在鉄砲町二)に移ったことは承知していたのである。 勝弘の白河藩時代の松平家は東根に飛地を有し、勝弘は代官として元禄十二年(1699)から三年間、東根に在勤していた。山形城下はさして遠くはない。また職務として本藩白河に出向くこともあったろう。その際には光禅寺を訪れ、曾祖父の墓前に手を合わせることもできたであろう。それは正徳三年(1713)以前の、古いまゝの姿であった筈だ。そこには、山家河内の基は無かったのだろうか。若し有れば、勝弘は河内を忘れることはなかった筈だ。また、新しく建てられた墓についての情報は、勝弘周辺には伝えられてはいなかったのだろうか。 河内を除いた三人は、義光より受けた共通した恩義に報いるため、生前に話し合い腹を切ったと伝えている。仮に河内が三人とは別行動で腹を切ったとしても、同輩の河内を殉死者から除いて伝えていくだろうか。この「聞書」から、山家河内の名が除かれているということは、勝弘が見聞した限りに於いて、正徳三年(1713)以前の様子を、「聞書」に書き残したのであろう。また幕末に生きた七代・元清の「覚書」も、「聞書」を踏襲しており河内の名は無い。 (四) 現在、この殉死の話しが色々な形で語り伝えられている。話しの多くは十兵衛と肥前の二人の寒河江氏であろう。日く、「肥前守ははじめ義光に強く反抗したが和解し、後に協力したため義光も大いに報いた。 十兵衛も肥前守と同じく義光に反抗したが後に和解、十兵衛は肥前守の子で父と共に義光に反抗、和解後は義光の信任を得る。 中野義時が義光との一戦に滅亡、この戦いに四人は義時に味方したが、以外にも家臣に取り立てられた」などである。 このように、何ひとつ風聞の域を出ない話しばかりが、世上を賑わし伝えられてきている。しかし今回、僅かながらも十兵衛の生前の姿を知ることができた。また「聞書」は肥前についても書き残していた。日く、「寒河江肥前守卜云者、最上村山郡中野村エ義光公鷹場ニテ、同村安楽寺御休之節小僧有、生付発明故御貰有テ御側坊主勤、段々御意ニ入、壱万五千石迄被下置、肥前守江寒河江苗字被下置由、地下人子卜聞并越前大守仕官寒河江甚右衛門卜云者有、此者肥前守家来跡絶ニ付名乗、云々」とある。これが福井藩の記録では、寒河江監物の子の甚右衛門の系統と、肥前の子の新次郎俊長の子、惣右衛門との二系統の寒河江氏として仕えている。 このように、十兵衛の一族とは直接の血縁関係は無さそうである。ただ三代・勝昌(延宝七年没)頃までは文通していたようで、故郷を離れてからある時期まで、互いにその消息は分かっていたようだ。山家河内については、山家城主であったという。そして子の勝左衛門が楯岡(本城)豊前守の家臣となったという。長岡但馬についても、はっきりしたことは分からないが、子の伴内が庄内藩酒井家に仕えている。 天明八年(1788)、幕府巡見史に随行し東北の地を歩いた古川古松は、『東遊雑記』に荒れ果てた最上家墓地の有様を書いている。日く、「……山形に光禅寺という禅院あり、最上氏墳墓の地にて百万石領し給う節建立あり、その節は堂塔魏然として結構なりしに、物替わり星移りて今は破壊の古跡となれり、境内広く、最上義光その外の塚など苔むして残れり…」 ■■小野未三著 |
{PDF} ダウンロード 5.5MB_Adobe PDF
![]() 最上義光の兜☆三十八間総覆輪筋兜(最上義光歴史館Ver.) 木村社長が開発した最上義光の兜のペーパークラフトを、社長の許可をいただいて最上義光歴史館で独自に改良を加えました。 鉄砲の弾痕の追加や利剣の透かしの形状変更、威毛の色の変更などなど細部にもこだわってみました!!残念ながら名称の由来となっている三十八間の筋については、このペーパークラフトの構造上どうしても再現できませんでした。次回の改良にご期待ください!! ダウンロードは無料です!! あなたも厚紙にプリントアウトして最上義光の兜の制作にチャレンジしてみよう!! ★ほかの武将兜ペーパークラフトは>>こちら ※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画し、川島印刷、精英堂印刷が設計製作したものを最上義光歴史館で改良したものです。 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum





皆さん、
最上義光のお酒に続き、長谷堂合戦のお酒が出ましたぁ〜。
歴史館でも、販売することになりましたョ。(V^−°)
1本 1,600円ですが・・・
1本1,500円の「最上義光」と1本1,600円の「長谷堂合戦」を(〃∀〃;)セットで購入すれば、
3,000円〜!
100円お徳ですね〜ぇ。♪〜( ̄ε ̄ )
ナッツは、まだ「長谷堂合戦」を飲んだ事が無いので・・ ┐( ̄ー ̄)┌
今度、買ってみようかなぁ。
すでに、飲んだ事がある方・・
p(^−^q=p^−^)q感想を教えてください。