最上義光歴史館
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【氏家伊予守定直・尾張守守棟/うじいえいよのかみさだなお・おわりのかみもりむね】 〜信頼厚い譜代の重臣〜
「どうぞ親子の争いをおやめください。最上のお家は義光様に任せるのが一番です。」 元亀元年(1570)に義光が家督を嗣ぎ、新たな政策を実行しはじめた段階で、家臣団が父義守派と嫡男・義光派に分かれて対立、領内が混乱におちいった。このとき、病床の氏家定直はこう言って、主君義守をいさめた。 その事情は5月15日付けの義守(入道して栄林)書状によってわかる。 「さてゝゝ此口之儀者、氏家存命不定之刻、意見に及び候条、諸事の不足をさしおき、親子和与せしめ候。定めて祝着たるべく候や」 現代語では「こちらの方では、氏家(伊予守)が生死のさかいにあるときに、意見してくれたことから、いろいろ問題はあっても、親子和解したところだ。まずは目出度いこととしてよいだろう」となる。 義守としては、不満はあれども喜んでいいことと、自分を納得させている文面である。 定直の忠言に従って義守は一旦は政治の世界から引退し、龍門寺に入った。 文献史料を見ると、氏家定直が最上家の重臣として活躍をはじめるのは、義光が生まれる前の天文12、3年(1543、4)ごろからで、主君義守が20歳を過ぎたばかりの時期にあたる。若い山形の主を、定直は懸命に支え続けてきたのである。だからこそ、その病床からの意見には、剛毅な義守も従わざるを得なかったのであろう。 仙台市青葉城資料館の大沢慶尋氏の研究によれば、15世紀前半の当時、米沢の伊達氏と最上氏が外交折衝をするときは、定直が後見となっていたとのことで、「義守政権の宿老で第一の重臣」の地位にあったという。 さらに筆者の意見を述べるなら、その名字の「定」は、さらに前代の「最上義定」から拝領したのではないか。だとすれが、義定の没年とされる永正17年(1520)以前からの、譜代の家臣だということになる。 * * * 義光時代に活躍する氏家尾張守守棟は、定直の子であろう。父が主君の名の一字をもらったのと同じく、彼も義守から「守」一字を拝領したと考えられる。ついでだが、その子「光棟」、孫「親定」もまた、「義光」「家親」の一字をもらったのだろう。 『最上記』によれば、守棟は常に義光の側近にあった。義光が領域拡大の戦いを積極的に進めていった時代、谷地の白鳥氏、寒河江氏、天童、上山の里見氏等との戦いには、さまざまな計略を進言して、成功を収めたとされている。 それだけではない。主君に対して厳しい苦言を呈したこともあった。 永禄年間(1565前後)に、貴志氏が篭もった八ツ沼城(朝日町宮宿)を攻めたとき、義光は真っ先かけてめぼしい敵と渡り合おうとする。一軍の総大将が勢い込んで走り出るのを、兵士たちは「とんでもないこと」と引き止めるが、義光はそれを振り切って進み、例の鉄棒を振り回して相手を仕留め、首を取った。 そのとき、傍に駆け寄った氏家守棟は、「大将ともあろう方がそんな雑兵の首を取って誰に見せようというのか」と、厳しく叱り付けた。義光は叱られてしょげかえり、取った首をかたわらにいた兵に与えてしまった。 まさに信頼厚い重臣なればこそである。 『奥羽永慶軍記』では、義光を「ソノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ」と称賛したのに続けて、「誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ、時ノ執事氏家尾張守、元来忠アリテ義アリ」と、守棟を「志村九郎兵衛(伊豆守光安)」と並べて最上家の最重要な家臣として位置付けている。 守棟は、まさに義光の出羽南部統一事業をささえた大功労者であった。 『最上義光分限帳』には、その子「高壱万七千石 氏家左近」が出ており、城下絵図で見ると、山形城二の丸東大手門の前、元の県立病院の敷地一帯が氏家の屋敷であった。山形城内で最も重要な所に居住していたわけである。守棟の子光棟は、義光の娘「竹姫」を妻とするが、これは別項にゆずる。 山形市平清水の大日堂に、氏家相模守光房が「諸願成就」を感謝して寄進した鉄鉢がある。この人物も、伊予守、尾張守に連なる人物であろう。「慶長六年閏月(この年は十一月)二十八日」とあるから、出羽合戦で勝利を収めた記念でもあろうか。参考までに、尾花沢市六沢の円照寺観音堂に延沢康満が奉納した絵馬も、同年、同月「十七日」の銘がある。この月、山形領内では祝勝パーティーでもあったのか、あるいは戦後の論功行賞が発令されたのかもしれない。 話かわって、古く14世紀の南北朝時代、新田義貞が越前で戦死したときに、その首を取ったのは斯波氏の家来の氏家重国だと『太平記』にはある。このとき新田義貞が佩いていた太刀が、めぐりめぐって最上家に伝えられた名刀「鬼切丸」であるとされる。 斯波氏は現宮城県北部に居住して「大崎」を名乗り、最上家はその分家として出羽最上に入った。両家には共に「氏家」を名乗る重臣がいた。 どうやら氏家氏は、斯波氏、最上・大崎両家とは切っても切れない深いつながりがあったらしいのである。 ■■片桐繁雄著 |
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《平成21年7月分の入館者アンケート集計結果》
この集計結果は平成21年7月1日から同31日の間に入館した利用者を対象 に行ったアンケートを集計したものです。 常設展示 (7/1〜7/31) 開館日数・・・・・・・・・・30日間 入館者数・・・・・・・・・5,584人 回答者数・・・・・・・・・・101人 1.歴史館をどこで知りましたか (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・28% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・4% (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・・7% (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・4% (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・4% (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・9% (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・24% (8)観光案内所 (駅など)・・・ ・・・・・・・・・5% (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・11% (10) その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6% 2.歴史館の入館は何回目ですか (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・84% (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・12% (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4% 3.ご覧になられた感想 (1)内容はいかがでしたか �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・50% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・43% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0% (2)最上義光と最上家について �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・47% �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・50% ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・0% �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�% 〜利用者の声〜 ◎最上義光の事をよく知らなかったので、勉強になった。 ◎内容が分かりやすく良かった。 ◎ボランティア、受付の人々の対応が大変気持ちよかった。 ◎照明を明るくしてほしい。 ◎お客さんに対する声や笑顔がいい。 ◎ボランティアの方から詳しく説明してもらえたので良かった。 ◎無料での展示内容の充実さに大満足だった。 ◎説明書きがわかりやすかったので、歴史に興味をもてた。 ◎兜のペーパークラフトを館内で作れる体験コーナーがほしい。 ◎最上義光の嫡子が、琉球国王を接待訳した記事があるので沖縄との関係企画をやってほしい。 ◎無料なのに、この内容は立派だと思う。 ◎館内もきれいで、展示物もよく整理されていたので大変見やすかった。 ◎無料なのが嬉しい。 ◎音声ガイドがわかりやすい。 ◎義光時代の政宗との関係、系譜がより明確であればよかったと思う。 ◎内容が充実しており大変満足した。 ◎映像での紹介があれば、より楽しかったと思う。 ◎最上義光が全国的な知名度になることを期待したい。 ◎最上家について知識があまりなかったので、大変興味深く拝見できた。 ◎ボランティアの方の説明で、大変満足できる見学ができた。 |
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山形藩主・最上源五郎義俊の生涯
【三 改易への道】 元和六年(1620)三月、先に述べたように、二人の目付派遣から始まった山形藩への監禁は、翌七年より「山形御横目衆として石丸六兵衛・稲村(今村)伝四郎」、またその翌八年三月より「華房弥左衛門・岡田新三郎」と、連続して目付派遣を見るに至った[注1]。改易の日を迎えるまでの二年五ケ月の間、家中騒動の調停を目的としながらも、幕府の監視下に置かたのも同然の山形藩では、藩主擁護の現状維持を訴える松根備前守光広と、山野辺義忠を頂点とする一派との力の相剋が、少しも衰えることなく拡大への道をたどっていたのである。 同七年(1621)六月吉日、義俊は大沼浮島稲荷神社に二基の石灯篭を奉納した。この熊野宝前と大沼大明神の石灯篭銘文の内容は、ほとんど変わりはない。しかし、この銘文からは、家中の騒動の渕に身を沈め、如何とも仕難い自己無力さをさらけだした、苦衷に満ちた義俊の姿を、はっきりと汲みとることができるのである[注2]。 その銘文の一節の、「伏して願はくは、神諦に遵ひ、哀納し、無二の懇志を以て、武運をして続かしめ、国家をして孫々に保たしめんことを、无(無)限の神明に丹祈し、知見を定めん」の字句からは、義俊の最上家の前途に危惧の念を抱きながらも、己の非力を自覚して神の力にすがるべく、真心から神に祈りを捧げ、知識と見識を定めようと、必死に願っていることが判る。 この銘文に込められた、義俊の必死の願いから、家中に立ち込める暗雲の中で、それを打破するはどの己の力量の無さと、加えて藩内勢力の趨勢から我が身の立場の不利を悟り、ただ々々神仏にすがるより外はない程に、瀬戸際に負いつめられた、義俊の姿を垣間見ることができる。 義俊はこの必死の祈願を終えた後に、江戸に向かったものか、近隣の佐竹義宣は二月末に、また伊達政宗も八月には江戸入りをしている。そして、秋から冬の時期にかけて、義俊は佐竹義宣と、茶の湯の席にて顔を会わせていたことが、梅津政景の日記[注3]から知ることができる。 (イ) 十月十三日、最上源五郎殿へ来ル御数寄可有由、兼而御約束御申候へ共、御城御数寄相極候ハゝ、明後かや橋へ御出可有由候て、被仰分候御使ニ参候、 (ロ) 十一月十日、朝、最上源五郎殿数寄ニて御出被成候、御相客近藤石見殿・牟礼郷右衛門殿、 (ハ) 十二月十六日、晩、最上源五郎殿へ御振舞ニテ御出被成候、 十月十三日、佐竹義宣は江戸城内での茶会に出席のため、義俊の招請を謝辞する。十一月十日、義俊は義宣の茶会の席に招かれた。合客の一人の牟礼郷右衛門は、一昨年九月に山形に検使して派遣され、義俊、義宣共に面識のあった人物である。十二月十六日、義宣は義俊の招待を受け最上邸に赴く。 この時期の政景の日記には、義宣と諸大名や幕臣達との交流を示す記事が多く見られる。このように江戸での武家達の社交の一環として、茶席を設けて互いに親睦を図っていたことが判る。義俊にしても、喧騒の渦中にある国元を離れた江戸の地で、相手が義宣だけではなく、他の人物ともこのような席を設け、互いの親交を図っていたことと、十分に察することができる。この年かと思われる十二月廿二日付の義俊書状に、「一書申入候、仍明後日廿五日朝、藤堂和泉殿振舞申候、云々[注4]」と、津藩主藤堂高虎を朝の席に招待していることから、政景日記の記事とを併せ、義俊の江戸での私的な面の一端を、僅かながらも知ることができる。 また、寒松の[日暦[注5]]によれば、十月十二日、足利より江戸に入った寒松は、廿三日には「快晴、午往最源相逢」と、最上邸を訪れ義俊と会ったことを書き残している。そして廿五日、江戸を離れる寒松に対して、義俊は贈物を届け謝辞を表した。このように、寒松との接触が絶えず保たれていたことは、この時期の義俊にとっては、寒松が多分に心の大きな支えになっていたものと察せられる。重ねて思うには、この時期あたりまでが、義俊にとっては僅かに残された安穏の日々であったであろう。 明けて元和八年(1622)三月九日、佐竹義宣の家臣への書状から、最上家重役達の「公事」について、未だ解決していないことが判る。 最早源五郎殿年寄共の公事、干今不相済候、源五郎殿ハ御かまいなき分にてハ候へ共、内々にて御指図なとも有やうニ沙汰候、又町屋なとに御座候而、傾城狂なと被成、不似合行儀之由、取さたにて候、御酒過候へハ、生もなく無行義之由、皆々御物かたりニ手、さやうニ候へハ、今般之公事之様子ニより、御身上あぶなきと、爰元にて皆御物かたりニ而候[注6]、 この書状に見える年寄共の「公事」とは、一体何を意味するものなのか。恐らく国元での藩内抗争が決定的な局面を迎え、その決着を着けるべく、いよ々々その裁定を幕府の手に委ねるべく起こした裁判に違いない。政景日記からの昨年末の義俊の動きから見れば、この訴訟が江戸表に持ち込まれたのは、おそらく年明けてのことではなかったか。この訴訟を起こしたのは、義俊擁護の松根備前守光広だという。 これ義俊若年にして国政を聴事を得ず、しかのみならず、つねに酒色をこのみて宴楽に耽り、家老どもこれを諫むといへども聴ざるにより、家臣大半は叔父義忠をして家督たらしむことを希ふ、しかるにひとり松根光広のみ肯はず、且家親が頓死せし体、毒殺にうたがひあり、義忠および小国日向光松・鮭延越前秀綱等逆意よりいたせるところなりと訴へ申せしにより、云々[注7] この最上家史料による言い分は、家中の大半が酒色に溺れ、周りの意見に耳を傾けない義俊を排し、人望のあった義光四男の山野辺義忠を、家督にと望む勢力に対し、ただ義光甥の松根光広のみが反対したという。そして、家親の死が義忠一派の毒殺によるものと、これを訴訟を起こした一因とした。 しかし、この最上家内部の抗争の実態については、確たる史料も無く細部については知る由もない。また巷に流れる家親頓死説についても、これを全面的に認めることはできないのである。ただ、はっきりしていることは、元和六年(1620)三月に始まった目付派遣は、最上家内部の恥部を世に知らしめ、それが二年後の「公事」事として、完全に表面化したということである。 諸史は松根光広が家親の死因に、山野辺一派が関わっていたと訴えた、という。しかし、これが光広が起こした主たる訴因ではなかろう。そこには、山野辺・楯岡、松根と同じ最上の血を引く者同志の、主導権争いに決着をつけるべく、藩主擁護の立場を表す光広が、幕府にその裁定を委ねたことにある。重ねて述べるならば、家親の死因については、これを裏付ける確実な史料も無く、いつまでも従来の説にこだわるべきではない。 さらに、この三月九日付の書状からは、義俊の酒に溺れ傾城狂いに身を持たせた姿を伝え、今回の公事の成行きによっては、義俊の身上も危うくなるだろうと懸念している。このように、この度の最上家の一件が義俊には「御かまいなき分」とはいっても、義俊自身の身持ちの悪さが、災いのもとになるのではと示唆した。続いて四日後には、「山形之儀無落著候ハゝ御暇ハ出間敷候と見へ候[注8]」と、山形の公事が解決せねば、義宣自身の帰国もままならないだろうと、隣国に起きた不祥事の余波が、義宣にも及んで来たことが判る。 続いて三月二十四日の書状には、「最上之くじ干今不相済候、源五郎殿身上、縦此度ハ何事なく候共、三年ハ続間敷由唱に而候、此中之行義之躰、更々人外之由にて候、酒ニ被酔候ヘハ、きちかいにて候由、各御前衆かくしたいなく、くかいにての取沙汰にて候間、きしきニて可有之候[注9]と、義俊の手に負えない酒乱の癖を伝え、義俊の身上ももう三年は続かないだろうと、若き藩主に対して深い憂慮の念を表している。先に東根景佐が遺言状に、「もかミの御国三年と此分ニあるましく候」と書き残したように、景佐の杞憂が現実となって目前に迫っていたのである。 やがて改易の時を迎えるまでの間の動きを、[細川家史料]から関連箇所のみを拾い、列挙してみる。 (イ) 七月廿八日、最上身上も近々可相果様ニ執沙汰仕候、見及申候躰も左様ニ御座候事[注10]、 (最上義俊が近々改易されるとの噂があるが) (ロ) 七月晦日、当最上身上之事、一昨日相済申候、御意ニハ祖父、太閤御代より御心入を仕、其子駿河幼少より江戸二相詰致御奉公候間、此度之儀者、新敷郷御国被下候由ニ而、悉相済申候[注11]、 (最上の公事も廿八日に終わったようで、祖父以来の忠節の家柄故に、幕府は国替えで決着を着けた。新知六万石という) (ハ) 八月十日、最前も身上候最上事、御前相済申候通被仰出候へとも、家中之者共色々儀申候而、むさと仕たる様子ニて、御礼も相済不申候事[注12] (この書状から知ることは、最上家重役達が国替えの決定に異議を唱え、それにより再び家中紛争の状態となり、義俊の将軍へのお目見ができなくなったという) (ニ) 八月十三日、最上身上可相果之由候、是者何之故候哉、便宜ニ可承候事[注13]、 (細川忠興は最上家改易の噂を聞き、その訳を忠利に問うている) (ホ) 八月十六日、最上事も被成御免、今度新敷御国を被下候と恩召候段、被仰出候へ共、年寄共両人申候ハ、任御綻国へ参候共、又色々の儀可在候間、最上を守立申儀ハ罷成間敷之由、申上由候、何と可被成も知不申候[注14] (十日の時点で、重臣達の国替えの裁定に不服を唱えたことが判っており、その理由が国替えとなっても家中の対立は続き、最上の家を守ることは出来ないと、あくまで国替えを拒否した。この「年寄共両人」とは、山野辺義忠と蛙延越前と思われる) この多分に真実性のある史料から、改易直前の慌ただしい空気に包まれた、幕府対最上家の対立の構図を見ることができる。しかし、そこには藩主義俊の姿は見えないままに、二十一日、遂に破局を迎えたのであった。[梅津政景日記]は次のように伝えている。 去廿二日之御日付ニ而江戸より御飛脚辰刻ニ参着、半右衛門所へ之御状之趣致拝見候、様子ハ、もかミ源五郎殿御下衆公事之事御前公事ニ罷成、公方様被仰出ノ分ハ、出羽守・駿河守御奉公致候間、此度之儀ハ被御免候間、如前ニ年寄共国之仕置可仕由被仰出候所ニ、罷成間しき由御請申上候由、就之、御直ニ御仕置可被仰付旨、公方様被仰出、云々 ■執筆:小野末三 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら [注] 1、[最上氏収封諸覚書] (『大日本史料・12編47』) 2、阿部酉喜夫[最上家信奉納石灯篭の銘文について] (『羽陽文化111号』昭45年) 阿部氏は、大沼浮島稲荷神社所在の二基の石灯篭に刻まれた、風化の進みつつある銘文の解読に力を注いだ。藩内抗争の最中に巻き込まれ、如何とも仕難い立場に置かれた義俊の姿を、この銘文から見ることができる。 3、[梅津政景日記] (『大日本古記録』) 4、[蜷川文書] (『山形市史・史料編1』) 5、[日暦] (『川口市史・近世資料編3』) 寒松は足利学校から芝(現川口市)の長徳寺、そして江戸へと絶えず行き来をしていた。この年の十月、数日前に江戸入りした寒松は、十五日に登城し将軍に謁見、その帰路には幕閣の酒井雅楽頭を訪ねている。寒松の江戸での日程は多用を極めていた。 6、[天英公御書写] (『大日本史料・12編44』) 7、『寛政重修諸家譜・巻八十』 8、[注6]と同じ 9、[注6]と同じ 10、[部分御旧記] (『大日本史料・12編47』) 11、[注10]に同じ 12、[細川家史料] (『大日本近世史料』) 13、[注12]に同じ 14、[注10]に同じ |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



武将兜のペパクラで御世話になっている木村社長から前田慶次郎の旗指物が寄贈されました!!
いまや伝説になりつつある二人の貴重な2ショットです!!
なぜ敵の旗を…??
おや!?これはもしや…!?
これが出現するとうれしい…
などなど…みなさん感じ方はいろいろでしょうが、敵将の旗を飾る歴史館の懐の深さをご理解いただいて、希代の傾奇者前田慶次郎の旗指物と記念撮影☆はいかがですか!?
ナニナニ(ÒへÒ)!? 木村社長!!つぎの武将兜はだれのですか??秀吉ですか!?家康ですか!?えー!!!あの有名な…
※この「大ふへん者」旗印は、慶次郎縁の地限定でノーススターズピクチャーズ社(原哲夫先生の版権管理会社)のご許可を得て、「花の慶次」の1コマより転写させていただきました。(非売品です)