最上義光歴史館
|
《平成22年度5月分の入館者アンケート集計結果》
この集計結果は平成22年5月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。 企画展示 (5/1〜5/31) 開館日数 ・・・・・・・・・・26日間 入館者数・・・・・・・・・2,931人 回答者数 ・・・・・・・・・・・53人 1.歴史館をどこで知りましたか (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・18% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・2% (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・11% (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・5% (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0% (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・14% (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・21% (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・・5% (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・16% (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7% 2.歴史館の入館は何回目ですか (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・85% (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・13% (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2% 3.ご覧になられた感想 (1)内容はいかがでしたか �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・74% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・25% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0% (2)最上義光と最上家について �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・55% �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・42% ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・0% �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�% 〜利用者の声〜 ◎解説してもらえる事を、わかりやすく案内書などで掲示してほしい。 ◎ガイドの方の説明が面白く、とても楽しむ事ができた。 ◎よく説明してもらえて大変良かった。 ◎こんなに良い資料があるのに無料なのは嬉しい。 ◎決して大きな歴史館ではありませんが、展示がわかりやすく、大切にされているのが伝わってきた。 ◎受付やボランティアの方が大変親切で、来てよかった。 ◎無料、そしてわかりやすい説明、今までに初めてだった。 ◎入場料は取るべきだと思う。「ただでもいいから見ていって」という姿勢は、むしろ歴史館の存在を安っぽくしている。今後の事を考えるなら、料金を取り資 料収集や広報等の資料の足しにすべき。知名度が上がれば、個人所有の歴史的資料が出てくる事もあると思う。 ◎「紙かぶと」「花押帳」等をチケット代わりにして入館料を取った方が良いと思う。 ◎音声ガイド貸し出しの看板を分かりやすい所に置いたほうが良いと思う。 ◎説明が楽しかった。 ◎説明してもらって大変勉強になった。最上家の事をもっと知りたいと思った。 ◎ガイドの方の話しに興味を持った。年齢等に合わせての楽しい話し方で、素晴らしいと思う。入場料を取った方が良いと思う。 ◎ボランティアの方の説明が丁寧で分かりやすかった。最上のイメージが良くなった。 ◎展示物の説明を見やすくしてほしい。 ◎時間がなく、説明を聞くことができず残念だった。もっと名前が全国に広がるように頑張ってほしい。 ◎10名のグループで来館しましたが、見学後にコーヒーを飲みながら色々な説明をしてもらえて、思い出深くなった。 ◎丁寧な説明で分かりやすく楽しませてもらった。少々疲れたと思っていたら、コーヒーを飲みながら休む事もできて良かった。 ◎説明された方が分かりやすく、丁寧に話してくれたので良かった。 ◎あまり関心がなかったけど、説明を受けて視野がひらいた感じがした。 ◎スタッフとボランティアの方々の意気込みが強く伝わってきた。 ◎案内して下さった方の説明が大変良かった。 |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【志村光安 (1)】 志村光安は、最上義光股肱の腹心として広く名を知られた存在だ。出羽の関ヶ原として有名な「長谷堂城合戦」において長谷堂城の城将として上杉軍の猛攻から城を守り抜いた名将として評価されており、「長谷堂城合戦図屏風」にもその奮戦ぶりが描かれている。また、最上義光の名代として織田信長に拝謁したとされ、ほとんどの軍記物史料において「武勇に優れ」「弁舌巧みな」功臣として光安は描かれている。しかし、志村光安の評価はそれらの事績においてのみ語られる傾向にあり、慶長出羽合戦後酒田へと転封され、三万石という大身の城主として庄内の統治に関わった形跡が見とめられるにもかかわらず、光安に対する検討は一部の市町村史において断片的になされているに留まっている。信頼のおける史料群を参照し、最上家臣団の中でいかなる立場にあったかを再評価する必要があるだろう。 志村光安の生年は、系図・法名録等がみられず不明である。しかし没年については、遊佐町の永泉寺に建立されている石塔に、「奥大日本前出羽州□□□君候 豆�搬声薜拇啓捨廟狂� 禅定門菩提□報厚恩家・・・于時慶長拾六季辛亥八月如意珠日」とあり、志村光安は慶長十六(1611)に没しているようだ。建立記年がなく、この石塔自体いつ作られたものか、またこの記述が正確なものか判然としないが、いくつかある受取状の発給記年を見る限りでは、慶長十七(1612)年より嫡子志村光惟署名のものが出現し、志村光安署名のものは途絶えている。これを考慮すれば、石塔に記されている没年はそう不確かなものでもないだろう。 そもそも光安の本貫地はどのあたりであったのか、長谷堂城主に就任する以前、どこを知行地としていたのかを語る一次史料はなく、その動向を追う上での基礎史料が軍記物史料や諸記録群となる以上その断定は難しい。『奥羽永慶軍記』を始めとした軍記物史料では、最上義光に最上家の主権が移行した比較的早い段階からその名が見えており、元々最上家の直臣衆であったことは確かなようである。また、山形市の北部、漆山地区に「志村」という地名が存在するが、元禄年間に記された『元禄郷帳』には「漆山ノ内 志村」という記載があり、江戸期にはこの地名はすでに存在していたようだ。さらに、江戸初期に成立したとみられるいくつかの書写記録には「志村館」との記載があるとされ(注1)、志村氏居館の存在をうかがわせる。その本貫地を姓とするパターンが最上家家臣の多くにみられ、また義光政権初期段階からの直臣であったことも鑑みれば、志村光安の本貫地もこの辺りであったろうか。 <続> (注1) 『最上時代 山形城下絵図』(高橋信敬 1974) 志村光安(2)へ→ |
|
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【志村光安 (2)】 前述したように、十六世紀中盤から慶長六年に酒田へ移るまでの動向を追う場合、軍記物史料に頼らざるを得ない状況にある。信頼性に制限のある史料群ではあるが、可能な限り、その動向を検討したい。まず検討したいのが、光安の名乗った官途名である。多くの軍記物史料においては、志村光安と思われる人物が「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」という二つの官途名を使用している。この二つの名前が真に同一人物の名であるのかをまず確認せねばならないだろう。 時期は下るが、書状史料における光安の官途名はどうなっているだろうか。慶長期以降の書状史料を見ると、 御書中披見、祝着之至候、・・・(中略)・・・恐惶謹言 志伊 極月八日 光安 大津助丞様 御報 (注2) とあり、志村光安が伊豆守の官職名を用いていたのは確かなようである。また、他の史料を見る限り、光安の官職名は一貫して「伊豆守」と記されている。しかしながら、光安が「九郎兵衛」と名乗っている書状史料は一通も見当たらない。それでは、軍記物史料での記述はどうであろうか。目に付くのは、『最上記』と『羽源記』の記載内容である。 『最上記』城取十郎討捕給事 去程に其頃出羽国谷地と申所に、(中略) 此も義光公聞召、 志村九郎兵衛後に号志村伊豆守使者として、最上の家の系図并白の 大鷹一居・御馬一疋、月山打長身の鑓十丁相揃進上有りけるに、… (注3) 『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事 其頃最上谷地と申す所に、城取十郎武任と申屋形あり、(中略) 家の子に志村九郎兵衛と申者、後は伊豆守とて酒田の城主となりしを 使者として、…(注4) とあり、この二つの軍記物史料においては「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物と扱って物語を記している。また、他の書軍記物史料の記述とこの二つの軍記物史料の「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」の登場場面・活動内容を見比べてみる限り、そのほとんどが合致している。よって、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一の人物「志村光安」としてとらえてよいだろう。 ただし、注意しなければならないのは、光安の嫡子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたということで、これは書状史料に明記されているから確かな事である。 殿様御遠行ニ付而、態飛脚差越候事、令祝着候、 即頓而下候時可申理間、不具候、恐々謹言、 志九郎兵衛 ニ月六日 光惟 永田勘十郎様 (注5) 同様に、『奥羽永慶軍記』においても、 『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事 羽陽田河・飽海ノ両郡ヲ、前代ヨリ庄内ト号ス、 (中略、以下庄内の支配者が列挙される) 志駄修理亮 慶長五年迄 志村伊豆守 最上ノ郎党、同十九年迄 同 九郎兵衛 同元和八年迄(注6) と、志村光惟が九郎兵衛を名乗っていた事を記している。ただし、光惟は慶長十九(1614)年に一栗兵部の手によって襲殺されており、元和八(1622)年まで城主であったとしている記事内容の信頼性は低い。ともあれ、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物とみなしてよく、またその子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたことは確かである。志村光安が史実の上で「九郎兵衛」を名乗っていたかどうか、書状史料の上からは明らかにする事はできないが、親子で官途名を継承する事例はありふれたことで、光安も、伊豆守を名乗る以前は「九郎兵衛」を名乗っていた可能性が高い。 <続> (注2) 「大津文書」十二月八日付志村光安書状(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』) (注3) 『最上記』城取十郎討捕給事(『同上』) (注4) 『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事(『同上』) (注5) 「永田文書」二月六日付志村光惟書状(『同上』) (注6) 『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事(『同上』) 志村光安(3)へ→ |
|
【成沢道忠/なりさわみちただ(どうちゅう)】 〜大剛の老侍大将〜
蔵王成沢の三蔵院に「成沢道忠公像」が大切にまつられている。 廻国修行に出る行者の旅姿で、高さ約30センチほどの小木像である。手足が破損しているのは残念だが、作りは丁寧でしっかりしている。 元亀から天正の初めごろ(1570年代初頭)、上山勢が伊達の後押しで山形に攻め込んだ柏木山合戦のとき、成沢城を守ったのが道忠であっと、物語には書かれている。 「代々の家臣である七十歳にもなる道忠を主将とし、加勢として六十を超える伊良子宗牛(家平とも)をつかわしたのは、経験ゆたかな老将で守りを固め、無駄な戦を避けようという義光公のはかりごとだ」と各種の軍記物語にある。 天正13年(1585)ごろに、義光が庄内進出を図って余目の安保氏を攻めたときには、「最上の先陣は、大剛の侍大将成沢道忠、5千余騎を引き連れて敵のたてこもる城郭に押し寄せ」(『羽源記』)とあり、老齢ながらも剛の者として知られていた。 もっとも、このときの戦いは敵方のしぶとい抵抗にあって、失敗に終わっている。 以上の記事によれば、70〜80歳にしてなお矍鑠として戦陣に立ったこととなる。 また、義光の死後つまり慶長19年(1614)以後に、道忠は行者となって故国を去り、陸奥国石田沢(塩釜市)に隠れ住んだとする言い伝えもある。 しかし、これらの記事や伝承は、年令から考えると無理な話で、あるいは、成沢氏の親子2〜3代にわたる活躍を、道忠一人のこととして、まとめて作られた可能性もありそうだ。そもそも、柏木山合戦なるもの自体、作り話らしいのである。 最上義光歴史館所蔵の『最上家中分限帳』には「一、五千石 成沢道仲」と出ているが、成沢城をあずかったとはなっていない。名乗り名字からいえば、成沢を本拠としていたと見られるわけだが、史料のうえでは、そこが今一つはっきりしない。また、最上家が改易されたころには、重臣としての成沢氏の存在は確認されなくなっている。言い伝えのように、やはりいつのころか山形を去ったのであろうか。 最上源五郎時代の『分限帳』では、成沢城主は「壱万八千石 氏家左近」となっており、成沢を苗字とする者は、中級家臣のなかに「百五十石 成沢惣内」なる人物が見えるだけだ。山形に残った一族であろうか。 これは憶測になるが、成沢家が山形を去ったのは、慶長8年(1603)の秋に勃発した政変とかかわりがあるのではあるまいか。 義光による義康の廃嫡と悲劇的な最期は、最上家内部に大きな衝撃を与えた。義康と親しかった家臣のなかには、最上領を去って新たな土地で生きる道を求めた者もあった。成沢一門も、あるいはそうしたグループに属していたのかもしれない。 成沢道忠の子孫は宮城県松島町に健在、信濃にも同族がおられて活躍の由である。 「道忠公像」は、松島の成沢家から寄進されたものである。戦国山形で活躍した人物の晩年の姿をかたどった貴重な彫像を、地元では「尊像保存会」を結成して護持している。ゆかりの成沢城跡もまた、歴史公園として整備されつつある。 ■■片桐繁雄著 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum




この集計結果は平成22年4月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。
企画展示 (4/1〜4/30)
開館日数 ・・・・・・・・・・28日間
入館者数・・・・・・・・・2,791人
回答者数 ・・・・・・・・・・・53人
1.本日は最上義光歴史館に・・・
�ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
�⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・92%
�N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8%
2.�´�の方、企画展を何で知りましたか
(1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・0%
(3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・20%
(4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・20%
(6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・60%
(7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
�△諒�、当館をどこで知りましたか
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・16%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・4%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・・8%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・2%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・18%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・18%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・29%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%
3.歴史館の入館は何回目ですか
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・83%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・11%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%
4.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか
〜常設展示〜
�‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
�△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・42%
��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・17%
�い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・2%
〜企画展示〜
�‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・33%
�△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・33%
��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・33%
�い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・0%
(2)最上義光と最上家について
�,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・38%
�△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・60%
��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・2%
�い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%
〜利用者の声〜
◎とても詳しく説明してもらえたので良かった。
◎広く一般の方々に知ってもらえるよう、分かりやすく伝えていただきたい。
◎書状などに現代語訳を付けてほしい。
◎無料は止めた方が良いと思う。
◎好きな食べ物などが分かると良かった。
◎館内をもう少し明るくしてほしい。
◎音声ガイドの�發�バラバラで戸惑うので、順番に並べてほしい。
◎大変勉強になり、楽しかった。
◎こんな立派な歴史館とは、知らなかった。
◎楽しかったので、また来たいと思う。
◎音声ガイドがあって良かった。
◎ボランティアの方の説明が良かった。
◎売店が小さいと思う。
◎音声ガイドの飛び番がどこにあるのか分からなかった。
◎駒姫の事を初めて知った。長谷堂城のことだけでなく、こんな話も世に伝えていただきたい。