最上義光歴史館
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【一華堂乗阿/いっかどうじょうあ】 〜山形に招聘された文人〜
桃山時代の山形、つまり最上義光治下の山形文化に大きくかかわった人物として、一華堂乗阿は見逃すことができない。『山形市史』は、さすがにその存在に注目しているが、その経歴や活動業績については、そう詳しくは触れられなかった。 国文学研究者によると、乗阿は桃山文芸復興期において『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』などの古典研究家として、重要な地位をしめる人物とされる。歌学者であり、和歌の達人でもある乗阿は、最上義光の古典文芸の師であり、最上一門の文化的活動の指導者だった。『遍照山光明寺由来記』に、このことがやや詳細に述べられている。 「徳川家康が伏見にいたおり、最上義光公も上京中に、一華堂乗阿上人が陣所において『源氏物語』の講義をなしたのを聴聞し、切り紙(免許状)まで伝授された。ことに歌道の名僧ゆえ、義光公が非常に信頼し、慶長8年(1603)光明寺へ招請なさった。ここで十八世住職となられたが、その期間ちゅう義光公御一門方々は、いつも連歌の会を催された。このときから、当山の住職は藤沢(神奈川県)の遊行寺(清浄光寺)から相続する定めとなった。 乗阿上人は、慶長十年京都の金光寺に入られた。元和五年七月十九日遷化、八十九歳」このように山形との関わりを記し、そのあとに、乗阿の出自・経歴や歌道における力量のほどをこまごまと紹介している。 京都で名が高まって、ついに天皇のお招きを受け、慶長10年6月16日に参内して、後陽成天皇と漢和連句の座で連ねたという。そのときの二人の句。 冷色可入竹 御製 タカユル日数夏ノ雨風 乗阿 その後、百首和歌の席で、天皇・乗阿それぞれ九首を詠み合ったとき、「秋夕」の題で「いつはあれど色なきものの身にしむは あやしき秋の夕なりけり」と乗阿が詠じたのを、「たぐいない秀作」と天皇が感銘なさったという。 そのほか、歌学の難解なことを勅問なさっても、乗阿はすぐにお答え申し上げた。 以上が『遍照山光明寺由来記』の大まかな内容である。 この由来記が執筆されたのは慶安5年(1652)で、最上家改易の30年後、乗阿没後33年のことであるから、光明寺には、十八世住職乗阿のことがまだ色あせずに伝承されていたと考えることができるだろう。 以下、小高敏郎博士の名著『近世初期文壇の研究』を参考にする。 乗阿は、甲斐源氏の正嫡、武田信虎の子であるとされるが、とすれば、高名な武田信玄晴信の異母弟になるらしい。『由来記』にもあるように、一説では赤松氏の出で、信虎の養子となったともいう。 名門武家の出であるが、8歳にして仏門に入った。藤沢遊行寺第二十九世体光上人について学び、今川氏の庇護を受けて成長。この家は、南北朝期の武人にして歌人、今川了俊につながる。駿府は当時、東海道随一の城下で、京都から文人の来訪するもの多く、室町時代の連歌師柴屋軒宗長は、ここに寄留して亡くなった。青少年時代をここで暮らした乗阿にとって、文学・歌学を吸収するに適した環境だったといえるだろう。 33歳の永禄6年ごろまでに上京し、三条西実枝の父、実条に学び、このころに連歌師里村紹巴とも親交を結んだらしい。37歳ごろには再び駿河にもどり、一華堂の住職となっていた。一華堂は、駿府(現静岡市)本丁通り、時宗、藤沢遊行寺の末寺、長善寺のこと。 「長善寺一華堂の住職は、在京のときより尊友である」と、紹巴は『富士見道記』に書いているそうである。 慶長年間になると、乗阿の名声がますます高まり、林羅山、松永貞徳のような若い学者グループとの交渉も出てくる。昭和初期刊行の『静岡市史編纂資料』には、 「慶長に入ると、伏見にて最上義光に『源氏』の切紙(免許状)を伝授したことが機縁となって、出羽から招請されたから、慶長七[ママ]年五月十二日京都をたち、近江より北陸道を下り、途中歌人連歌師としても厚遇を受け、六月出羽鶴岡[ママ]光明寺に著いた。太守の優待至れり尽せりである。紀行『道之記』一巻がある」 と書かれているという。(文中の「鶴岡」は誤り。) ちなみに『静岡市史編纂資料』には、乗阿の詠草として次の作が引いてあるという。 慶長八年の作として、 世の声もやすく明けてや今日の春 出羽下向の時遊行の会にて なかずとも帰らん道の時鳥 袖の香とめよ宿の橘 「出羽下向の時」とあるのが興味を引くが、乗阿のような大学者が山形に来て足掛け3年を暮らし、義光や一門の人たちに連歌や古典の講義を行なったというのも、文人義光の時代なればこそであろう。家老として重きをなした東根氏、里見薩摩守景佐の一家も連歌を好み、里村昌琢の指導をも受けて、紅花を土産として届けたこともある(慶長12年7月27日付、景佐あて昌琢書状)。 小高博士は独自の調査から次のように述べておられる。 「義光は文事を好み、その連歌一座の記録なども伝わる。……『道之記』は現存すると思って目下探索中だが、まだ目睹の機を得ない。」 乗阿作の『道之記』が見つかれば、当時の出羽国山形の様子が、なにかわかるのではないかと思われるが、はたしてどこにあるものか。いつか、どこかから出現するのを、大いに期待しているところである。 * * * ここまで書いていたところ、平成18年夏に山形市七日町の光明寺で、秘蔵の古文書類を拝見する機会が与えられた。そしてそこで、筆者は驚くべき僥倖に恵まれた。 一見なんの飾りもない未表具の巻物の端をめくってみたら、その第一行に『最上下向道記』(もがみげこう/みちのき)とあるのだ。読み進んでみると、小高博士のいう『道之記』に違いなかった。 さらにもう一巻、やや大振りのこれまた質素な体裁の巻物があって、見るとこれが小高博士の紹介された「当座和歌百首」写本だった。博士はこれはもはや戦災に遭って失われたのではないかと案じておられたものだった。後陽成上皇、桂離宮の主智仁親王その他、そうそうたる堂上貴顕に交じって、乗阿の作が載せられているのである。 ここでは、山形について書かれている『道記』を、簡単に紹介しておきたい。 乗阿は出羽太守最上義光の勧めに従って出羽に行こうと心を固め、慶長8年5月12日に京都を発つ。 逢坂の関で見送りの友人と別れ、船路、山路の旅となる。落馬して腰を痛めては駕籠に乗り、旅寝重ねてついに越後本庄から出羽庄内の鶴岡に着く。おりから鶴岡城は普請の最中。奉行の者は主君から前もって連絡を受けていたと見えて、行く先々の道中をいろいろと世話してくれた。舟で最上川をさかのぼって山形に近づけば、なんと美しい町だったことか。 「山形も近くなれば、つくり並べたる家々数多く、柳桜植ゑぬ門もなく、見る目かがやくばかりなれば、おぼえずして又もとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはベりぬ」 出羽五十七万石の府城山形の様子を「見る目かがやくばかり」「又もとの都のうちに帰り入るか」と思われたと賛嘆しているのである。 たぶん町に入ってからであろう。行く手の方から大勢でこちらに来る。何事かと駕籠を止めて見たら、なんと太守・最上義光公が私を迎えに来てくださったのだった。 「はるばるとさ迷い下ってきた心細さも、力がついた心地」と乗阿は書く。 光明寺に入って十八世住職となったわけだが、米穀・金銭はたっぷり、まことに暮らしやすい。最上一門、家臣たちが次々と訪問する。どうやら都で知り合った者も少なくなかったらしい。近くには西行法師が「枯れ野のすすき形見とぞみる」と詠じた藤原実方の基もある。あこやの松もある。そのうち行って見ようとしているころに、七夕になった。 ここで乗阿は七夕の節句のご挨拶として、一首を義光に差し上げる。 いでてもやあこやの松の木がくれも あらぬ今宵の星逢ひの空 義光の返歌 七夕も逢ふ夜となればしのぶかな あこやの松の木がくれにして 京都の上層知識人が伝統的に身に付けていた和歌の贈答である。素人目には、乗阿の歌もさることながら、義光の歌もまた一段と簡潔ながら情緒豊かである。 散文のなかに和歌・発句・漢詩句を散りばめた伝統的スタイルの紀行文である。短編ではあるが、乗阿の人柄がうかがわれ、連中の出来事などもさりげなく軽妙に記述されており、さすが一流文人という印象がある。 光明寺の本は写本。「一花堂乗阿自筆の本をもって、今これを書写し、光明寺の宝蔵に納め終わりぬ/元禄三年七月二十一日/光明寺二十四世/其阿量光」と漢文で巻末奥書がなされている。元禄3年は1590年、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で山寺立石寺を訪れたのは、ちょうど一年前のことだった。 乗阿の墓碑は、光明寺境内、斯波兼頼墓の参道左側に建っている。大文人の墓じるしと知る人はおそらくあまりいなかったのではあるまいか。 ■■片桐繁雄著 |
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《平成22年度2月分の入館者アンケート集計結果》
この集計結果は平成23年2月1日から同28日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。 企画展示 (2/1〜 2/28) 開館日数・・・・・・・・・・・24日間 入館者数・・・・・・・・・・1,245人 回答者数・・・・・・・・・・・232人 1.本日は最上義光歴史館に �ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・5% �⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・56% �N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・39% 2.�´�の方、企画展を何で知りましたか (1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・21% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・10% (3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・6% (4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・6% (5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・13% (6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・39% (7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・5% �△諒�、当館をどこで知りましたか (1) 旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・7% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・9% (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・15% (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・1% (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・1% (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・8% (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・17% (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・19% (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・21% (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・3% 3.歴史館の入館は何回目ですか (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・88% (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・9% (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・3% 4.ご覧になられた感想 (1)内容はいかがでしたか 常設展示 �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・46% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・40% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・10% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・5% 企画展 �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・30% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・48% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・16% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・6% (2)最上義光と最上家について �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・49% �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・49% ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・1% �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�% 〜利用者の声〜 ◎村山地方における最上家の拡大の様子(かかわり)等を知りたい。 ◎「保科正之展」をしてもらいたい。 ◎説明文が下にあり、読む時に不便だった。 ◎ボランティアの方の説明があって、よくわかった。内容が見やすく山形県の誇りを感じた。 ◎中国語のガイドがほしい。 ◎現代との結びつき(関連性)を説明してもらえれば、更に興味が深まると思う。 ◎当時の女性の使用していた日用品なども展示してほしい。 ◎企画展を増やしてほしい。 ◎新聞の記事を見て、長谷堂合戦の鳥瞰図の事を知り見に来たが、ホームページ等で合戦の様子をより詳しく紹介できるよう、行軍の様子をフラッシュで表現してほしい。 ◎新しい鳥瞰図が分かりやすくて良かった。 ◎ボランティアの説明があり、非常に分かりやすかった。 ◎滋賀に伝わった最上家のことも、最上家の流れとして展示してほしい。 ◎兜や鎧を多く展示してほしい。 ◎説明がとても分かりやすく、とても楽しかった。 ◎音声ガイドがとても聞きやすく、詳しく説明されていてとても良かった。 ◎入館料をとってもよいと思う。 ◎ボランティアの方のおかげで、最上義光の存在と人物像が分かった。帰宅したら、この地域の歴史に関する本を読んだり、友達にも薦めたいと思う。是非、大河ドラマにしてほしい。 ◎見た甲斐があった、これだけ面白い展示を無料でやっているのは凄いと思う。ガイドの方の説明もとても面白かった。山形城が復元されるのを楽しみにしている。 ◎山形城について詳しく説明してもらい良かった。義光公の兜と指揮棒が見れて感動した。ボランティアの方の説明は、とても丁寧で分かりやすかった。また今度、立ち寄りたいと思う。 ◎資料だけでは気づかない新たな知識をガイドの方に教わりました。知らずに来たが、「企画展」も面白かった。人それぞれの御宝は良いですね。 ◎現在も続いている最上家の様子が感じられて良かった。 ◎企画展について展示はしっかりしていた。しかし、展示のテーマや主旨が常設展と対比的に比べられる事で、ぼやけていると思う。 ◎ボランティアの方に丁寧に教えてもらい良くわかった。今後大河ドラマ等でもっとクローズアップされると良いと思う。 ◎市長さんの決断だそうですが、先ず無料に驚いた。スタッフの方が親切で丁寧に説明してくれたので良く分かった。 ◎以前より資料が充実してきたと思う。少しで良いから駐車場を確保してほしい。 ◎山形の基礎を築いた最上義光を山形市民が尊重し、功績を大事にしている事が素晴らしいと思う。 ◎とてもきれいに整理されていて、参考になる。ガイドブックもグッド。 ◎案内人さんの詳しい解説が大変わかりやすかった。写真用の紙の兜が良かった。 ◎無料でいろいろ見たのはすごく良かったが、歴史についてもう少し詳しくより多くの資料を展示してほしい。 ◎もう少し分かりやすい表示をしてほしい。順路が分かりにくかった。 |
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以前、歴史系イラストレーターの正子公也(まさご きみや)先生より
最上義光公を描いた作品を頂いたことをお伝えしました。 ↓その時の写真 ![]() この度、正子先生が描いた戦国武将のイラストをまとめた画集 『IAPONIA』が発行されましたが… この中に、この義光公のイラストも掲載されております!!! やったねたえちゃん! 正子先生といえば、幻想的かつ優美なタッチで、 戦国時代のみならず「三国志」や「水滸伝」の世界を 描き出してきた武将イラストの第一人者です。 独特な描写と人物解釈が非常に特徴的ですので、 歴史好きな方であれば、名前は知らずとも一度は その作品をご覧になったことがあるのではないでしょうか。 何を隠そう、このスタッフレポートを書いている 職員Hも正子先生の大ファンでございまして。 正子先生が義光公を題材にして下さったと聞いた時は、 狂喜乱舞したものでした… テンドウ ヒャクハチセイ ノ OPハ スゴカッタナア… 右手に指揮棒を持ち、左手には三十八間総覆輪筋兜を携え、 火焔を背負ったその姿は、まるで不動明王のよう。 さすが、詳細な考証にまでこだわりを見せる正子先生です。 指揮棒も兜も、細かいディテールまで再現されています。 まさに、出色の出来! 歴史館から資料提供させて頂いた甲斐があったというものです(感涙 もちろん、義光公だけではなく、綺羅星の如き人気武将達が 超☆美☆麗イラストで収録されています! 皆様も是非、戦国武将達の雄姿を目の当たりにして下さい!! 正子公也先生のオフィシャルサイトはこちら→アトリエ 正子房 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum




【六 太田備中守に仕えた小泉平内】
最上時代の分限帳に見える佐竹平内とは、この小泉平内のことなのか。この平内の家系が佐竹姓に復したことが、『佐竹家譜 元小泉』(以下、『家譜』)により分かっている。その『家譜』は、本論の冒頭に忍藩『親類書』と共に取り上げている。この二つの史料を調べ併せ、佐竹内記を棟梁とする佐竹氏一系の動静を、ある程度、掴むことができた。特に『家譜』の小泉平内を内記の五男とする記述が無ければ、内記に直接に結び付く系譜の発掘は、不可能なことであったろう。
『家譜』には平内を内記の五男とあり、これを『親類書』も五人兄弟の最後に平内を置いている。平内が小泉姓に変わった事情と時期は分からない。これが『家譜』の四代・義豊の時に、「元禄十三庚辰年二月三日、苗字佐竹と相改」とあり、佐竹姓に復したことが分かる。小泉姓は平内の養家先の名であったのかも知れぬ。平内の太田氏への仕官は何時頃であったのか。『家譜』に云う。
一 覚永年中月日不知、瑞華院様御代北見久太夫殿肝煎を以御馬廻被召出、知行百五拾石拝領候、
平内は寛永年中に瑞華院様(太田資宗)の代に召抱えられた。羽州の地を去ってから、さほど遠くない時期であったろう。平内の主となる太田氏の、譜代大名としての家臣団編成の時期は遅く、資宗が五千六百石の旗本として仕え、寛永十二年(1635)に下野山川で、初めて一万五千六百石の譜代大名となる。三年後に三万五百石にて三河西尾へ入る。太田氏の家臣団の増強から編成の時期は、この辺りから本格的に始まっていった。
平内の禄高を見ると、当初の百五十石から二度の加増を受け、二百五十石を給されている。また物頭、番頭などの役も勤め、新しい土地で中堅藩士として活躍の場を得ている。延宝年間の家臣団の禄高を見てみると、二百五十石取りは六人、上位から数えて見ると、平内は十九番目以内に入る禄を頂戴していたことになる。
平内は貞享三年(1686)十一月、田中にて没。長命であったろう。『家譜』は十代・義定の天保年間まで書き綴られている。備中守資美の明治二年(1869)二月、百二十間居城の掛川を離れ、最後の封地となる上総柴山藩に入るが、やがて廃藩を迎えることになる。明治二年の[御家中名前帳]には「五拾弐俵 佐竹平内」とあり、廃藩置県となるのはこの二年後のことである。
太田氏家臣として最後まで勤めた佐竹氏の、略歴の一部を『家譜』の内から選び出してみよう。
二代・俊政 … 天和二壬成年正月、物頭被仰付候鉄砲組御預被仰付候、
三代・頼俊 … 元禄十丁丑年七月、亡跡式御大法之通式百石拝領候、御馬廻被仰付候、
四代・義豊 … 元文二閏十一月、物頭被仰付土肥弥門跡弓組御預被仰付候、
五代・義陳 … 宝暦八戊寅年四月、御側御用人兼役被仰付候、
六代・義著 … 天明二寅年正月、父家督無相違百八拾石拝領候、
七代・義命 … 寛政四壬子年十一月、格式大目付被成下、小納戸勤被仰付候、
八代・義利 … 文化二乙丑年八月、亡父跡式弐百三拾石無相違拝領候、
九代・義方 … 天保元庚寅年七月、大坂表引越被仰付候、
十代・義定 … 天保六乙未年七月、亡父跡式御大法之通、七拾石拝領候、
話しは少し戻るが、忍藩の『親類書』に「伯母婿 小川十郎左衛門」とあり、それに「北見久大夫殿家来」の加筆がある。この北見氏とは、『家譜』から平内の召抱えの際の「肝煎」を勤めていたことが分かり、伯母婿の小川氏も、平内と行動を供にしてきて、北見氏に陪臣として仕えたのであろう。
■執筆:小野末三
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