最上義光歴史館
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《平成23年度1月分の入館者アンケート集計結果》
この集計結果は平成24年1月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。 企画展 「よみがえる山形城」 (1/1〜1/9) 企画展 「市民の宝モノ2010」 (1/11〜1/31) 開館日数・・・・・・・・・・・24日間 入館者数・・・・・・・・・・・628人 回答者数・・・・・・・・・・・101人 1.本日は最上義光歴史館に �ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・6% �⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・60% �N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・34% 2.�´�の方、企画展を何で知りましたか (1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・18% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・15% (3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・3% (4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・3% (5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・8% (6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・50% (7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・5% �△諒�、当館をどこで知りましたか (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・10% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・13% (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・8% (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・2% (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・0% (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・3% (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・20% (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・21% (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・20% (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・3% 3.歴史館の入館は何回目ですか (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・77% (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・12% (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・11% 4.ご覧になられた感想 (1)内容はいかがでしたか 常設展示 �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・45% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・44% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・11% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・0% 企画展 �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・28% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・48% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・25% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・0% (2)最上義光と最上家について �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・38% �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・58% ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・1% �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�% 〜利用者の声〜 ◎展示品を増やした方が良いと思う。 ◎広くはない展示室に、細かく資料が展示してあり大変面白かった。またゆっくり来たい。 ◎お金、入館料をとっても良いと思う。 ◎展示の拡充をしてほしい。もっと見たい、知りたい。 ◎最上義光についてあまり知りませんでしたが、ガイドさんの説明で知る事が出来て楽しかった。 ◎ボランティアガイドの方の説明が素晴らしかった。 ◎ガイドボランティアの方の説明もあり、お城と町の関係、最上義光や最上家のことが分かった。系譜から出来事、武具の由来まで非常に明確だった。ガイドボランティアをぜひ継続してほしい。 ◎時々企画展を開催してほしい。 ◎新しい資料もあったが、これからも様々な資料が増えると嬉しい。 ◎入館料を200円位とっても良い内容だと思った。 ◎案内の方にわかりやすく説明してもらったので、勉強になった。入館料が無料になったので、利用しやすくなった。 ◎頑張って続けてほしい。 ◎刀剣類もあればbetter。 ◎時間が無いため説明を読み切れない。概要をまとめた説明があると良い。 ◎大きい文字で説明文を展示してほしい。 ◎何度来ても良い。 ◎係りの方にとても詳しく説明してもらい良かった。 ◎山形=上杉かと思っていたので最上を知らなかった。家に帰ってインターネットでみてみようと思う。 ◎テレビ等で知った話しと違う部分があると分かった。 ◎ボランティアガイドの方に、よく説明してもらいありがたかった。楽しい思い出が沢山できた。もっと歴史を勉強したいと思う。 ◎大変すばらしい展示で感心した。 |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【氏家守棟 (1)】 本稿では、書状史料や諸記録類を中心とした史料群を拠り所とし、氏家守棟に関して検討を試みたい。氏家氏は、十五世紀には既に最上家の中で高位の家臣であったことが史料から読み取れ、十六世紀中盤段階に至って氏家尾張守守棟(うじいえ おわりのかみ もりむね)が氏家の名跡を継いだ後も最上義光の腹心として活躍し、最上家の勢力拡大に大きく寄与したことは間違いない。軍記物史料においては、「時ノ執事氏家尾張守、元来忠アリテ義アリ、謀ハ楠カ肝肺ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也、」と智謀の士として評され義光一の家臣として最も登場機会の多い家臣であるが、それにとらわれ現在に至るまで一次史料を用いた詳細な動向検討はあまりなされていない現状にある。最上家が勢力を伸張させる段階において最上家臣団に与えた影響は小さかろうはずはなく、最上氏の成長段階における家臣統制を探る上で大きな指標となる人物といえるだろう。 氏家氏に関する先行研究は、『山形市史 原始・古代・中世編』において、氏家氏が斯波兼頼に随行して出羽へ入部し、兼頼の代官として活躍した氏家道誠を祖としていることを検討したのが、最も早い段階の部類に入る先行研究であろうか。その他『天童市史』に天童と氏家氏の関係が記されており、『最上義光分限帳』に氏家の在地が天童であるとの記述があるが、氏家が天童城を居城とした事実は無かろう、と結論付けているに止まっている。また、『山形の歴史』『山形市史』では氏家守棟を成沢道忠の子としているが、近年の研究(注1・注2)、では守棟の嫡子が成沢家より入嗣したとしている。家系については、陸奥大崎氏家臣氏家氏との関係を考察した論考(注3)も存在する。 〈続〉 (注1) 『戦国大名家臣団辞典』(新人物往来社 1981) (注2) 『羽州最上家旧臣達の系譜 ―再仕官への道程―』(小野末三 最上義光歴史館 1998) (注3) 「大崎執事「氏家」氏の系譜について」(石田悦男『六軒丁中世史』 大石直正先生還暦祝賀実行委員会 1991) 氏家守棟(2)へ→ |
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【氏家守棟 (2)】 そもそも、氏家家はどのようにして出羽へ入り、最上家の重臣となったのであろうか。暦応二年三月廿日発給の「氏家十郎入道注進状案」(注4)には、斯波兼頼が奥羽に下向した際、若年であった兼頼を代官として補佐したのが氏家入道道誠であるという。また、「成沢系図」には、道誠の三男で重邦の弟に重直という者がおり、その子孫が最上の執事を世襲したと記している。「注進状」は、年号の記述に整合性が取れていない点があり、また「系図」は該当する記述を補強する史料に乏しく、内容をそのまま採ることは危険である。しかしながら、氏家道誠は建武四年正月廿七日付(注5)で相馬胤頼へ対し軍勢を催促していることや、同年二月五日付書状(注6)で武石四郎左衛門へ対し亘理郡の知行地に関わる事案を差配している事から見ても、この時期氏家道誠は奥州へ下向し、斯波氏の代官として実務を遂行している形跡が明確である。以上の状況を勘案すれば、最上氏に仕えた氏家氏は氏家道誠一族の子孫と捉えてよいだろう。 それ以降、十四世紀半ばから享禄年間までの約百八十年間、氏家氏の動向は詳らかでない。ただ寛正六(1465)年から文明十八(1486)年までの武家方記録である『蜷川親元記』にその名が登場するのみである。寛正六年五月十二日条(注7)に「羽州探題内、氏家伊予守宗政、漆十五盃進之」とあり、十五世紀中盤段階においても最上家内で有力家臣としての位置を維持している事が見える。その後しばらく史料の上から氏家氏の動向を探る事は難しいが、元禄十五(1702)年に成立した『伊達正統世次考』天文十二(1543)年九月十二日条(注8)に伊達稙宗が、長谷倉(支倉)氏に対して氏家と綿密に打合わせて対処せよと申し送った記述に「氏家越山来。緊切兵儀最可然。」とあって、氏家が笹谷を超えて出陣した様子が描かれている。またその注釈に「今按、氏家者最上宿老氏家伊予某也。非大崎岩手山氏家也。」とあり、既にこの時期近隣の勢力から「氏家は最上の宿老である」と認識され、また実際に主君である最上義守から最上家の軍事・外交面で主要な役割を任せられる状況が多かったと考えられる。 天文十三(1544)年四月七日条(注9)にも「最上修理大夫義守贈書…余諸自氏家伊予守可申送之。」と稙宗が石母田に入り、勝利した事を祝する内容の書状を最上義守が発給したのに伴って氏家も添状を発給したかのような記述も見える。さらに天文十五(1546)年六月七日条(注10)にも「特承義守為自代、差遣氏家伊予守谷柏相模守。」と、この伊達家内乱において稙宗派であった上郡山常陸介景軽所領羽州小国に最上義守が軍を差し向け、名代として氏家伊予・谷柏相模両名が赴いたとの記述が見られる。 最上家の重鎮として活躍した氏家伊予守は、最上義守が伊達家家老牧野弾正忠へ宛てた元亀元(1570)年五月十五日付書状(注11)の中で、「さてヽヽ此口之儀者、氏家存命不定之刻及候条、閣諸事之不足、親子令和与候」と病床にありながらも義守・義光親子の関係修復を仲介しており、天文十五年段階から引き続いて宿老的ポジションを維持し、主君の後嗣問題に関して仲介を為せる発言力を有していたことが注目される。しかしこれ以降史料上に氏家伊予守の名は確認されず、恐らくこの頃に没したのだろう。 〈続〉 (注4) 「相馬文書」暦応二年三月廿日付氏家道誠注進状案(『山形県史』古代中世資料1) (注5) 「同」建武四年正月廿七日付氏家道誠軍勢催促状(『同』) (注6) 「同」建武四年二月五日付氏家道誠施行状案(『同』) (注7) 『蜷川親元記』(『山形県史』古代中世資料2) (注8) 『伊達正統世次考』(『同』) (注9) 『同』(『同』) (注10) 『同』(『同』) (注11) 「伊達家文書」元亀元年五月十五日付最上義守書状(『山形市史』史料編1最上氏関係資料) 氏家守棟(3)へ→ |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum




【二 最上家の江戸屋敷】
家康が天下の覇権を握り、幕府開設の慶長八年(1603)の頃には、天下の諸大名の集まる江戸屋敷も、急速に整えられてきたようだ。現存する当時の[慶長江戸絵図][注1]から、その「添書」を見ると、同十一年の江戸築城に関わった大名達へ、屋敷地を与えた時に与えた絵図であると書かれている。そこに区分された大名や旗本達の屋敷名があるが、これらの殆どは、未だ屋敷地のまゝの状態であったと考えられる。
最上家の位置を探って見よう。皇居の大手門から北東二百数十メートルの地点、地下鉄千代田線大手町駅と半蔵門線の交差地点の上部位置にある。最上家の占める一角には、親藩・譜代の者達が占めており、その中に外様の最上義光の名がある。
『山形市史』などを見ると、すでに二ケ所の下屋敷があったとしているが、慶長の頃は浅草川(隅田川)を挟み以東は府外(下総)であり、明暦三年(1657)の江戸大火の後の万治二年(1659)に両国橋が架けられ、本所築地奉行が置かれ御府内朱印内に編入されたのは享保四年(1719)である。慶長の頃の本所周辺は町方共に手付かずの地であり、義光存命の頃には、本所には未だ屋敷は無かった。
また、柳原河岸(現台東区浅草一、中央線浅草橋駅付近)にあった屋敷は、元和八年(1622)の最上家改易後の源五郎義俊が、大手町の屋敷を没収され柳原の屋敷へ移ったことは、寛永初期の[武州豊嶋郡江戸庄図][注2]と『細川家史料』から、屋敷替えの事実を知ることができる。思うにこの柳原の屋敷は、天正十八年(1590)に徳川家の証人となった義光の次男の家親の屋敷であったのかも知れぬ。それは大手前に屋敷を持つことになるまでは、憶測ではあるが最上家の拠点であったのかも知れぬ。
この時期の隣国の伊達家屋敷についての認識は、政宗が家康より屋敷を与えられたのは慶長六年(1601)十月、「江戸屋敷、桜田・愛宕ノ下・芝四個所共ニ此年一度ニ拝領シ玉フヤ、様子不知」[注3]としており、伊達家にしても、慶長の頃の江戸屋敷についての認識は稀薄であった。
また、[慶長江戸絵図][注4]に見る大名達への賜邸(屋敷地)については、「関ヶ原後、慶長六、七年頃ヨリ八、九年乃至十年頃ニ亘リ、全国ノ大小名コトゴトク邸宅ヲ江戸ニ開ク、之ガ為メ城下ハ俄カニ弘拡セラレ……」とあり、さらに各大名達への賜邸年代、場所別の区分では、義光へは慶長九年(1604)の賜邸としている。
小倉藩主細川忠興が嗣子の忠利に宛てた、同九年二月九日付の書状がある。
各其地ニ屋敷拝領被申付候由、我等ニも申請可然由承候、六、七番目ニ可申請候間、可被得其意候、是又口上ニ申候、具隼人・左馬所より可申候、 恐惶謹言[注5]
忠興は、細川家にも屋敷地を与えられ、それが六、七番目になるだろうといっている。絵図の最上屋敷の区画の一辺を六十間としているので、凡そ三千六百坪の広さであったろうかと思われる。この時期は江戸市街地の造成も満足に進んでおらず、厳密に譜代・外様の区別もなく、地割りも必ずしも禄高と広さとは一致しておらず、最上家にしても江戸城に近接して、親藩・譜代の大名達と肩を並べた位置にある。これは、開発初期のこと故に、ある程度は先着順に屋敷地を与えられたともいっている。
この大手前に構えた屋敷こそが、義光の江戸での活躍の拠点として、その機能を発した場であったのであろう。しかし、その期間は意に反して永くは続かず、その死から九年足らずして、最上家はこの屋敷を去らなければならなかった。
■執筆:小野末三
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[注]
1、[慶長江戸絵図](『東京市史稿・皇城篇』)
添え書きに「慶長十一丙午年江戸御城立、此図者江戸御城建大名并御旗本江、屋敷地被下候節之図面」とある。
2、[武州豊嶋郡江戸庄図]
寛永九年当時のこの絵図には、大手前の最上屋敷には鳥居家が入っている。柳原の屋敷には最上源五郎が入っている。
3、『貞山公治家記録・巻之二十一』
4、[慶長江戸絵図](『東京市史稀・皇城篇』)
大手前付近には、河中島少将(松平忠輝)・青山伯耆・山形出羽守・酒井河内守・土井大炊頭・板倉周防守などがいる。慶長十七年五月、「上総介(忠輝)江戸屋敷夜半焼亡、家不残、但、他所不及類火」と、隣家の松平屋敷が火災を起こしたが、周囲には類を及ばすことなく、最上屋敷は延焼しなかったようだ。
5、「細川家史料」(『大日本近世史料』)