最上義光歴史館

 《平成23年度2月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成24年2月1日から同29日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

          企画展 (2/1〜2/29)

      開館日数・・・・・・・・・・・25日間
      入館者数・・・・・・・・・・・747人
      回答者数・・・・・・・・・・・101人

 1.本日は最上義光歴史館に

  �ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・3%
  �⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・58%
  �N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・39%

 2.�´�の方、企画展を何で知りましたか
  
  (1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・24%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・20%
  (3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・0%
  (4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・0%
  (5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・12%
  (6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・41%
  (7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・2%

  �△諒�、当館をどこで知りましたか

  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・12%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・9%
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・14%
  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・4%
  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・0%
  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・7%
  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・11%
  (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・18%
  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・19%
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・7%

 3.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・97%
  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・1%
  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・2%

 4.ご覧になられた感想
 
  (1)内容はいかがでしたか
  
  常設展示

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・35%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・49%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・16%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・0%

  企画展

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・32%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・51%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・17%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・0%


 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・37%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・57%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・4%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 〜利用者の声〜

◎質問に答えて下さる方がいたので、理解が深まり面白く感じた。

◎同伴した父には、「字が暗くて読みづらい」とのことだった。最上家臣団の詳細
についてもう少し知りたい。

◎説明が良かった。指揮棒を実際に持つことが出来て、良い思い出になった。

◎無料でこのような展示、大変楽しく良かった。

◎書物が多いので暗いと見にくいのでLEDにしたら良いと思う。

◎NHK大河ドラマ化してもらいたい。

◎指揮棒や兜を直に見る事ができて良かった。ガイドさんの説明が丁寧で分りやすかった。大河ドラマや歴史ゲームなどで悪いイメージがあったが、実際はとても人間味のある殿様だという事を改めて理解した。義光公の良いイメージが全国でも、もっと広まってほしい。

◎義光の歴史について分かったが、もっと詳しく展示してもらいたい。

◎ボランティアガイドの案内が良かった。

◎保護、継続を望む。

◎最上義光に興味を持っていたので、十分知識を得ることができた。

◎安綱の鬼切丸の由来を知って良かった。

◎無料でありがたい。

◎出来れば写真を撮りたかった。

◎良い展示だったと思う。

◎今度娘を連れて来たい。

◎案内人の説明が大変良かった。

◎展示の仕方がとても面白い。屏風のところとか、人物を探したりと楽しめた。

◎これだけ立派な設備等で無料なのは感激。もう少しPRしても良いと思う。

◎解説してもらい、展示をより楽しく見る事ができた。

◎山形をはじめ米沢や仙台の歴史にふれることができて、とても楽しかった。

◎刀が見たい。

◎昭和4年卒業存積を見て、山形市民の思い入れの深さを感じた。

◎詳しく説明してもらい、最上家の事がわかった。

◎上杉家のことはテレビ(時代劇)などで、何となく知っていたが、最上義光は直江兼続が戦った相手というくらいにしか認識がなかったため、とても興味深く拝見し
た。最上義光についてもっともっと知りたくなった。

◎面白かった。素晴らしい歴史を大事にしてほしい。
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(6)】


 上山城に関わる記述の他にも、軍記史料によれば、氏家は様々な献策を義光に対し行っているとされる。

・『奥羽永慶軍記』羽州天童合戦ノ事
  (前略)其後氏江尾張守、義光ニ申ケルハ、臣ツラヽヽ愚慮ヲ巡ラスニ、
   何トモシテ延沢ヲ味方トナサスハ、天童ノ城落ル事ヨモアラシ、
   幸爰ニ姫君御一所オハシマス、延沢ノ嫡子又五郎ニ縁ヲ結ビ給ハヽ、
   能登守ハヨシミニ依テ味方ニ参ル事モヤ候ハン、
   試ニ使者ヲ以テ申遣ハサンヤト申ケレハ、(後略)

 と、義光に延沢満延を懐柔する案を持ちかけている。事実、延沢の嫡子又五郎には義光の長女松尾姫が嫁したため義光方に転じ、天童落城の原因の一端となるのであるが、実際に氏家尾張守がこの策を立案したかどうかは一次史料の裏付けがなく判然としない。

 なお、慶長末頃の家臣団編成を表したとされる「最上義光分限帳」では、氏家左近が「氏家天童」と肩書きされており、氏家氏は一時期天童城を預かっていたようだ。天童の愛宕神社には、慶長十四年に氏家光氏が奉納した石灯籠が現存しており、氏家氏と天童の繋がりの深さをうかがわせる。

 また、『山形県史』によれば、天童落城の直後は城主が置かれなかったようで、天童領は延沢預かりの蔵入地となったとしている。しかし、前述した史料�靴鮖仮箸垢觚造蠅任蓮�義光は山家九郎二郎に対して「天童領分」の「温津成生」のうち七千束を宛行っていることが確認される。どうやら、天童氏の領分全てが蔵入地となったわけではないようだ。

 最上義光が白鳥十郎を謀殺した際にも、義光と守棟が念入りに相談して策を練っている様子が描写されている。

・『奥羽永慶軍記』白鳥十郎被討事
  (前略)氏江承リ義光ニ申ケルハ、(中略)白鳥稚姫ヲ持給フト承ル、
   是ヲ御嫡子義安公ニ御縁ヲ結ハセ給ヒ、其後白鳥心トケ油断ノ所ヲ、
   是へタハカリ寄、討候ハンニハ子細候マシト申ケル(中略)
   氏江尾張守承リ義光ニ申ケルハ、夫ハ頗御大事ニテコソ候ラヘ、
   某謀ヲ以テ是へ安々ト招クヘシ、(後略)

 これも、その他の記述と同様に一次史料の裏付けがなく史実であるかは断定できない。しかしながら、当時すでに氏家守棟は義光の側近としての地位を確立していたと推察できる事から、最上家が関与した軍事・外交活動に深く関与している事は間違いないだろう。
〈続〉

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(7)】


 天正九(1581)年時点に至り、書状史料の上で氏家尾張守の動向が明確化する。
 義光は、北進政策の一環として鮭延城主の鮭延秀綱を攻め、降伏させている。

   史料�検‥契偽綰�五月二日付 最上義光書状(注19)
    鮭延就致我侭、氏家尾張守為代職指遣、及進陣候キ、
    其方事別而無曲之旨不存候處、真室へ同心之事如何ニ令存候處、
    今度罷出被致奉公、於予祝着に存候、依之態計我々着候着物並
    袴指越候、一儀迄候、將又為祝儀此元へ可被登候段可被存候歟、
    返々無用候、彼袴被為着、細々氏尾所へ被罷越可然候、
    万々期後音之時候間、早々、恐々謹言、
      天正九
        五月二日   義光(鼎形黒影印)
       庭月殿

 この書状から読み取れるように、氏家守棟は、義光の「代職」となり攻略軍の総大将として出陣しているようである。この書状の宛先である「庭月殿」は鮭延城にほど近い庭月城主で、秀綱にかなり近い立場にあった人物と見られるが、「今度罷出被致奉公」と義光への転向を決めたようだ。このように、最上軍は調略により村山郡(現在の最上地方)国人領主の連携を切り崩して秀綱を孤立させていったと考えられるが、「細々氏尾所へ被罷越可然候」とあることから、庭月氏に限らず、義光に降伏した村山国人は、守棟の陣所に参集していたのだろう。守棟が、村山国人と連携して鮭延秀綱を追い詰めていく様子が想像される。

 鮭延秀綱の降伏により、村山郡を領国化することに成功した最上義光だったが、翌天正十(1582)年には庄内と村山の境で、大宝寺武藤氏との抗争が発生したようである。同年三月、義光は鮭延秀綱への援軍として庭月城主の庭月和泉守へ出陣を求めている(注20)が、そのような情勢の中、氏家尾張守は真室一帯の「代官」としての職務に就いていた。

   史料�后 ̄�月十日付 最上義光書状(注21)
    今般鮭延為代官、氏家尾張守相下候、依之自御正印之來札、
    喜悦令存候、彼地之事少敵之儀候間、無幾程可勝手意事眼前候、
    爰元無心元有間敷候、右細事氏家尾張守委細可申越候条、
    不能詳候、心事期後音許候、恐々謹言、
     追而、早速一左右ニあつかり候、悦喜此事候、以上、
      卯月十日  義光(鼎形黒印)
       和田美作守殿

 ここにおいて、氏家が任じられた「代官」の持つ意味合いを少し検討したい。
〈続〉

(注19) 『山形県史 古代中世史料1』
    楓軒文書纂所集文書所収 天正九年五月二日付最上義光書状
(注20) 『山形県史 古代中世史料1』
    楓軒文書纂所集文書所収 三月廿二日付最上義光書状
(注21) 『山形県史 古代中世史料1』
    安部文書所収 卯月十日付最上義光書状


氏家守棟(8)へ→
関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【三 幕府開設の頃】

 慶長八年(1603)三月廿一日、徳川家康は将軍宣下御礼のため上洛[注1]、征夷大将軍に任ぜられる。この時の参内行列の中からは、義光の姿は見出だせないが、公家の日記などにも「神君征夷大将軍宣下之刻三月伏見へ参上」とあり、義光も家康の上洛に付随していたことが分かる。伊達政宗も正月から在府しており、江戸にいた嗣子忠宗も、伏見にて家康に御目見を果たしている。上杉景勝は米沢に在り、この二月から江戸桜田屋敷の普請が始まっている。
 この家康の将軍宣下に係る一連の行事の中で、公家・諸大名達を二条城に招き、能楽を饗したのは四月四日のことで、そこには義光の姿もあった。

四月四日庚寅、霙、八時分雨、殿中御能有之間、冷同道、早朝ニ参了、辰下刻、先朝有之、事済々事也、次大樹(家康)御出座、次相伴衆各被参了、……出羽侍従、最上…(欠字)等、下之段足付也、[注2]

 そして、家康が京・大坂での行事を済ませ、伏見を発し江戸へ向かったのは十月十八日である。義光の四月以降の行動については定かではないが、この年の八月に国元で起きた嫡子義康暗殺事件に、注目せねばならないだろう。義光のこの時期は国元に在ったであろう。
 『筆濃餘理』などに、義光が庄内の狩川館主の北館兵部に宛てた書状がある。
 
近日庄内へ下向間、其本之路次中宿等之儀、無油断可申付候、日限之事重而申遣候、恐々謹言
 六月十日   義光(花押)
  北館兵部少輔とのへ
  同 大学とのへ
 
 この書状は、義光の庄内下向の日時と警護の打合わせに関わるもので、これは鶴岡城普請に際しの義光の鶴岡入りとして、慶長八年(1603)頃ではとしているので、これが事実とすれば、義康暗殺事件に極めて近接した時期であったろう。翌九年八月、松前藩が幕府へ鷹献上に際し、その通行手段としての駅伝の朱印を受理している。その際に経路の諸大名に宿泊や餌などの便宜を計るべく「奉書[注3]」授けている。その大名の中に義光の名
が見えることから、義光の在府していることが分かる。
 また徳川家に近侍の次男の家親は、秀忠の嫡子竹千代(家光)の三七夜の席に招かれているのも、この八月のことであり、家親を通して徳川家との親密さの一端を伺うことができる。
 慶長十年(1695)四月、家康は将軍職を秀忠に譲る。秀忠は将軍宣下を受けるため上洛、二十六日の参内行列の武者達の中に義光の姿もあった[注4]。この年の正月末は暖気、二月三月旬共寒、中でも十二、二十三日比打つつき、三度大霜、草木為之凋、というような極めて不順な天候の中での上洛であった。その行列を覗くと四番手の位置に義光の姿があった。そして、秀忠の新将軍としての上方での諸行事を済ませ、上洛した諸大名達に暇を与え帰国を許したのは、五月十一日のことである[注5]。
 このように、東北の大名達も帰国を許される中で、義光の京を離れたのはいつ頃であったろうか。在京中の三月二十二日と翌月の二十四日に、義光は公家の舟橋秀賢の来訪を受けている。秀賢は明経家学の継承者として、当時の天皇・公家を始め多くの武家衆とも交遊を持ち、家康とは役儀のみならず頻繁に交遊を重ねていた。連歌の素養もあり、禁中、公家間での連会などにも度々顔を見せている。義光との出会いについても、その日記『慶長日件録[注6]』に詳しい記述がある。この日記から、義光が連歌や書を通し、公家との交遊関係の一端を知ることができよう。そして、京での私的な面での日々を持ちながら、帰国の途に就いたのはいつ頃であったろうか。この年の五月十二日、下対馬守と志村伊豆守を従え、金峯権現に参拝したというから、それまでには帰国したものと思われる。
 併せて、この秀忠の上洛には家親も付随している。そして、従五位下・侍従に叙任したのはこの時である。これは秀忠の将軍就任に伴うもので、池田・前田・細川・最上という、関ケ原戦で積極的な働きを見せた大名家に限り、いわば功賞のひとつであった。
■執筆:小野末三

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[注] 
1、「義演准后日記」(『大日本史料』12編之l)
三月廿一日晴、今日、将軍家康上洛、帰路見物驚目了、来廿五日、将軍宣下御礼ノ参内、
2、「言経卿記」(『大日本史料』12編之l)
3、「松前文書」(『大日本史料』12編之2)
4、『寛政重修諸家譜』
十年台徳院殿御上洛に供奉し、四月二十六日将軍宣下の拝賀として、御参内の時も扈従す、
 「慶長十年御参内行列記」(『大日本史料』12編之3)
盛大な行列の最後尾の八番・塗輿之衆の中に、伊達、秋田氏などの中に、最上侍従の名がある。
5、『当代記・巻三』
此比今度上洛之関東衆、依将軍仰、先立手思々下国、十五日、将軍家関東下向、
6、「慶長日件録」(『史料纂集』)
廿二日、伏見へ右幕下御見廻ニ行、御対面也、次右府(家康)公へ参、御対面有御振舞、次最上殿(義光)へ行……廿四日……午刻御取置ニ参内、次大樹へ参、次最上義光へ行、有晩喰、古今古本被見之、
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(8)】


 天正九(1581)年のなかごろ、鮭延秀綱の帰順によって村山郡一円は最上氏の領国となった。当時の最上地方は、清水(現在の大蔵村)に清水氏、小国(現在の向町)に細川氏、新庄に日野氏そして真室に鮭延氏が割拠し、それぞれに勢を張っていた。加えて、東に大崎氏、北に小野寺氏、西に大宝寺武藤氏という大勢力が控え、最上地方の情勢は極めて不安定だったといえるだろう。このような状況下で、鮭延氏を帰順させた後も同地に留まり「代官」として最上義光の名代を務めた氏家守棟は、同地を統治するにあたりいかなる権限を義光から付与されていたのだろうか。
 
 検討に入る前に、最上義光が抵抗勢力を攻略し、最上氏領国とする時に取った過程を簡単に把握したい。なお、ここでいう「領国化」は、義光が蔵入地として直轄統治するか、もしくは在地勢力の所領を安堵して広義の軍役を課した状態と定義する。

 義光が家中の内訌を制して、対外的な軍事活動を本格化させるのは天正五年の天童氏攻めである。天童城はすぐには落ちなかったようで、義光は天童頼貞の娘を側室として迎え、天童氏と和睦した。和睦により天童八楯との関係を一時安定化させたことから、北進戦略を選択することが可能となった義光は、天正九年頃には村山郡(現在の最上地方)の攻略に着手している。まず小国城の細川直元を攻めた最上勢はこれを破り、滅亡させたという(注22)。細川氏がいかなる人物であったかを示す史料は伝わっていないが、天童氏の姻戚だったようで、天童氏の影響力を背景に小国一帯を支配していた在地領主であろう。その後の小国城主の座は蔵増安房守に与えられ、その後蔵増氏は小国姓を名乗った。

 天正十(1582)年に至ると、天童夫人が死去したため、天童氏との和睦が自然消滅する状態となった。義光は天童氏を中心とする国人連合の切り崩しを企図して、延沢満延の嫡子又五郎に息女を嫁がせ、延沢氏を最上家勢力に取り込んでいった。連合からの延沢氏離脱を契機に、義光は天童方についた諸国人を攻略していく。東根城主の東根頼景は天童頼久の実弟であったが、家臣里見源右衛門が義光に内通し、最上勢を手引きして東根城を急襲し、頼景を襲殺した。その後東根城は里見源右衛門に与えられたが、東根氏の所領はそのまま源右衛門へ安堵されたようである(注23)。天正十二(1584)年には天童城も落城していた模様で、天童頼久は国分氏を頼って落ち延びた。その後、天童城には城将を置かず、延沢氏の預りになったという(注24)。天童氏の旧領は、最上家の蔵入地と、家臣の知行地が混在した状態になっていたと推測される。
〈続〉

(注22)『奥羽永慶軍記』(山形市史 史料編1 最上氏関係史料)
(注23)「最上義光分限帳」(同上)
(注24)『山形県史 1』


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