最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼「新発見の最上義光文書について」 鈴木 勲
新発見の最上義光文書について
令和三年一月二十七日のこと、五十嵐義一氏が川野博資氏と共に、文書本体とその写が入った蒔絵の箱を持参して、来訪された。
早速文書を開くと、所々に破損が見られるものの正しく義光の判物で、懇意の美術商から入手したとのことであった。
今後の取扱いについては一任するとの五十嵐氏の意を受けて、文書について研究すると共に、取り敢えず裏打ちを施して文書の修復・保護を図ることにした。
ちなみに、五十嵐氏は現在、西村山地域史研究会理事、朝日町文化財保護審議会長、同町教育委員として活躍され、歴史文化資史料については、極めて造詣の深い収集研究者である。川野氏はこの五十嵐氏や筆者との調査研究同人であり、頼りがいのある仲間である。
文書についての考察の結果、義光に関する貴重な新史料であることが判明し、裏打ちも一応の見通しが立った二月二十六日(金)、山形新聞に『最古の義光「宛行状」、貴重な史料「研究に期待」、一五七二年に家臣へ、五十嵐さん(朝日)入手』との見出しで掲載されることになった。
私たちは、この新史料を「五十嵐義一氏(朝日町玉ノ井)収集・所蔵史料、最上義光宛行状」と呼ぶことにした。
その写真と一応の読みを示せば、下記の如くになる。
[画像]
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以下、若干の考察を加えてみよう。
・紛れもない最上義光の本物で最初の宛行状であること。
・永禄十三年(一五七〇)立石寺宛最上義光願文(言上状)に続く、二通目のA型花押(武田喜八郎氏の分類『山形市史・最上氏関係史料』による)であり、A型花押を据えた義光文書は極めて少ないこと(松尾剛次氏は一一例、安部俊治氏は一二例とする)。
・元亀三年(一五七二)最上義光宛行状はこれまで一点、秋田藩家蔵文書の影写本が知られている。写としてもそれは極めて重要で、義光の家督相続段階の領国支配や家臣団形成を知るうえで欠くことのできない史料として活用されてきた。しかし現在、この写しの実物は失われたとされていること。
・これまで立石寺願文(言上状と言う人もいる)に続いてこの影写本の花押が、A型花押の典型であり自筆として扱われて、花押の変遷が論ぜられてきた。しかし、この義光宛行状が発見されたことにより、自筆か版刻か、その変化の年代、したがって支配体制の形成段階に再考を促すことになったこと。
・元亀三年に最上義光が、こうした宛行状を多数発給したに違いないことは、これまでも予想されていたが、それが実証されたこと。しかも三月十七日と同月日であり、その日に特別な意味があることも予想されるに至ったこと。
・内容は、六槲之内の、槲はかしわ又はくぬぎのことであり、現在の六椹八幡宮並びに六椹観音堂界隈にその名残を留めていること。同宮は従来旧吹張(現幸町)にあったが、山形城三の丸の拡張整備に伴い現在地(八日町二丁目)に移築されたとされている。東原は現在の東原近辺と考えられるが、東原の地名も室町以前に遡ることになった。
このことから、戦国期の山形城は如何なるものであったか、六椹や吹張・東原の辺りは如何なる様子であったか、明らかにする必要が一層高まってきたこと。
ただ、六椹八幡の神主八郎(神保氏)については、天正九(一五八一)義光が二五〇刈を宛行っていたことが知られている(専称寺文書)。この場合、八束で一刈とされていたが、なぜ「山辺南分之内」なのか、もう一つ明確ではない。
・六槲之内(田)一、五五〇刈に、東原畠地二〇〇(文)地を相添える。成敗致す可く候者也、とあることから、宛行われた田は約一町五反五畝、畠は約二反と一応しておく。(上杉氏は田一〇〇刈を一反、北条氏は畑一反を一五〇〜二〇〇文としていた)、問題は「相添候」である。これまでの研究では「加増」と解釈されており、家督相続以前からの家臣に、相続するに当たり加増したとされてきた。しかし、本貫の田一、五五〇刈に東原の畠地二〇〇文を添えてとも読める。そうすると加増では無く新たに家臣を召し抱えたともとれる。最上氏は、加増の場合は加増・加恩としている。
・宛所の安達藤三郎は如何なる人物か興味深い。「分限帳」に載る安達氏が、安達藤三郎につながる人物かどうかは判明しない。
■執筆:鈴木 勲(西村山地域史研究会 会長)「歴史館だより29」より
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2022.11.30:最上義光歴史館
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