最上義光歴史館

最上義光歴史館
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大変お久しぶりです。ひねもす記でございます。
昨日1月7日は人日の節句、皆様は七草粥を召し上がる地域でしょうか。
山形は納豆汁が一般的なので、中の人は七草粥なるものを未見未食です。


1月6日の寒の入りを過ぎてにわかに寒くなりました。
昨日まで全く雪がなかったのですが、一転して雪景色となっております。
市内平野部では今季2度目の積雪です。


そして本日は桜茶をいただきました。
ボランティアさんのお庭の桜で作られたとのこと、
綺麗な桜の色と香りに春を心待ちにしつつ、
平穏がいち早く訪れますよう願っております。

 新年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。とは言え、年明け早々、地震や事故など大変な状況になっております。被害にあわれた方には、心よりお見舞い申し上げます。
 さてはなんとも「めでたくもあり めでたくもなし」といった感じですが、これは「門松や 冥土の旅の一里塚」という句に続く句で、一休宗純の作です。ところで一説によると、人は120歳まで生きられるそうで、ならば自分はまだ折り返し地点ぐらいか、とのんびり構えていますが、健康寿命となると男性72.7年、女性75.4年とのことで、干支の一回り程度しかありません。
 昨年亡くなった坂本龍一さんに、「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」という著書がありますが、あと何回、まともな食事ができるだろうと、その都度の食事を大切にしている人がいます。一方、30歳を過ぎたら歳をとらない(数えない)という女性もいるらしいのですが。
 さて、山形市では毎年1月10日に「初市」が行われます。主催者の山形商工会議所のホームページによると、「山形市初市は、最上義光公(1546〜1614)治世の江戸時代初期から続く伝統行事です。当時、山形には三日町、五日町、七日町、十日町など、定期の市が立つ市日町がありましたが、それら市の中心として十日町に市神(いちがみ)が祭られ、毎年1月10日に、市神祭りとして十日町から七日町にかけて多くの露店が立ち並び、縁起物をはじめいろいろな物を並べて売り立てるようになりました」とあります。
 それでは、ちょっと詳しくみてみましょう。
 最上義光が山形城を整備した頃には、二日町から八日町そして十日町がありました。それぞれの町名の日に市が立つのですが、九日町がないのは、毎月9のつく日も十日町で市が立ったためです。
 十日町はもともと、三の丸の中にあった正楽寺と勝因寺を結んだ地にあり、その門前市が十日に開かれていたことによるそうですが、最上義光が山形城建設にあたって、現在の地に十日町を移しました。その際に、旧十日町を割付ていた基準石を移し、今(新)十日町を割付る元標にし、これを市神石としたそうです。市神石は高さ70センチ、幅35センチの円筒型の安山岩の自然石ですが、当時の観光ガイド本である「山形風流松木枕」には、「又此石は市神といわひ、毎年正月十日市の立砌(みぎり)為商人者参詣せすといふ事なし」とあります。
 市神石は十日町の道路上に半埋されていましたが、明治5年に交通の妨害になるとして県庁に移動したところ、それを運搬した人が病死しました。その後、市役所の西側にあった湯殿山神社境内に移されました。湯殿山神社は市役所改築の時に現在の地に移転し、その境内に市神神社のご神体として祀られています。ご神体は、初市の1月10日と熊手市を開催する11月23日のゑびす講大祭のみに御開帳されます。初市当日は、縁起物である「かぶ」のお頒ちや敬神婦人会による「かぶ汁」の振る舞いがあります。また、ここの絵馬は蕪をかたどったものとなっており、とてもいいデザインです。
 一方、市神石の移転後も十日市跡地への参拝者が後を絶たず、もとの場所には新たに市神様の碑が祀られ、戦後に歌懸稲荷神社境内に移されています。
 さて初市では、初飴や団子木などの「縁起物」と、まな板や杵臼などの「木工品」の他、飲食物、野菜、工芸品等の露店が並びます。ここで縁起物の説明を少々。
 まず「だんご木」ですが、全国に様々な形や風習があるのですが、お正月、特に1月15日の小正月に、ヤナギ(山形はミズキ)などの枝に紅白の小さく切った餅や団子を飾り1年の豊作を願う正月飾りです。餅花とも言い稲の花を表し、小正月が終わった後は、これを焼いて食べると1年間無病息災でいられるとのこと。1月15日のどんと焼きで焼いたり、1月20日の二十日正月(はつかしょうがつ)に食べたりするようです。
 ただし、山形のだんごは丸い最中の皮に彩色したもので食べたりしません。だんごの色は、緑が春、赤が夏、黄が秋、白が冬を表しており四季を通してご利益があるよう祈願し、恵比寿・大黒・千両箱・宝船・小判・鯛などのふなせんべいで飾りつけます。その片付けは、小正月や二十日正月にするべきでしょうが、1月末や旧正月まで飾ったりします。
 また、養蚕が盛んな地域は、団子を繭の形に整えた繭玉で同じように飾るそうですが、こちらは養蚕の豊作を願うものです。木に刺さずにそのまま供えて、小正月にいただくところもあるようです。
 つぎに「蕪」ですが、これは同業者組合への加入権が株と呼ばれおり、株という言葉にかけて、商売繁盛や身代が大きくなるよう願ったことによります。そして、「白ヒゲ」と呼ばれるアサツキの類の野菜ですが、これは白髭の老人のように豊かで長生きができるようにとの願いによるものです。
 そして「初飴」ですが、白紙の上に点々と水飴を盛ってつくる盛飴がもとで、山形特産の紅花の紅餅を筵(むしろ)に並べる様子になぞらえて、紅花の豊作を願ったものです。紅花の筵干しの様子を表すように、半紙に紅白の飴を15〜16個ほど盛り付けては市神様にお供えしました。現在は切飴となり福を呼ぶ縁起物として売られています。
 飴の種類は紅白以外にもいろいろあり、餡入り、ゴマ入り、抹茶、ココアなどありますが、露店によって取り扱う品が異なります。ところでこの初飴、なかなかに慎重を要する食べ物でもあります。歯にくっつき、歯の詰め物がとれたりするのです。歯の治療技術も飴の品質も改善されているようで、こういうことは少なくなりましたが、今でも当館の学芸員は警戒しています。
 また、数年前からこの初市の夜に、霞城公園から打ち上げ花火が上げられるようになりましたが、この話をするときりがなくなるので、この辺で失礼いたします。本年も最上義光歴史館をよろしくお願いいたします。


湯殿山神社境内にある市神神社


歌懸稲荷神社境内にある市神様の碑


市神石の跡地に建てられた十日市碑


畑地化が進む明和の時代、「羽州最上御城内乃図」


市神神社の「蕪」絵馬、大きくなりますように


( → 館長裏日記に続く)

《2023年12月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和5年12月1日から同28日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (12/1 〜 12/28)
開館日数・・・・・・・・・・・・・24日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,324名
回答者数・・・・・・・・・・・・・10人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・0%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・20%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・10%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・40%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・0%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・10%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・20%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・70%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・20%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・10%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・80%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・20%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・60%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

山形市 女性/30代
無料でこんなに学べるなんて!ありがとうございました。

東京都豊島区 女性/40代
合戦絵と兜を見ることができてよかった。出身地が名古屋のため、信長公とのつながりがあることを知れて嬉しかったです。自分でもっと調べようとおもいました。入ったときは小さな(失礼すみません)と思ったが、充実した展示内容で、大変興味深く拝見いたしました。ありがとうございます。

埼玉県 女性/50代
ガイドの方に案内していただいて、短い時間でしたが、詳しく理解できました。

神奈川県鎌倉市 60代
無料で入館でき嬉しかった。すばらしい取組みありがとうございました。

福岡県春日市 50代
ボランティアさん、お忙しい中わかりやすいご説明ありがとうございました。遠く福岡から訪れた甲斐がありました。また今度ゆっくり見学したいと思います。ありがとうございました。

山形市 70代
ボランティアの方の説明がわかりやすかった。最上義光の前後が全くわからなかったが、よくわかった。

神奈川県横浜市 女性/40代
現存している資料も多く見ごたえがありました。ガイドの方のお話がとてもおもしろくわかりやすかったです。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。



本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 いよいよクリスマスの季節とはなりましたが、クリスマスセールも昔のようには盛り上がらず、ましてクリスマスパーティーなどは、家庭以外では絶滅しつつあります。そんな暗い世間を照らすべくイルミネーションの類は色々がんばってはいますが、ネットではマライヤさんの印税はどのくらいなどという話題ばかりです(山下さんのも気になりますが)。もっとも今年は、違うパーティの話は賑やかです。
 さて、クリスマスはキリストの降誕祭ですが、12月25日が誕生日ではありません。聖書には誕生日を特定できる記述がないのです。12月25日とした理由は実はこうです。かつてローマでは、太陽神を祭る日を12月25日と定めていました。これは冬至を経て太陽の勢いが戻ることを祝ったものです。クリスマスはこの日に便乗したらいいと336年に教会が定めたものだそうです。
 キリストの生まれた年も紀元前4年というのが定説になっています。すると紀元前をBC(Before Christ)と表すと理屈に合わなくなるため、学術論文などではBCE(Before Common Era)と表記するようになっているそうです。ちなみに紀元後はADではなくCE(Common Era)となるそうです。
 また、クリスマスイブのイブは前夜祭のことではなく、単に「イブニング」を略しただけとのこと。カトリックの教会歴では、日没から次の日没までを1日と区切るため、クリスマスは12月24日の日没からとなります。それがクリスマスイブです。じゃ、翌朝は「クリスマスモー」と言うのかというと定かではありませんが、忌野さんと篠原涼子さんが「クリスマス・モーニング」という曲をデュエットしています(作詞作曲も本人たち!!)。
 ということで、クリスマスの蘊蓄をひととおり並べたところで、今回はキリシタン(切支丹)のお話でも。
 日本にキリスト教がもたらされたのは、1549年8月にフランシスコ・ザビエルが来日したときです。ザビエルはスペイン出身のイエズス会士です。イエズス会はスペインのカトリックの男子修道会であり、プロテスタントに対抗して1534年に創設されました。同じ年に織田信長が生まれています。
 最上義光は1546年に生まれ、1571年に山形城城主となります。その頃は既に南蛮貿易が盛んでしたが、1587年にバテレン追放令、1596年に禁教令が出され、1597年に長崎で二十六聖人が殉教します。さらに1612年にキリスト教禁止令が出され、1614年にキリシタン大名らが国外追放されます。同じ年に最上義光は亡くなりなります。
 1616年には家康が亡くなり、同年、初の鎖国令ともなる「二港制限令」が発令。その後1619年に京都の大殉教(52名)、1622年に元和の大殉教(55名)、1637、8年に島原の乱が起きます。つまり、最上義光が生きた時代は、南蛮貿易とキリスト教がもたらされ、それが禁教と鎖国へ向かった時代でありました。
 少し詳しく見ていきましょう。1543年に鉄砲がもたらされ、これ以降、ポルトガル人が頻繁に渡航し南蛮貿易が始まります。主な輸入品は絹や陶器などでしたが、大名達は鉄砲や弾薬などを買い求めました。鉄砲は国産化もされるのですが、火薬となる硝石や銃弾となる鉛は輸入に頼っていました。織田信長は国内に出回る硝石の流通を押さえており、これが天下取りの大きな要因だったとのことです。南蛮船は日本に宣教師を連れてきており貿易と布教がセットでしたが、一向一揆で苦しんだ信長は、仏教勢力に対抗するためにキリスト教を公認していました。
 豊臣秀吉も南蛮貿易を享受していたのですが、1587年に島津攻めに行った時、キリシタン勢力により現地の寺社が壊され、南蛮貿易で財力や武力を蓄えるキリシタン大名を目の当たりにするとともに、一向一揆を思わせるキリシタンの結束力や南蛮貿易における奴隷売買を警戒するようになり、同年、キリシタン宣教師の国外追放を定めるバテレン追放令をだしました。ただし、南蛮貿易を続けたかった秀吉は宣教師の布教を黙認し、宣教師たちも布教のための資金を南蛮貿易から得ていました。
 1612年の禁教令は、幕府直轄地の教会破壊と布教禁止を命じるものでしたが、諸大名は「国々御法度」として受け止め、同じ施策を行ったそうです。しかし、伝道者の一部は布教活動を続けていたため、1614年に伴天連(バテレン)追放之文を発布し禁教令を全国に広めました。この時、奥州外ヶ浜(津軽)には70余名の武士が流され、奥羽地方にキリシタンが流れ込みます。山形の伝導は、津軽を訪問する宣教師によりなされました。宣教師は、長崎から日本海の各港を経由し酒田に入ったとの記録があります。
 やがて弾圧が厳しくなり、全国的には、1619年に京都にて52人が殉教(京都の大殉教)、1622年に長崎西坂にて55人が殉教(元和の大殉教)、1623年に江戸にて50人が火あぶりで殉教(江戸の殉教)しました。伊達政宗はこの江戸での火あぶりを目の当たりにし禁教強化へとむかうのですが、1620年に慶長遣欧使節の支倉常長が仙台に帰着し、キリシタン家臣も何人かおり、その扱いに苦慮せざるを得ませんでした(詳しくは吉川弘文館「日本歴史」2023年12月号佐々木徹氏論説を)
 また、米沢の上杉景勝は宗教に寛容であったことから近隣の信者が流れ込み、領地には最大1万人とも言われるキリシタンが存在したそうです。景勝は禁教令を布達したものの取締りは寛大で、幕府に対し「当領内には切支丹一人も御座なく候」と答えたそうです。しかし上杉景勝を継いだ定勝の時代となると禁教圧力に抗えず、1629年に甘粕右衛門一族ら53人が殉教、その後も数多くのキリシタンが殉死しました。その処刑が行われた米沢市にある「北山原キリシタン殉教の遺跡」は、日本でも有数のキリシタン殉教の地となっています。
 山形城下でも城主鳥井忠恒のもと1630年に9人が火刑、26人が斬首され、それ以降も殉教者が出るのですが、棄教を求めても従わない者に対する処刑であり、殉教者は神のもとに召されることを喜びとしていたため、次第に投獄し一生をそこで終えさす対応になったそうです。
 さて、当館では現在、御城印販売記念「山形城下絵図展」を、令和6年3月31日(日) まで開催しています。当館所蔵の山形城下絵図7点を展示公開し、山形城の歴史と変遷等を紹介しています。その中の1688年に描かれた「羽州邑山郡山形城内屋敷之図」には、キリシタンの牢獄と思われる場所(籠屋)の表示があるのですが、そこには通常「切支丹」と表記されるところが「切死丹」となっていています、うわっ。


 山形市街中心商店街にあるツリーです。最近、自宅の近くで、これと全く次元が違う「二郎系イルミネーション」の一般住宅を発見しました。もう「マシマシ」です。


 同じ商店街で見つけた看板です。遊び心というか、いじらしいというか、脱帽です。隣接する某市の「光のページェント」の予算規模は1億円以上とのことですが、ここまではしないかも。でも、そのイベントでは仮設の屋外スケートリンクも設けるそうです。こうしたスケートリンクはNYのロックフェラーセンターが有名ですが、国内でも見かけるようになりました。市内にもあったらいいなと思いますが、おっと、スケートリンクの話はアンタッチャブルということで。


この「羽州邑山郡山形城内屋敷之図」に「切死丹篭屋」が表記されています。


(→ 館長裏日記へ)

 最上家の茶の湯

 「茶人にあらずんば戦国武将にあらず」。これは拙者架蔵書の帯にある宣伝文句だ。随分と大仰な物言いだが、当時の状況からすれば概ね首肯できる。すなわち、�狹群漆諭躾�長・秀吉・家康・秀忠による「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」「数奇屋御成(すきやおなり)」などの施策により、多くの武将が深浅あれど茶の湯に関心を持ったことは想像に難くない。事実、彼らの多くが天下一宗匠の千利休や古田織部(ふるたおりべ)の門を叩いている。
 周知の如く屈指の連歌巧者であった義光。その子家親(いえちか)は家康・秀忠の側近だった。よって、茶の湯の場合も史料僅少と言えども例外ではなかったと思料する。以下、標記について管見の限りだが愚考を述べてみたい。
 先ずは、山形城三の丸跡双葉町・城南町遺跡の出土品に注目。黒織部市松文沓形茶碗(くろおりべいちまつもんくつがたちゃわん)・白天目茶碗(しろてんもくちゃわん)・志野茶碗(しのちゃわん)などが出土している。拙者は茶道執心者としてかつてそれらの品々を興味深く実査したが、個々の作風や関連事項などについては紙面の都合上割愛する。ただ、少なくとも当時の最上家臣に茶の湯を嗜む武人がいたことが明らかになった。  
 次に家親所蔵の茶入が挙げられる。元和三年(一六一七)家親死去、同五年源五郎家信(げんごろういえのぶ)が家督相続。その時に、父家親の遺物として「唐肩衝(からかたつき)」茶入を幕府に献上している(『最上家譜』『同家伝覚書』)。これは中国からの舶載の焼物で、わが国では唐物と呼ばれ珍重された。肩衝とは茶入の形容である。
 後に「最上肩衝(もがみかたつき)」と銘された本品は、名物として下賜・献上などを繰返し流転を重ねていったと思われる。現在は存否不明。妄想だが別銘で存在か?
 ちなみに、「天下三肩衝(てんかさんかたつき)」という名物茶器がある。「初花(はつはな)」「楢柴(ならしば)」「新田(にった)」と銘する茶入で、そのすべてが権力者の秀吉から家康に渡っている。もとより、名物茶器の蒐集は足利義政(あしかがよしまさ)が先行し知られているが(東山御物/ひがしやまぎょもつ)、度重なる戦乱によって散逸した茶器その他を「名物狩り」をして再蒐集し、茶之湯政道に利用したのが織田信長である。その政治手法を引き継いだのが秀吉であり、また家康であった。彼らは名物茶器を使って事あるごとに茶会を催している。このことにより、大名家をはじめ武家・公家・豪商などの名家の間に茶の湯が盛行した。茶の湯は当時のコミュニケーション・ツールの最たる文化芸道であった。
 こうした事例から類推すると、冒頭に述べたように最上家においても社交的教養の域を出ないにせよ茶の湯には無関心でいられなかったに相違ない。さらに言うと、義光の連歌における連衆が明らかになっているが、その中に茶の湯を嗜む人物が確かにいる。例えば、連歌の師里村紹巴(さとむらじょうは)は堺の豪商で信長・秀吉の茶頭(さどう)だった津田宗及(つだそうぎゅう)と親交があったし、細川幽斎(ほそかわゆうさい/玄旨 げんし)や大納言日野輝資(だいなごんひのてるすけ)、それに豊臣の五奉行前田玄以(まえだげんい)や黒田如水(くろだじょすい)などである。堺の豪商灰屋承由(はいやじょうゆう)も茶人だ。
 さて、ここにきて残念だが今回の紙面は間もなく尽きるようである。秀吉・家康と義光との茶の湯をめぐる直接史料は今のところ見当たらない。だが、演繹的に考えれば蓋然性はけっこう高いと見られる。彼ら天下人の義光に対する茶室での�爐�もてなし″がきっとあったものと推定される。これは永年茶の道を歩んできた拙者の肌感覚とでも言っておこう。

■執筆:渋谷洛雲斎「歴史館だより��30/研究余滴22」より