最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 暑い日が続いています。ということで、納涼の一助に、妖怪・怪談話などを少々。
 当館と同じく山形市文化振興事業団が指定管理者となっている山寺芭蕉記念館では企画展「妖怪探訪=もののけの不思議な世界」を開催しています。鬼、河童、天狗、白澤などの展示約50点、河鍋暁斎、葛飾北斎、与謝蕪村、菱田春草などの有名どころが描いた珍しい図画も並びます。担当学芸員本人が所蔵するお宝書画も展示しています。もちろん妖怪の企画展があるという話だけでは納涼にはならないわけですが。
 では、最上義光歴史館としては、戦国武将にまつわる怪談などを。友人の話ではありますが、昔住んでいた場所は、毎年決まった時期に金縛りにあっていて、実はそこは落武者の通り道だったとか。金縛りと落武者と言えば、「ステキな金縛り」という映画もあるくらい日常茶飯(?)な話ですが、ある統計によれば日本人の約半数が金縛りの経験があるといいます。いかがでしょう?まだまだですか。展示している甲冑が夜な夜な動き出すとか、なぜか視線を感じる兜だとか、刀からうめき声が聞こえるとか、そんな話があればですが、やはりありません。それでは、ここらでお墓の話でも。
 最上義光歴史館の前の公園敷地には、「光明寺跡」と彫られた石碑があり、石灯籠や松の木が添えられています。「光明寺」は山形城を築城した斯波兼頼の菩提寺ですが、最上国替後、岩城国から入部した鳥居忠政が、山形城の正面に最上家の菩提寺がある事を嫌い、現在の場所に移しました。その境内には斯波兼頼の墓が、本堂には等身大の木造が安置されています。
 最上義光の菩提寺である「光禅寺」は、最上義光が生前に開創したものです。もともとは現在の「長源寺」がある場所にありました。最上家国替後、鳥居忠政の菩提所の「長源寺」を岩城国から招致するため、押し出されるように現在の場所に移されたものです。光禅寺本堂の裏手には、最上家三代(義光・家親・義俊)の墓の他、義光に殉死した四名の家臣の墓が並びます
 そして最上義光の娘である駒姫の菩提寺が「専称寺」です。駒姫は豊臣秀次の側室として迎えられてすぐ秀次の謀反に連座することとなり、わずか15歳で処刑されました。義光は愛娘の最期を、幽閉されていた伏見の屋敷で聞いたそうです。義光はその供養のため、駒姫の生母である大崎夫人が浄土真宗に帰依していたことから、高擶にあった寺を現在の場所に移し、駒姫の菩提寺としました。
 駒姫の遺骸は三条河原の「畜生塚」に埋められているため、侍女達が持ち帰った遺髪を「専称寺」の塚に収め、供養石を置き密かに供養したそうです。近年、五輪供養塔が建立され、塔の裏側に置かれた小さく古い石がその供養石です。命日は旧暦8月2日ですが、9月2日を「駒姫忌」としています。
 ここで「畜生塚」の説明を。文禄4(1595)年8月2日(9月5日)、三条河原には7月 15日に自刃した豊臣秀次の首が据えられました。秀次の正室や側室、侍女、秀次の子どもたち一族39名は、牛車に乗せられて市中を引き回された後、秀次の首の前で処刑されます。まず子供たちが槍で刺し殺されました。続いて姫君、側室・侍女・乳母らが次々と引き出され斬首されました。駒姫は11番目でした。子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なるという有様で、大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられました。畜生のような扱いで埋められ建てられた塚は「畜生塚」と呼ばれ、塚の上に据えられた石櫃には「秀次悪逆」と彫られ見せしめにされました。
 その後、塚は鴨川の洪水で流されてしまうのですが、高瀬川開削工事の際、埋もれていた塚が発見されます。これを京都の「瑞泉寺」で弔いました。その境内には四十九柱の五輪卒塔婆があり、立札には誰がどの順に何歳で処刑されたのかが書いてあるそうです。駒姫は、側室では「お伊万(おいま)の方」と呼ばれ、その名が記されています。
 ここで気になるのが、駒姫の母である大崎夫人です。大崎夫人は、山形の地で飛脚により娘の死を知ります。娘の死のわずか14日後、後を追うように大崎夫人は世を去りました。それは二七日(ふたなのか)にあたり、自害説もありますが、確かな記録がなく、菩提寺も墓所もわかっていません。
 このように、お寺やお墓にまつわる話には、いわく因縁がつきものですが、かつて同じ職場に、実家がお寺の職員がいて、ある日、「子供の頃なんか、墓とか怖くなかったか」と聞いたところ、「逆に守られている感じで怖くなかった」と言っていました。さすが、寺を継ぐ方は違います。
 最後にもうひとつ、最上家ゆかりの寺の話を。千歳館の近くにある「法祥寺」は、最上家四代満家が父のために建てた寺です。「山形風流松木枕」という江戸中期の山形市内を紹介するガイドブックには、「禅宗瑞雲寺法祥寺、御門より寺中の様子能(よく)御覧候へ。先是は観音堂也、井白山堂後にはばけ石と申太刀痕有石塔有、此石昔毎夜酒買いに歩行すと申傳候。」とあります。法祥寺の門のお堂のところにある、「ばけ石」という刀痕がある石塔は、夜な夜な酒を買いに歩くらしいと。実は、私の父の墓もこの寺にあり、父は家の中でも外でも酒飲みばかりしていたのですが、草葉の陰でも夜な夜な酒盛りをしているのかしらん。合掌。


「専称寺」駒姫の五輪供養塔と供養石(右下)


「法祥寺」刀痕のあるばけ石

●追記その1
 山寺と言えば最近、新装版が出された藤子・F・不二雄「SF短編コンプリート・ワークス9」に「山寺グラフィティ」というのが載っていました。1979年発表の作品で、著者の作品には珍しく、その背景画は写真コピーも交え、かなりリアルに書き込んであります。
 話は、山形市出身のイラストレーターの卵には、一緒に山寺に遊びに行っていた幼馴染の女の子がいたのですが、彼女はその後亡くなったにもかかわらず、目の前に現れてくる、というもので、山では死者の魂が整然と変わりなく生き続けるとされ、亡くなった人のためにさまざまな品物を奉納し供養する人が絶えない、とした土俗信仰をベースに展開していきます。
 この新装版短編集(全10巻)は、NHKでこの4月から放送されていた「藤子・F・不二雄 SF短編ドラマ」(全10話、7月で終了)に連動して出版されたのですが、今後、第2シーズンとかで、この山寺の話のドラマ化をどうでしょうか。

●追記その2
 先日、金箔瓦のことで、某番組(=ブラタモリ)に貸出したものが、番組で使われるかどうかわからない、と書きましたが、無事、使われていました。ところで山形城は左遷先と言う紹介がなされていましたが、それはそうとして、城主に関わる寺社の開創や変遷を追えば、城郭都市の構造や盛衰など、また違った体裁で見せられたかもしれません。ただ、そんなこまめに時代が追えるほどの絵地図はないようです。
 東北芸術工科大学歴史遺産学科では、何種類かの最上期の山形城絵図をデジタル化し、精緻に分析を進めています。現在も研究中ですが、地図はネットで公開されています。特に市中の寺社は、江戸時代のみならず、現在の地図と見比べるときのベンチマークにもなります。もっとも、同じ時代の絵図でも、寺社の位置や名称が違うこともままあるのですが。