最上義光歴史館

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【見つけた「最上下向道記」下 】

片桐繁雄(上山市立図書館長)

 山形城主最上義光の求めに応じて、山形市の光明寺住職になった学僧一花堂乗阿が、京都から山形までの道中や山形での暮らしを記した「最上下向道記」から、山形の町について書かれた原文を揚げてみよう。
 「山形も近くなれば、造り並べたる家々数多く、柳・桜植えぬ門もなく、見る目輝くばかりなれば、覚えずして又もとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはべりぬ」(家々は数多く、柳や桜を植えない家もなく、目にまぶしいほどで、気づかぬうちにまた元の都に帰ってきたかと疑われるほど。話に聞いた以上であった)
 乗阿は驚きをこめて山形を称賛した。住民が植木を楽しんでいるさまにも目を向けた。柳、桜は平安京を彩った樹木である。多少の社交辞令はあるにしても、当時の山形はこのように美しかった。
 江戸時代の山形の町の評判は、どちらかといえばあまり良くない。対して、乗阿の描写は最上時代の美しい山形を語って印象深い。
 駕籠に乗って進んでいくと、「人数あまたにて来たれるあり。愚老乗り物をとどめ見はべるに、太守の迎ひおはしますにぞはべる」
 太守義光みずから迎えに出てくださったと、乗阿は感銘し、安心して、「はるばると、さ迷ひくだりし頼りなさも、力得る心地」と書く。
 米沢藩主上杉鷹山がその師細井平州を郊外まで迎えに出たことは有名だが、それより二世紀前、山形においても似たようなことがあったのである。
 こうして乗阿は光明寺に落ち着く。そこへ、京都で知り合った最上一門や家来衆が次々と訪ねてくる。太守からは、暮らしに不自由ないようにと鵞眼(穴開き銭)、八木(米)その他が贈られてくる。米は置き場所にも困るほど。まことに暮らしやすくなったと、乗阿は満足げだ。
 7月になると、七夕のご挨拶として、出羽の国の歌枕として有名な阿古耶の松を詠み込んだ和歌一首を義光に差し上げた。
 「いでてもや阿古耶の松の木がくれもあらぬ今宵の星あひの空」(昔の人は出た月も隠すほどだと歌った阿古耶の松であるが、今宵は牽牛、織り姫の星がその松に隠されることなく出会っている。そんな美しい夜空を見に出てみよう)
 義光の返歌。
 「七夕も逢ふ夜となれば偲ぶかな阿古耶の松の木がくれにして」(七夕星の会う夜となれば、なつかしいあの人がしのばれる。阿古耶の松の木陰にわが身はありながら)
 こうした和歌の贈答は、まさしく上流知識人のみやびである。
 乗阿は山形に足かけ3年いて、慶長10年(1605)には京都に戻った。七条の金光寺に住して文壇で活動を続け、元和5年(1619)世を去った。89歳の長寿であった。
 山形での見聞を詠じ、あるいは書き留めた古人はそう多くない。西行、梵灯庵、大淀三千風、芭蕉、高山彦九郎。このなかに今後は一花堂乗阿が加えられることになる。
 「最上下向道記」は、研究家諸氏が探しあぐねた本であるが、このたび光明寺本が出現したことによって、乗阿の人となりや業績がいちだんと明確にされるだろう。
 400年前の山形の姿も見えるようになった。この貴重な書がより多くの人に親しまれ、山形人の共有財産となるよう願っている。
 なお、光明寺には、乗阿が後陽成上皇、智仁親王らとともに詠んだ「百首和歌」写本もあったことを付け加えておきたい。

<2006/11/17 山形新聞夕刊掲載>