最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (4)】


 さて、慶長五年以降の志村光安の動向はどのようなものだっただろうか。
 慶長五(1600)六月、徳川家康は諸大名に対し上杉氏攻めを命じた。奥羽諸大名は庄内・最上口に配備され義光は先手となったが、一転八月には諸大名へ対し引き上げが命ぜられた。これに対し上杉は最上領進撃を計り、庄内よりは志駄修理亮を始めとした庄内衆に陣触れがなされ、寒河江・谷地ら河西諸城を陥落させた。また米沢からは直江兼続を主将とした一軍が出陣し、九月十三日には畑谷城を攻め落として九月十五日には山形城にほど近い長谷堂城を囲んだ(注11)。この時長谷堂城の守将が志村光安であったことは諸書に全く一致する所であり、間違いはないだろう。この長谷堂合戦における志村光安の活躍は様々な書物で取り上げられており、ここで改めて紹介はしないが、ともあれ光安は寡兵よく防衛し、上杉勢の突破を許さなかった。九月末に至って、直江兼続は関ヶ原の敗報に接し、最上領よりの撤兵を開始した(注12)。最上義光はこれを追撃し、上杉方に奪われた谷地・寒河江等の諸城を奪還し、庄内尾浦城へ迫った。尾浦城は降将下吉忠を先導とし開城したが、東禅寺城に籠もる志田修理亮は頑強に抵抗し、時期も冬となった為最上勢は一旦撤兵した。しかし、降雪の間にも東禅寺城攻略の軍備は着々と進められ、下吉忠が「山形の御意」に従って藤島・余目・狩川の各城へ鑓を配備した事を安部兵庫が光安に申し送っている(注13)。『最上記』を始めとしたいくつかの軍記物史料にも、谷地で下治右衛門を降伏させた事や、東禅寺城を攻める際の活躍が詳らかに記されており、また上記の書状に見えるよう諸城へ対する鑓の配備を綿密に把握していた事を考慮すれば、光安は慶長五年から翌六(1601)年にかけて実行された庄内奪還を企図した一連の軍事行動の中で、主導的役割を果たしていたと想定してよいだろう。結果として慶長六年四月に、下吉忠の勧告により東禅寺城は開城、城将志田修理亮は米沢へと帰還した。この年の冬には最上家に対し庄内と由利郡の領有が追認され、名実ともに庄内は最上家の所有するところとなったのである。義光は下対馬守(治右衛門吉忠)を尾浦一万石、新関因幡を藤島七千石、そして志村光安を東禅寺三万石に封じて庄内の経営を行った(注14)。

 慶長七年には、光安が坂紀伊守と連署で大津助丞・須佐太郎兵衛らに知行を宛がっており、この頃には志村の知行地もほぼ確定していたと見てよいだろう。このように比較的早期に三万石という大規模な知行地が確定した背景には、天正年間から継続して行われた、上杉家による(豊臣政権の意向をうけた、と言い換えてもよいだろう)検地成果が、下対馬を始めとした上杉家降将らの影響下の元、新たに最上家領国化された庄内へと反映された事が大きな要因として挙げられるだろう。

 翌慶長八(1603)年に、酒田湊に大きな海亀がはいあがったという事件があったらしく、義光は此れを瑞兆とし東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城を鶴ヶ岡城、尾浦城を大山城と改めた。しかし、天正十九(1591)年に成立したとされる『浄福寺由緒記』に袖浦より天文年間に酒田津亀ヶ崎に移り、亀崎山と号したという記述があり、一考を要する(注15)。
<続>

(注11)「小山田文書」九月十八日付上泉泰綱條書(『山形県史 古代中世史料1』)
(注12) 『伊達治家記録』『上杉家御年譜』など
(注13) 「鶏肋編 所収文書」十二月十七日付安部兵庫助書状
(注14) 『寛政重修諸家譜』。ただし、各城主の石高に関しては諸説ある。
(注15) 『酒田市史 改訂版 上巻』(酒田市 1987)


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【志村光安 (3)】


 さて、志村光安は軍記物史料の中でどのように位置付けられているのだろうか。『奥羽永慶軍記』の記述に、それがよく現れている一文がある。

  『奥羽永慶軍記』最上義守逢夜討事
   最上出羽守義光ハ、清和天皇八代孫義家ノハ十一代ノ後胤、(中略) 
   誠ニ君々タレハ臣々タリトカヤ、時ノ執事氏家尾張守、
   元来忠有テ義アリ、謀ハ楠カ肺肝ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也、
   今一人ハ志村九郎兵衛尉、其心剛ニシテ武威ノ名顕レ、
   然モ口才人ヲクシキ、イカナル強敵ト言トモ彼ニ逢テハ即降リヌ、
   彼等ハ皆君臣ノ礼厚クシテ国治リ、栄耀家門ニ及ホシ給フ(注7)

 これを読む限りでは、光安は氏家尾張守と並び義光の腹心中の腹心として捉えられている。また、「口才人ヲクシキ」と弁舌の才がある人物とされている。特に『奥羽永慶軍記』においてはこれが強調され、光安が使者としての役割を果たす場面が多く記述されている。

  『奥羽永慶軍記』羽州天童合戦事
   …志村九郎兵衛ヲ使者トシテ密ニ延沢ニソイハセケル…(中略)
   志村元来口才名誉ノ者ナレハ…(注8)

  『同』 白鳥十郎被討事
   …志村九郎兵衛ヲ使者トシテ信長公ヘ遣シケル…(中略)
   志村九郎兵衛ヲ使者トシテ、白鳥ノ所ニソツカハシケル、
   志村急キ谷地ニ至リ、(中略)…志村元来口才名誉ノ者ナレハ…(注9)

  『羽陽軍記』義光小田原江使者之事
   …御使者として志村伊豆守を小田原江被遣、…(中略)
   秀吉公伊豆ノ守を御前江召され、(注10)

 このように、信長への貢物を届ける使者や、小田原の秀吉への使者を拝命している記述があるが、これが全て事実であるか裏付けはとれない。ただ、全く才能が無く、実績の無い分野での活躍が軍記物史料に記され、また語り草となることはなかろうから、義光が光安を使者としてよく用いていたのであろうという推測は成り立つ。ただし、慶長期に比して文禄以前に志村が発給した行政関係の文書の残存状況が少ない事を考慮すれば、行政文書を発給し、領内統治に直接的に携わるような位置にはいなかったとも考えられる。

 次に光安の槍働きであるが、史料によって多少のばらつきはあるものの、最上家の勢力が伸張する天正以降においての主要な合戦の陣立てにはほとんどその名が記されている。一々内容に触れる事はしないが、義光に近しい直臣という立場上、義光自らが参戦した合戦には光安も随行していると推測するのが妥当だ。

 最後に「九郎兵衛」から「伊豆守」への移行時期の問題を少し検討したい。「伊豆守」の名の初出は、『最上記』『羽源記』では慶長五(1600)年長谷堂合戦条である。『奥羽永慶軍記』ではそれより若干前の文禄四(1595)年有屋峠合戦条で、その画期は十六世紀最終盤に集中している。『最上記』は、成立が寛永十一(1634)年と軍記物史料の中でも最も早く、しかもその著者は最上遺臣であるという。1590年代には実際に著者が生きて最上家内にいた可能性が高く、明確な意図があってその名乗りを書き分けていると推察できる。その契機として真っ先に考えられるのは長谷堂城主就任もしくは嫡子光惟の元服であるが、それを裏付ける史料が見られないため、あくまでこれは推論の上に成り立った仮説にしかすぎない。ただ、『奥羽永慶軍記』に、下治右衛門が上杉氏より最上氏に下り、改めて尾浦城将として配置されたときに名乗りを治右衛門から対馬守に変えた、という記述があって、自らが城主層となると同時にその名乗りを変えることはよくあったようだ。光安の場合も、子飼いの直臣の城主就任にあたり、義光が志村に対し権威付けのため官途名を与えたのであろうか。ともかく、慶長四(1599)年発給の書状において、山形の寺社統制に長崎城主中山玄蕃とともに「伊豆守」が参画している記述があり、この時点で光安は「伊豆守」を名乗り、山形近郊にその所領を持って行政に携わっていた事は確かであろう。

 以上、軍記物史料から見える関ヶ原以前の志村光安の姿を見てきた。整理すると、光安は義光政権成立当初から義光の腹心としてその手足となって活動し、天童氏との抗争、寒河江・谷地攻略等の主要な軍事行動に部将として参加していた。同時に弁舌の才にも恵まれ、方々へ使者として遣わされたが、文禄以前は最上家領内の内政的な経営に関わっていた形跡は見られなかった。いくつかの軍記物史料では、慶長の初期あたりを境として「九郎兵衛」から「伊豆守」へとその名乗りを変えており、あるいはその時期に長谷堂城へ移った事がその契機であったろうか。ただ、これらの史料の記述にすべてにおいて全幅の信頼を置くことはできず、この推論はあくまで「軍記物史料から見える」動向であることを重ねて記しておく。
<続>


(注7) 『奥羽永慶軍記』最上義守逢夜討事(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注8) 『同上』羽州天童合戦事(『同上』)
(注9) 『同上』白鳥十郎被討事(『同上』)
(注10) 『羽陽軍記』義光小田原江使者之事(『同上』)


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【成沢道忠/なりさわみちただ(どうちゅう)】 〜大剛の老侍大将〜
   
 蔵王成沢の三蔵院に「成沢道忠公像」が大切にまつられている。
 廻国修行に出る行者の旅姿で、高さ約30センチほどの小木像である。手足が破損しているのは残念だが、作りは丁寧でしっかりしている。
 元亀から天正の初めごろ(1570年代初頭)、上山勢が伊達の後押しで山形に攻め込んだ柏木山合戦のとき、成沢城を守ったのが道忠であっと、物語には書かれている。
 「代々の家臣である七十歳にもなる道忠を主将とし、加勢として六十を超える伊良子宗牛(家平とも)をつかわしたのは、経験ゆたかな老将で守りを固め、無駄な戦を避けようという義光公のはかりごとだ」と各種の軍記物語にある。
 天正13年(1585)ごろに、義光が庄内進出を図って余目の安保氏を攻めたときには、「最上の先陣は、大剛の侍大将成沢道忠、5千余騎を引き連れて敵のたてこもる城郭に押し寄せ」(『羽源記』)とあり、老齢ながらも剛の者として知られていた。
 もっとも、このときの戦いは敵方のしぶとい抵抗にあって、失敗に終わっている。
 以上の記事によれば、70〜80歳にしてなお矍鑠として戦陣に立ったこととなる。
 また、義光の死後つまり慶長19年(1614)以後に、道忠は行者となって故国を去り、陸奥国石田沢(塩釜市)に隠れ住んだとする言い伝えもある。
 しかし、これらの記事や伝承は、年令から考えると無理な話で、あるいは、成沢氏の親子2〜3代にわたる活躍を、道忠一人のこととして、まとめて作られた可能性もありそうだ。そもそも、柏木山合戦なるもの自体、作り話らしいのである。
 最上義光歴史館所蔵の『最上家中分限帳』には「一、五千石 成沢道仲」と出ているが、成沢城をあずかったとはなっていない。名乗り名字からいえば、成沢を本拠としていたと見られるわけだが、史料のうえでは、そこが今一つはっきりしない。また、最上家が改易されたころには、重臣としての成沢氏の存在は確認されなくなっている。言い伝えのように、やはりいつのころか山形を去ったのであろうか。
 最上源五郎時代の『分限帳』では、成沢城主は「壱万八千石 氏家左近」となっており、成沢を苗字とする者は、中級家臣のなかに「百五十石 成沢惣内」なる人物が見えるだけだ。山形に残った一族であろうか。
 これは憶測になるが、成沢家が山形を去ったのは、慶長8年(1603)の秋に勃発した政変とかかわりがあるのではあるまいか。
 義光による義康の廃嫡と悲劇的な最期は、最上家内部に大きな衝撃を与えた。義康と親しかった家臣のなかには、最上領を去って新たな土地で生きる道を求めた者もあった。成沢一門も、あるいはそうしたグループに属していたのかもしれない。
 成沢道忠の子孫は宮城県松島町に健在、信濃にも同族がおられて活躍の由である。
 「道忠公像」は、松島の成沢家から寄進されたものである。戦国山形で活躍した人物の晩年の姿をかたどった貴重な彫像を、地元では「尊像保存会」を結成して護持している。ゆかりの成沢城跡もまた、歴史公園として整備されつつある。
■■片桐繁雄著

最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (2)】


 前述したように、十六世紀中盤から慶長六年に酒田へ移るまでの動向を追う場合、軍記物史料に頼らざるを得ない状況にある。信頼性に制限のある史料群ではあるが、可能な限り、その動向を検討したい。まず検討したいのが、光安の名乗った官途名である。多くの軍記物史料においては、志村光安と思われる人物が「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」という二つの官途名を使用している。この二つの名前が真に同一人物の名であるのかをまず確認せねばならないだろう。
 時期は下るが、書状史料における光安の官途名はどうなっているだろうか。慶長期以降の書状史料を見ると、

   御書中披見、祝着之至候、・・・(中略)・・・恐惶謹言
              志伊
      極月八日      光安
        大津助丞様
       御報  (注2)

 とあり、志村光安が伊豆守の官職名を用いていたのは確かなようである。また、他の史料を見る限り、光安の官職名は一貫して「伊豆守」と記されている。しかしながら、光安が「九郎兵衛」と名乗っている書状史料は一通も見当たらない。それでは、軍記物史料での記述はどうであろうか。目に付くのは、『最上記』と『羽源記』の記載内容である。

  『最上記』城取十郎討捕給事
   去程に其頃出羽国谷地と申所に、(中略) 此も義光公聞召、
   志村九郎兵衛後に号志村伊豆守使者として、最上の家の系図并白の
   大鷹一居・御馬一疋、月山打長身の鑓十丁相揃進上有りけるに、…
   (注3)

  『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事
   其頃最上谷地と申す所に、城取十郎武任と申屋形あり、(中略) 
   家の子に志村九郎兵衛と申者、後は伊豆守とて酒田の城主となりしを
   使者として、…(注4)

 とあり、この二つの軍記物史料においては「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物と扱って物語を記している。また、他の書軍記物史料の記述とこの二つの軍記物史料の「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」の登場場面・活動内容を見比べてみる限り、そのほとんどが合致している。よって、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一の人物「志村光安」としてとらえてよいだろう。
 ただし、注意しなければならないのは、光安の嫡子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたということで、これは書状史料に明記されているから確かな事である。
  
   殿様御遠行ニ付而、態飛脚差越候事、令祝着候、
   即頓而下候時可申理間、不具候、恐々謹言、
             志九郎兵衛
    ニ月六日         光惟
         永田勘十郎様  (注5)

 同様に、『奥羽永慶軍記』においても、
 
  『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事
   羽陽田河・飽海ノ両郡ヲ、前代ヨリ庄内ト号ス、
   (中略、以下庄内の支配者が列挙される)
   志駄修理亮  慶長五年迄    
   志村伊豆守  最上ノ郎党、同十九年迄   
   同 九郎兵衛  同元和八年迄(注6)

 と、志村光惟が九郎兵衛を名乗っていた事を記している。ただし、光惟は慶長十九(1614)年に一栗兵部の手によって襲殺されており、元和八(1622)年まで城主であったとしている記事内容の信頼性は低い。ともあれ、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物とみなしてよく、またその子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたことは確かである。志村光安が史実の上で「九郎兵衛」を名乗っていたかどうか、書状史料の上からは明らかにする事はできないが、親子で官途名を継承する事例はありふれたことで、光安も、伊豆守を名乗る以前は「九郎兵衛」を名乗っていた可能性が高い。
<続>

(注2) 「大津文書」十二月八日付志村光安書状(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注3) 『最上記』城取十郎討捕給事(『同上』)
(注4) 『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事(『同上』)
(注5) 「永田文書」二月六日付志村光惟書状(『同上』)
(注6) 『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事(『同上』)


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