最上義光歴史館

最上義光歴史館
ログイン
メモ メール アンケート カレンダー ブックマーク マップ キーワード スペシャル プロジェクト
 いよいよクリスマスの季節とはなりましたが、クリスマスセールも昔のようには盛り上がらず、ましてクリスマスパーティーなどは、家庭以外では絶滅しつつあります。そんな暗い世間を照らすべくイルミネーションの類は色々がんばってはいますが、ネットではマライヤさんの印税はどのくらいなどという話題ばかりです(山下さんのも気になりますが)。もっとも今年は、違うパーティの話は賑やかです。
 さて、クリスマスはキリストの降誕祭ですが、12月25日が誕生日ではありません。聖書には誕生日を特定できる記述がないのです。12月25日とした理由は実はこうです。かつてローマでは、太陽神を祭る日を12月25日と定めていました。これは冬至を経て太陽の勢いが戻ることを祝ったものです。クリスマスはこの日に便乗したらいいと336年に教会が定めたものだそうです。
 キリストの生まれた年も紀元前4年というのが定説になっています。すると紀元前をBC(Before Christ)と表すと理屈に合わなくなるため、学術論文などではBCE(Before Common Era)と表記するようになっているそうです。ちなみに紀元後はADではなくCE(Common Era)となるそうです。
 また、クリスマスイブのイブは前夜祭のことではなく、単に「イブニング」を略しただけとのこと。カトリックの教会歴では、日没から次の日没までを1日と区切るため、クリスマスは12月24日の日没からとなります。それがクリスマスイブです。じゃ、翌朝は「クリスマスモー」と言うのかというと定かではありませんが、忌野さんと篠原涼子さんが「クリスマス・モーニング」という曲をデュエットしています(作詞作曲も本人たち!!)。
 ということで、クリスマスの蘊蓄をひととおり並べたところで、今回はキリシタン(切支丹)のお話でも。
 日本にキリスト教がもたらされたのは、1549年8月にフランシスコ・ザビエルが来日したときです。ザビエルはスペイン出身のイエズス会士です。イエズス会はスペインのカトリックの男子修道会であり、プロテスタントに対抗して1534年に創設されました。同じ年に織田信長が生まれています。
 最上義光は1546年に生まれ、1571年に山形城城主となります。その頃は既に南蛮貿易が盛んでしたが、1587年にバテレン追放令、1596年に禁教令が出され、1597年に長崎で二十六聖人が殉教します。さらに1612年にキリスト教禁止令が出され、1614年にキリシタン大名らが国外追放されます。同じ年に最上義光は亡くなりなります。
 1616年には家康が亡くなり、同年、初の鎖国令ともなる「二港制限令」が発令。その後1619年に京都の大殉教(52名)、1622年に元和の大殉教(55名)、1637、8年に島原の乱が起きます。つまり、最上義光が生きた時代は、南蛮貿易とキリスト教がもたらされ、それが禁教と鎖国へ向かった時代でありました。
 少し詳しく見ていきましょう。1543年に鉄砲がもたらされ、これ以降、ポルトガル人が頻繁に渡航し南蛮貿易が始まります。主な輸入品は絹や陶器などでしたが、大名達は鉄砲や弾薬などを買い求めました。鉄砲は国産化もされるのですが、火薬となる硝石や銃弾となる鉛は輸入に頼っていました。織田信長は国内に出回る硝石の流通を押さえており、これが天下取りの大きな要因だったとのことです。南蛮船は日本に宣教師を連れてきており貿易と布教がセットでしたが、一向一揆で苦しんだ信長は、仏教勢力に対抗するためにキリスト教を公認していました。
 豊臣秀吉も南蛮貿易を享受していたのですが、1587年に島津攻めに行った時、キリシタン勢力により現地の寺社が壊され、南蛮貿易で財力や武力を蓄えるキリシタン大名を目の当たりにするとともに、一向一揆を思わせるキリシタンの結束力や南蛮貿易における奴隷売買を警戒するようになり、同年、キリシタン宣教師の国外追放を定めるバテレン追放令をだしました。ただし、南蛮貿易を続けたかった秀吉は宣教師の布教を黙認し、宣教師たちも布教のための資金を南蛮貿易から得ていました。
 1612年の禁教令は、幕府直轄地の教会破壊と布教禁止を命じるものでしたが、諸大名は「国々御法度」として受け止め、同じ施策を行ったそうです。しかし、伝道者の一部は布教活動を続けていたため、1614年に伴天連(バテレン)追放之文を発布し禁教令を全国に広めました。この時、奥州外ヶ浜(津軽)には70余名の武士が流され、奥羽地方にキリシタンが流れ込みます。山形の伝導は、津軽を訪問する宣教師によりなされました。宣教師は、長崎から日本海の各港を経由し酒田に入ったとの記録があります。
 やがて弾圧が厳しくなり、全国的には、1619年に京都にて52人が殉教(京都の大殉教)、1622年に長崎西坂にて55人が殉教(元和の大殉教)、1623年に江戸にて50人が火あぶりで殉教(江戸の殉教)しました。伊達政宗はこの江戸での火あぶりを目の当たりにし禁教強化へとむかうのですが、1620年に慶長遣欧使節の支倉常長が仙台に帰着し、キリシタン家臣も何人かおり、その扱いに苦慮せざるを得ませんでした(詳しくは吉川弘文館「日本歴史」2023年12月号佐々木徹氏論説を)
 また、米沢の上杉景勝は宗教に寛容であったことから近隣の信者が流れ込み、領地には最大1万人とも言われるキリシタンが存在したそうです。景勝は禁教令を布達したものの取締りは寛大で、幕府に対し「当領内には切支丹一人も御座なく候」と答えたそうです。しかし上杉景勝を継いだ定勝の時代となると禁教圧力に抗えず、1629年に甘粕右衛門一族ら53人が殉教、その後も数多くのキリシタンが殉死しました。その処刑が行われた米沢市にある「北山原キリシタン殉教の遺跡」は、日本でも有数のキリシタン殉教の地となっています。
 山形城下でも城主鳥井忠恒のもと1630年に9人が火刑、26人が斬首され、それ以降も殉教者が出るのですが、棄教を求めても従わない者に対する処刑であり、殉教者は神のもとに召されることを喜びとしていたため、次第に投獄し一生をそこで終えさす対応になったそうです。
 さて、当館では現在、御城印販売記念「山形城下絵図展」を、令和6年3月31日(日) まで開催しています。当館所蔵の山形城下絵図7点を展示公開し、山形城の歴史と変遷等を紹介しています。その中の1688年に描かれた「羽州邑山郡山形城内屋敷之図」には、キリシタンの牢獄と思われる場所(籠屋)の表示があるのですが、そこには通常「切支丹」と表記されるところが「切死丹」となっていています、うわっ。


 山形市街中心商店街にあるツリーです。最近、自宅の近くで、これと全く次元が違う「二郎系イルミネーション」の一般住宅を発見しました。もう「マシマシ」です。


 同じ商店街で見つけた看板です。遊び心というか、いじらしいというか、脱帽です。隣接する某市の「光のページェント」の予算規模は1億円以上とのことですが、ここまではしないかも。でも、そのイベントでは仮設の屋外スケートリンクも設けるそうです。こうしたスケートリンクはNYのロックフェラーセンターが有名ですが、国内でも見かけるようになりました。市内にもあったらいいなと思いますが、おっと、スケートリンクの話はアンタッチャブルということで。


この「羽州邑山郡山形城内屋敷之図」に「切死丹篭屋」が表記されています。


(→ 館長裏日記へ)
 最上家の茶の湯

 「茶人にあらずんば戦国武将にあらず」。これは拙者架蔵書の帯にある宣伝文句だ。随分と大仰な物言いだが、当時の状況からすれば概ね首肯できる。すなわち、�狹群漆諭躾�長・秀吉・家康・秀忠による「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」「数奇屋御成(すきやおなり)」などの施策により、多くの武将が深浅あれど茶の湯に関心を持ったことは想像に難くない。事実、彼らの多くが天下一宗匠の千利休や古田織部(ふるたおりべ)の門を叩いている。
 周知の如く屈指の連歌巧者であった義光。その子家親(いえちか)は家康・秀忠の側近だった。よって、茶の湯の場合も史料僅少と言えども例外ではなかったと思料する。以下、標記について管見の限りだが愚考を述べてみたい。
 先ずは、山形城三の丸跡双葉町・城南町遺跡の出土品に注目。黒織部市松文沓形茶碗(くろおりべいちまつもんくつがたちゃわん)・白天目茶碗(しろてんもくちゃわん)・志野茶碗(しのちゃわん)などが出土している。拙者は茶道執心者としてかつてそれらの品々を興味深く実査したが、個々の作風や関連事項などについては紙面の都合上割愛する。ただ、少なくとも当時の最上家臣に茶の湯を嗜む武人がいたことが明らかになった。  
 次に家親所蔵の茶入が挙げられる。元和三年(一六一七)家親死去、同五年源五郎家信(げんごろういえのぶ)が家督相続。その時に、父家親の遺物として「唐肩衝(からかたつき)」茶入を幕府に献上している(『最上家譜』『同家伝覚書』)。これは中国からの舶載の焼物で、わが国では唐物と呼ばれ珍重された。肩衝とは茶入の形容である。
 後に「最上肩衝(もがみかたつき)」と銘された本品は、名物として下賜・献上などを繰返し流転を重ねていったと思われる。現在は存否不明。妄想だが別銘で存在か?
 ちなみに、「天下三肩衝(てんかさんかたつき)」という名物茶器がある。「初花(はつはな)」「楢柴(ならしば)」「新田(にった)」と銘する茶入で、そのすべてが権力者の秀吉から家康に渡っている。もとより、名物茶器の蒐集は足利義政(あしかがよしまさ)が先行し知られているが(東山御物/ひがしやまぎょもつ)、度重なる戦乱によって散逸した茶器その他を「名物狩り」をして再蒐集し、茶之湯政道に利用したのが織田信長である。その政治手法を引き継いだのが秀吉であり、また家康であった。彼らは名物茶器を使って事あるごとに茶会を催している。このことにより、大名家をはじめ武家・公家・豪商などの名家の間に茶の湯が盛行した。茶の湯は当時のコミュニケーション・ツールの最たる文化芸道であった。
 こうした事例から類推すると、冒頭に述べたように最上家においても社交的教養の域を出ないにせよ茶の湯には無関心でいられなかったに相違ない。さらに言うと、義光の連歌における連衆が明らかになっているが、その中に茶の湯を嗜む人物が確かにいる。例えば、連歌の師里村紹巴(さとむらじょうは)は堺の豪商で信長・秀吉の茶頭(さどう)だった津田宗及(つだそうぎゅう)と親交があったし、細川幽斎(ほそかわゆうさい/玄旨 げんし)や大納言日野輝資(だいなごんひのてるすけ)、それに豊臣の五奉行前田玄以(まえだげんい)や黒田如水(くろだじょすい)などである。堺の豪商灰屋承由(はいやじょうゆう)も茶人だ。
 さて、ここにきて残念だが今回の紙面は間もなく尽きるようである。秀吉・家康と義光との茶の湯をめぐる直接史料は今のところ見当たらない。だが、演繹的に考えれば蓋然性はけっこう高いと見られる。彼ら天下人の義光に対する茶室での�爐�もてなし″がきっとあったものと推定される。これは永年茶の道を歩んできた拙者の肌感覚とでも言っておこう。

■執筆:渋谷洛雲斎「歴史館だより��30/研究余滴22」より



最上義光騎馬像の周囲もすっかり冬木立に


付近の植栽も雪吊り・雪囲いがなされました。

 今年も早いもので師走に入り、いろいろと年末年始の予定を立てている方もいるかと存じます。その昔、バブルの時代に「こどものための博物館」(チルドレンズミュージアム)建設の調査検討を担当していたとき(結局、計画断念となったのですが)、ともにその作業をしていただいた東京の先生に、お正月の過ごし方を尋ねたところ、年末年始はお客さんがくるのも煩わしいので、いつも旅館で過ごしていると聞き、そういう正月の過ごし方を初めて知りました。年末年始を海外で過ごす人も少なからずいた時代でしたが、旅館で正月を迎えると。東京のセレブ層あたりでは珍しくもない話かもしれませんが、山形のセレブ層の、いわゆる本家あたりの年末年始の過ごし方は、年末から正月をはさんで出入りする親戚縁者とダラダラ酒飲みをしているうち、いつの間にか三が日が過ぎてしまうとのことです。
 ということで、今回は温泉の話でも。戦国武将は戦(いくさ)の疲れと傷を癒すため温泉を活用し、場合によっては隠し湯なども確保していました。特にいくつもの隠し湯を持ったのが武田信玄、また、信心的に隠し湯を持ったのが上杉謙信です。戦国武将御用達の温泉地で有名なのは、豊臣秀吉の有馬温泉、徳川家康の熱海温泉、前田利家の草津温泉などがあります。
 まずは最上家のご近所の上杉家そして伊達家に関わる温泉宿のご紹介でも。
 南陽市赤湯温泉にある「上杉の御湯 御殿守(ごてんもり)」は、上杉家別荘「赤湯御殿」の伝統を守り380余年という温泉宿です。まずは到着時に「お着き酒」、夕方には地元ワインの試飲、上杉資料展示室や甲冑体験室、東に5つ西に6つの風呂、オーディオのある図書室や卓球台もあり、およそ温泉旅館に求められるものは何でもあります。別注ですが米沢牛のステーキ、しゃぶしゃぶ、すき焼きがリーズナブルな料金でいただけ、宿泊料金もあのHグループがリニューアルを手掛けた付近の老舗旅館の半額程度です。
 また、秘湯で人気の米沢市「白布高湯温泉」の西屋・中屋・東屋前の広場には、直江兼続が火縄銃を製造させたことを記す「直江城州公鉄砲鍛造遺跡の碑」が建っています。同じく米沢市の「小野川温泉」は、西暦834年に小野小町が開湯したとされ、1587年(天正15年)には、伊達政宗が23歳のとき足を骨折し、ここで湯治したというのですが、こんな記録まであるんですねぇ。
 その伊達政宗ゆかりの宿が宮城県青根温泉の「湯元不忘閣」。「青根御殿」と「御殿湯」に滞在した正宗が、この感激と喜びを忘れないように「不忘」と名付けたことが由来とされます。「不忘閣」主人の先祖は、慶長年間、伊達公から「湯別当」の高禄をもらい、代々藩主の保養所守りの役と、関守りを兼ねていたとのこと。伊達公ゆかりの遺品が三つもの蔵にあり、現在、建物の最上階を甲冑をはじめとする資料の展示室にあて、展示ガイドも行っています。
 ここは先程の「御殿守」とは対称的な温泉宿で、秘湯好きにはたまらない湯宿です。ひと風呂浴びたらラウンジへ。休憩室「喫茶去」という広間ですが、座布団が置かれたベンチが何台かあり、壁際には民具が飾られ昭和感あふれるアルミサッシの掃き出し窓が広がっています。部屋の真ん中には地酒「蔵王」の一升瓶が置いてあり、その脇には串刺しこんにゃくの味噌田楽と柿の種が置かれ、これが勝手に飲めるのですが、気が付くと3合ぐらいいってしまい、夕食を気にしなければ一升の半分もいってしまうのでは、というくらいに不思議に飲めてしまいます。
 風呂は大浴場の他に立派な蔵の中にある貸切り風呂と定員2人の階段下の小さな半露店風呂があり、料理も「政宗鍋」という雉鍋や季節によってはしし鍋や鹿鍋なとのジビエ料理が出されるなど、秘湯の醍醐味が満喫できます。この不忘閣と前述の白布温泉の宿は、以前に紹介した「日本秘湯を守る会」の会員宿です。
 さていよいよ、最上義光ゆかりの温泉やその資料・武具を展示している宿についてですが、実は当館学芸員もそういう湯宿は聞いたことがないとのこと。ただ、蔵王温泉には行っていたようで、「義光が16歳のとき、義守・義光父子が高湯(蔵王温泉)に湯治に行き、鹿狩りをして眠りについたところ、近辺の盗賊数十人が来襲した。義光は近習の者たちの先頭に立って防戦し、二人に深手を負わせ、一人と組み合って刺し殺した。この武勇に義守は喜び、笹刀と称した家宝の名刀を授けたという」(粟野俊之「歴史館だより��8」)という逸話があります。まあ、蔵王温泉の場合、開湯1900年という歴史からすれば、最上義光は新参者ということかしらん。

(→館長裏日誌へ)