最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 現在、市民会館付近の道路沿いで山形城跡の発掘調査が行われています。過去の発掘調査では、本丸や二ノ丸からは貨幣や瓦などが、三の丸からは皿や茶碗などの生活雑器なども出土しています。それら出土品の一部を、当館において展示しています。
 展示物でまず目に付くのが、鯱鉾(しゃちほこ)瓦です。ここで、鯱鉾瓦についておさらいを。「鯱(しゃち)」は想像上の生き物で、頭は龍虎、胴体は魚、「鉾(ほこ)」は、この尾が鉾のように上にそそりたっていることを表し、つまり鉾のように立っている鯱を意味しています。鯱鉾は、建物が火事になると口から水を吐きだし消してくれることから、屋根の上に乗せるそうです。鯱鉾は、瓦とともに中国から入ってきたといわれ、寺院などで用いられていましたが、それを城に取り入れたのが織田信長の安土城、金の鯱鉾としたのが豊臣秀吉の大坂城で、次第に全国に普及したそうです。
 鯱鉾は通常、二体の対で飾られ、雄と雌であったり、同一であったりします。当館では、それぞれ模様の異なる二体を並べて展示していますが、どちらがどうなのかは判断できていません。これとは別に、金箔のあとが残る鯱鉾の一部も展示していますが、鯱鉾全体が金色というものではなく、目や牙、尾ひれのみが金色、ボディは黒色という、そっち系の高級車のようなカラーリングだそうです。
 同展示コーナーには、金箔が張られた軒丸瓦もあります。これは軒先に据える瓦で、「山」の字の文様部分に金箔が張られています。当時は、天下人以外に金箔瓦の使用を許される人は限られていました。
 金箔瓦は、豊臣秀吉が京都に住まうために建てた「聚楽第」に用いられ、屋敷を巡らす白壁と相まって、大層「映える」邸宅であったそうです。周囲には堀が築かれ、外郭の外側には街路が縦横に設けられ、そこには秀吉配下の大名屋敷を配置。最上家の屋敷と伊達家の屋敷が隣接してあったそうです。それらの屋敷もまた金箔瓦であり、聚楽第と御所の間は金箔瓦を葺いた大名屋敷で埋め尽くされ、その様子は屏風絵(尼崎本洛中洛外図)にも残されています。
 ところがこの聚楽第、竣工してわずか8年弱で取り壊されます。聚楽第の完成は天正15年(1587)9月(旧暦、以下同)。まずは秀吉が住み、天正19年(1591)12月に秀次に家督や関白職が譲られると、秀次の邸宅になりました。ところが文禄4年(1595)6月末に突然、秀次に「鷹狩りと号して〜御謀反談合」との謀反の疑いがかけられ、7月15日には秀次切腹事件(享年28)が、そして8月2日には三条河原に秀次の首を据えての妻子の集団処刑が、そう、あの駒姫の悲劇がおきます。
 しかも秀吉は、秀次の痕跡まで消し去ろうと、聚楽第や近江八幡山城の破却を命じました。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで破壊され、周囲の大名邸宅も同時に取り壊されたとのことです。ちなみに、最上家屋敷跡地からは、山の字に金箔が施された軒丸瓦が見つかっており、山形城の軒丸瓦もこの影響と考えられています。
 金箔瓦だけでもこんな因縁が浮かんできます。当館で展示している軒丸瓦の金箔は大分剥げ落ちていますが、残っている金箔部分は、光のあたり具合で意外なほど輝くことがあります。
 それにしても、親分が金の屋根瓦にすれば、子分も金の屋根瓦にする、というのは、親分の屋敷への憧憬からなのか、子分同士の見栄なのか、親分への忖度なのか、子分同士の同調圧力なのか。もっとも、聚楽第と同時に周囲の屋敷も取り壊された、ということはやはり、あれがこうなので、ということなのでしょう。いずれにしても「亭主の好きな赤烏帽子」どころの話ではなさそうです。


〇 ここだけの話
 先日、某有料放送局のロケがあり、当館の金箔瓦を貸し出しました。大物タレントの冠番組とのことで、当館の宣伝にでもなればありがたいと。取材はすぐに終わり瓦が戻ってきたので、もしかしてサイン色紙ぐらいはとは思ったのですが、それはなく、それどころかこの金箔瓦が番組に登場するのかさえも定かではなく、結局、その大物タレントにあやかることはむずかしいようです。もっとも、あやかるとしても、「TVで紹介!!大物タレントも興味津々!!」などという張り紙を、金箔瓦の脇に張るわけにもいかないのですが。


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 博物館の機能は、物を収集、調査研究、展示を行う中で、どう物について語っていくのかということにあるのですが、刀剣についてはその「物語り」に新たな軸が加わってきました。そうです。刀の擬人化です。刀剣鑑賞に新たな物語が加わり、昨今の刀剣ブームの一役を担うものともなっています。
 もとより刀剣には、「物語り」がついてまわるものが少なからずあります。鬼を斬ったという刀も一本や二本ではなく、鵺(ぬえ)を退治した恩賞に朝廷から与えられたとか、法師に化けた蜘蛛の妖怪を斬ったとか、幽霊を斬ったと思ったら石灯籠だったとか、とにかく、そういう話がついてまわり、いや、そのような話ばかりではないことがもちろん多いのですが。
 ちなみに刀にまつわる博物館の話としては、東京都墨田区にある刀剣博物館は、「刀令後本来の日本刀の役割を終え、更に第二次世界大戦後、日本刀は武器と見なされ駐留軍による没収の的となり壊滅の危機に瀕し」たことが契機となり、日本有数の刀剣博物館となっています。
 駐留軍により没収された刀剣類のうち、廃棄処理を免れて後世に伝わった一部を赤羽刀(名の由来は刀が集められた場所による)と呼びますが、当館で現在展示している中にも、この赤羽刀があります。この刀は米国まで渡ったのですが、茎の銘とともに刀剣彫刻があり、来歴が分かったため元の所有者に戻ったというものです。
 刀剣を主とする博物館は全国にいくつもあり、日本最大級の約500振の刀剣を所蔵する名古屋刀剣博物館では、新館を増設中。岐阜県関市には、刀工の他にも各職人が揃っていたため赤羽刀480本が譲渡され、その一部が関鍛冶伝承館で展示されています。
 一方、岡山県倉敷市には、「刀剣の郷」として開館し、日本刀の売買と鑑定書も出すという倉敷刀剣美術館があり、宮城県大崎市には、「日本刀の源流は東北だった」との展示テーマをもつ中鉢美術館があるなど、まさしく群雄割拠の状態にあります。その大崎市ではつい先月、新市庁舎の開庁記念として、庁舎1フロアに560振りの刀を展示し、ギネス世界記録に認定されました。
 一方、国宝の刀剣は現在、短刀、長刀、拵(こしらえ)を含み118本あり、うち19本を東京国立博物館が所蔵しています。その展示室「刀剣の間」は、多くの見学者が溜まっている場所です。県内には鶴岡市に国宝の刀が2振あります。
 このような状況のもと当館は、国宝もなく、ギネス級の数の刀もなく、はてさて、なにをどう話題にしたらよいものかと。なになに、聞くところによると、刀をキャラクター化・ビジュアル化してミュージカルもどうしたとかで、とにかく擬人化された刀剣が人気であるとな。
 ということで、最上家に所縁のある刀で擬人化されたものを探したところ、ありました。過去に当館でも展示したことのある京都・北野天満宮の「太刀 銘安綱(鬼切)」です。
 平安時代に、坂上田村麻呂が鬼女の鈴鹿御前を討伐し、伊勢神宮に奉納した刀です。夢のお告げにより源頼光がこの刀を受け取り、家臣の渡辺綱に貸し与えました。渡辺綱は、京の一条戻り橋で宇治の橋姫という鬼女に襲われ、その腕を切り落としたとのことです。のちに、斯波高経を経て最上家が家宝として所蔵、明治時代に北野天満宮に奉納されました。
 この由来により「鬼切丸」と称されてきましたが、北野天満宮は2017年より「髭切」とも称しています。その名の由来は、試し切りで罪人を切った際に、その髭まで切ったとの伝説によります。北野天満宮では2018年に「刀剣乱舞 とうらぶ髭切 北野天満宮宝刀展13」を開催。その際、この刀をキャラクター化し、御朱印などとともに販売しました。
 まずは見つけました。さあ、これで刀剣好きにも太刀打ちできるぞ、と武者震いしたのですが、当館学芸員によると、重要文化財でも重要すぎて、再び借りることは困難とのことでした。正直、私自身は刀剣について全くの門外漢で、まあ、戦国時代のあらゆることに門外漢なのですが、「持ち主に祟る刀」だとか、「人を操る妖刀」だとか、頭にあるのはその程度の話だけなので、刀剣にも歴史人物にも何やら詳しそうな方が見えた場合には、学芸員やボランティアさんを頼み、自分はそそくさと自席に引っ込みます。
 もっとも、重要文化財クラスの刀にも、鬼女やら酒呑童子やら祢祢(ねね)と呼ばれる妖怪やら、雷を斬ったと言われる刀まであり、こうなると刀のキャラクター化とどっこいどっこいな感じでもありますが。ちなみに、抜かれれば必ず血を見ると言われる「村正」は、「刀剣乱舞」での設定では、「恐ろしいほどの切れ味をもつ実践向きの打刀。何かにつけて脱ぎたがる癖がある」となっています。それにしても、なぜ脱ぎたがる。


「太刀 銘 安綱 号鬼切」(京都・北野天満宮 蔵)


「鬼切丸」ペーパークラフト 
当館ホームページから無料でダウンロードできます。


 最上義光歴史館では現在、特別展示として、「鐵[kurogane]の美2023」〜戦国武将の刀、最上家ゆかりの刀〜を開催しています。初出品3振りを含む10振りの刀剣とともに、鍛造過程の実物標本も展示しています。
 刀剣については、人気関心も高く、歴史来歴から美術的な面までさまざまな見所があります。なので、いろいろな価値観や嗜好があって当然なのですが、博物館での刀の鑑賞ポイントというのもあります。歴史的資料としてではなく、実物主義つまり物として見た場合ですが、主な鑑賞ポイントは、姿、地肌、刃文などになります。当館の展示室にも解説を掲げています。
 まず姿ですが、これは時代とも関わる、つまり制作当時に理想とされた形とは、という問題ともなるのですが、まずは理屈より数多く観ることでわかってくるものかもしれません。鎌倉時代のように名乗りをあげて騎馬戦をしていた時代は、長い太刀が主流でしたが、戦国時代となると、より実戦的な刀として、太刀よりも短く軽い打刀(うちがたな)が主流となってきます。古い太刀を短くし(「磨上げ(すりあげ)」といいます)用いることもありました。ただ、単に短くすればよしというものでもなく、姿すなわち、反りや太さ、重量バランスなども大事で、「摺上げながらも腰反りがつき」などと評価したりするそうです。当館で今回展示している刀にも、磨上げの形跡がよくわかる刀があります。また、日本刀のコレクターでもあった伊達政宗は、刀が好きすぎて刷り上げすることはしぶったという逸話があります。ちなみに制作当時のままの刀を「生ぶ(うぶ)」といいます。
 反り具合についても時代性があり、刀のどこの位置からどう反るかが時代により違うそうです。一般的には、平安時代頃だと柄に近い部分から反る「腰反り」、鎌倉時代後期頃はより上方から反る「輪反り」、室町時代以降はもっと高い位置から反る「先反り」になるそうです。また、反りが大きければ「反りが高い」、反りが小さければ「反りが浅い」と言います。
 この反りというのはもともと、操作性や切れ味を求めた結果でもあるのですが、そのような性能面からの刀の評価はあまりなされないかもしれません。ただ、江戸時代には、どのくらい切れるかという尺度として、死罪となった者などの胴体を重ねて試し斬りをし、一度にいくつ斬り落とせるかで表しました。それが3体なら「三ツ胴」と言います。伝説の刀となると、五胴、六胴という話もあります。ここまでくると、それが発揮されるのはどういう場面なのか、とは思いますが。もっとも、日本刀の性能で特徴的なことは、「折れず、曲がらず」ということで、鍛刀の重要性もここにあります。
 続いて、地肌(地鉄(じがね)とも言います)や刃文についてですが、これは結構マニアックな鑑賞ポイントとなります。例えば、地鉄の模様がはっきりと観えるときは「肌立つ」、模様がきめ細かくなっているときは「肌詰む」、光の反射によって輝いて観えるときは「明るく冴える」と言うそうです。また、地鉄と刃文の境に「沸」(にえ)や「匂」(におい)という粒子が現れるのですが、これがまた、見えたり見えなかったりします。沸も匂も、刃文の中に必ず存在する粒子だそうで、これが現れることを「出来」(でき)と言い、主にどちらの文様がみえるかによって「沸出来」(にえでき)または「匂出来」(においでき)に分けられます。なお、沸には沸出来と匂出来の中間にあたる「小沸」(こにえ)や、粒子が砂を散らしたようにみえる「荒沸」(あらにえ)などがあり〜という感じで、どんどん深い沼が待ち受けています。波文にも似たような沼があります。
 一方、刀剣が鞘に収まる部分を茎(なかご)といいますが、ここに刻んである銘でその来歴や刀工の系統がわかり、その刀の価値を決するものともなっています。これは、歴史的な側面からの評価となり、文献資料と照らし合わせながらのものとなります。
 「鋒(切先)」から茎の「目釘穴」まで見るべきところは多々あるのですが、刀身以外も見るべきものは多く例えば、鍔(つば)や鎺(はばき)を集中的に懐集されている方もいます。特に江戸時代、天下泰平の世ともなると、刀は「使うより愛でろ」となり、刀身はもとより鍔や拵(こしらえ)などの美術色が一気に高まりました。(続く)


特別展示「鐵の美2023」 刀剣10振


茎(なかご)、金色の部分が鎺(はばき)


上林恒平刀匠による鍛刀の製作過程見本