最上義光歴史館

最上義光歴史館
ログイン
メモ メール アンケート カレンダー ブックマーク マップ キーワード スペシャル プロジェクト
■光禅寺の所在地
 ちょっとややこしい話ですが、光禅寺は最上義光が生前、当時の「三日町」(現在の七日町)に開創したのですが、没後、城主が最上家から代わったときに現在の場所(現在の鉄砲町)に移転しました。その際、その地名も「三日町」とし、もとあった場所は「元三日町」という地名になりました。つまり光禅寺がある地名は当時、「鉄砲町」ではなく「三日町」となるのですが、例の「山形風流松木枕」では、「今三日町」と記されています。「元三日町」と「今三日町」、当時、「三日町」の呼び分けには、やはり工夫が必要だったようで。

■山形の立ち位置
 戦国時代以降、全国各地で鉄砲が生産されましたが、以前は特定の地域で火縄銃が生産され、米沢や仙台は全国有数の生産地であったそうです。つまり上杉と伊達なのですが、最上はいつもその狭間にいる感じです。
 山形市内の鮨屋での話ですが。山形は内陸の盆地で、川魚以外に地魚などあろうはずもないのですが、「山形は庄内と塩釜の間にあり、いろいろ仕入れることができるんですよ。」と言っていました。まあ、いろいろは入手できるようですが、新鮮なものは地元で、いいものは東京に行ってしまうわけでして。
 鉄砲も似たような状況で、山形は米沢と仙台の間にあります。鉄砲は生ものではないので、鮮度とかは関係ないかもしれませんが、でも、最新式のものとかはどうなのでしょうか。まあ、いろいろは入ってはくるかも。
 ちなみに、「米沢筒」は、長さ1メートル、重さ6キロの十匁筒が有名とのこと。重いので運用は難しいが威力に優れているそうです。一方の「仙台筒」は多口径多種類の銃を取り揃え、どちらかというとシンプルで口径の大きい銃が多く、また、騎兵が使用する馬上筒も多いそうです。上杉といい伊達といい、デカい口径が好きなようで。ちなみに、最上義光の兜に残る鉄砲玉の跡はやはり、十匁の玉によるものでは、とのことです。殿、よくぞ御無事で。

ボランティアガイドさんが持ってきてくれました。


よく家紋につかわれています。
山形城最後の城主、水野家の家紋も沢瀉です。

葉が鏃(やじり)に似ているため、「勝ち草」として武将達に好まれました。


山形城の発掘調査でも、最上義光時代の沢瀉の鬼瓦が見つかっています!
 旗に関する表現に「旗幟(きし)鮮明」という、立場を明らかにするという意味の四字熟語があります。英語には同じく「Show the flag」という表現があるのですが、かつてアメリカのアーミテージ国務副長官が、9.11同時多発テロ事件の直後、日本の駐米大使にこの言葉を発しました。これを素直に「立場を明らかにせよ」、つまりアメリカ側に立て、と捉えればよかったのですが、一部で「戦地で日の丸を見せよ」と前のめりに解釈したとか、しなかったとか、まあ、外交のことはよくわからないのですが。
 さらに米側は「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と、自衛隊の地上部隊の派遣を求めてきました。イラク戦争後の治安維持に当たるアメリカ軍への支援要請です。その際、「2000個のブーツ」という言い方で、1000人規模の派遣が求められました。これはもう解釈云々という話ではないわけで、まあ、軍事のことはよくわからないのですが。
 結局、2001年にテロ対策特措法をつくってインド洋での米英軍艦艇などへ給油支援、2003年にはイラク復興支援特措法を成立させ、初めて陸海空3自衛隊を同時派遣ということで、まあ、政治のことはよくわからないのですが。
 ところで、「旗色が悪い」と言い方ですが、これは陣容陣を表すものであるため、その語源からすると1対1の場合に用いる表現ではありません。例えば、家人を相手にした1対1の場合は、「旗色が悪い」ではなく「平伏」とか「退散」とかという表現になるかと、これは我が家の場合ですが。

 さてさて「作首」以外の生首の使い道としては、髑髏盃というのが、古今東西にあります。浅井久政・長政及び朝倉義景を討ち取った織田信長が、その髑髏を杯にしたという話は有名です。京都隣国との酒宴で、これで回し飲みをしたとも伝えられていますが、実際は箔濃(はくだみ)つまり漆と金粉を塗った髑髏を宴で披露しただけとのことです。
 髑髏杯にちょっと似た感じのものに、毛ガニの甲羅酒というのが思い出され、そのミソがまた、脳みそではないのですがそんな感じで。もちろんその風味がなんともいいわけですが。そう言えばかつて、山形市内にネパール料理店がありまして、そこのメニューには「羊の脳みそ」というのがありました。ソテーで供され、くせがなく、ふわふわしていて、きくわたのような食感でした。すみません、話がだいぶ脱線してしまいました。