最上義光歴史館

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「賦何墻連歌」冒頭部分

 連歌会においては、ただ目の前の情景を和歌で表現するだけではなく、古典を踏まえた場面選びや本歌取りがあり、一方、他人の句を受けて繋ぐことから、前句にある由来や意味を理解し、式目を踏まえながらも新たな展開への刺激となる句を付ければなりません。歌会に人が集い詠み合うという「座の文芸」ならではの気のきかせ方が求められます。古今和歌集には紀貫之が「猛き武人(もののふ)の心をも慰むるは、歌なり」と記していますが、時代が進んで、踏まえるべき古典や式目も多くなり、気付きの有無や歌の出来不出来が面子にもかかわるため、「心をも慰むる」どころか、かなりハードなものではなかったかと思われます。連歌会は夜を徹して行われることもあり、「賦何墻連歌」なんか、脇句の段階で「明(け)やすき山」、山の空が白み始めている、とか詠んでいるわけで、あ、違うか。とにかく、連歌会の挙句の果てには、身も心もボロボロになったのでは、と思ってしまいます。
 さて連歌には、「月」と「花」の句を詠み入れることとなっていますが、月と花は「中秋の名月」と「桜」を意味するのが慣例です。これでいくと、「おる花のあとや月見る夏木立」では、花は春、月は秋、でも季語は夏木立で、春、夏、秋をいっぺんに詠み込んだ、という句になります。ただ、「おる花」は回想であり、「月」はどの季節でもいいということにもなっているので、とりあえず季語がごっちゃになっているわけでもありません。
 さらに「花」については、挙句のひとつ前の句で取り上げることが通常なのだそうです。が、「賦何墻連歌」では、「別れた男は、今日は誰と」という句になっています。一方、テーマとなっている「墻」はどこにいってしまったのか、全ての句をざっと見渡しても見出せません。もう、主題も進行も関係ないフリージャズ状態です。
 ところで「賦何墻連歌」の挙句はつぎのようなものです。
(挙句) あたなる人に ちきるはかなさ  玄仲
漢字を当てはめると「徒(あだ)なる人に 契るはかなさ」、つまり「あてのない人と約束するむなしさ」とでも訳すのでしょうか。これを素直に遊女を詠んだ句とするのは易しいのですが、そうです、遊女を義光と置き換えれば、「徒なる人」とは秀吉ということに。あるいは、玄仲は里村紹巴の次男なのですが、遊女は紹巴とも置き換えられるのでは。以上、私の解釈にすぎませんが、どうでしょう、天国の名子先生。
 なおこの句は、「会はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち」という徒然草137段にある文言に出典を求めることができます。この137段と言えば、あの有名な「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」で始まる段で、ああ、ここで発句と同じく挙句にも、「花」と「月」とをぶっこんだのかと。こうなるともう、あらかじめ発句の段階で用意されていたとしか思えません。やはり連歌恐るべし。蛇足ですが、「徒なる」という言葉は、「徒然なる」という言葉とも関係します。
 さて、ここらでいつものことわざを、とは思ったのですが、今回は連歌に由来する慣用句を3つほど。
 まずは「花を持たせる」。花と月は定座 (句を詠む位置)が決められていました。しかし、連歌会で最年少もしくは特別な主客がいる場合には、歌を詠む順番を変えてでも、その人に「花」の定座の位置を譲る心配りをしていました。これが「花を持たせる」の由来です。次に「月並み」という言葉ですが、月を詠み込むときに、月の言葉が入る例えば「正月」や「神無月」などの言葉を用いても、それはただの「月並の月」(つきなみのつき)とされ、月の句とはならないことからきています。そして「挙句のはて」という言葉は、御存じのとおり、いろいろやっても好ましい結果にならないことで、私の日常においては「月並み」とともに身に染みる言葉ではあります。



(→館長裏日誌)



 前回の続きです。何分にも連歌は全くの素人ゆえ、前置きばかりが長くなってしまいました。さてさて今回は、chatGPTではちょいと難しいであろう連歌の解釈の話でも。
 最上義光の連歌の師は、里村紹巴(さとむら じょうは)という京都の高名な連歌師です。義光は式目について、聞き知ったこと、疑問に思ったこと、さらに連歌用語や歌言葉などを解説し、それを師の紹巴にみせ指導を乞いながら、文祿5年(1596、改元慶長1)に「連歌新式」(最上義光注、紹巴加筆)を著しました。時に義光51歳、紹巴73歳です。当時、義光は豊臣秀次事件に連座して、近江に流謫されていた身でした。また、紹巴も豊臣秀次事件に連座して、近江国園城寺(三井寺)の門前に蟄居中でした。秀吉から罪人として退けられた両名ですが、この時期、近江の地にて音信を通じていました。(片桐繁雄「歴史館だより��13」) 義光は他に「毎座不審の儀ども八百ヶ条」というのも記しているそうで、実はこちらの方が興味深いのですが。
 それではようやく、最上義光が読んだ句の紹介を。慶長3年(1598年)4月19日に「賦何墻連歌(ふすなにがきれんが)」と題し百韻を里村紹巴などとともに興行したものから。ところでこの「賦何〇連歌」というのは、賦物(ふしもの、テーマ)のことで、「〇」の部分にはお題が入ります。つまり、この歌会のテーマは「墻」、いわゆる土塀です。
(発句) おる花のあとや月見る夏木立     義光
(脇句) 御簾のみとりに明(け)やすき山   紹巴
 最上義光が発句ということで、この会の主賓ということです。里村紹巴が脇句ということで、この会の亭主、つまり主催者ということです。
 問題はこの句の解釈なのですが、字面だけであれば、発句は「春の桜を手折って風流を尽し、今、夏木立の中に座り、遅く出た月を眺めている」となり、脇句は、「御簾ごしにこの光景を味わっていると、はやくも時は移り東の山の空が白み始めている」となります。
 発句でいきなり「花」と「月」が読み込まれていて、なかなかに大胆です。もっとも、「月は出るにまかせよ、花は咲くにまかせよ」という式目もあるにはあるのですが。この句で視点は、「折る花」→「月」→「木立」とダイナミックに移っていますが、テーマである「墻」が浮かんできません。続く脇句は、「外を眺めていると、時が過ぎていきますね」というもので、どうしたものかと。
 名子喜久雄山形大学名誉教授によれば、この句はその場で目にした光景であるとしつつも、この連歌会のひと月前の3月14日に、豊臣秀吉による「醍醐の花見」が挙行されており、「おる花」とはこの行事を踏まえている可能性があるとのこと。また、この3年前には秀次事件に連座し、義光は駒姫を失い、紹巴は近江国三井寺門前に追放さており、権力の怖しさを改めて意識せざるを得ない状況にあった。そしてこの「月見る夏木立」という情景描写は「源氏物語」のある場面の面影を詠み込んだものだと。(名子喜久雄「歴史館だより��28、29」)。ああ、そこまで読み込むものなのかと。
 そして、もうひとつ、「賦何墻連歌」の終盤のやりとりを。
 96 波も音そひかへる釣舟        喜吽  
 97 暮れはつる入江のむらは鐘なりて   景敏
 98 やどりさだめぬ袖ぞものうき     義光
 99 わかれつつまた誰をかはとひぬらん  紹由
 96の「釣舟」の人々は、なりわいのためではあるが日々殺生を行うので、業の深いものとされていました。96に立脚して97では、罪業を滅消させる「鐘の音」を響かせます。夕景の中での釈教・無常の世界が展開されています。ここまでは叙景を詠んだ句ですが、97の無常を軸として98では恋の情趣も加味されています。紹由は、98の義光の情趣をとらえ、99で遊女が「別れた男は、今日、一体どのような女のもとを尋ねるか」と嘆く姿を詠んでいます。このようにして、無常の叙景から恋の嘆きに、連歌は展開しています。
 つまり、釣舟の句が無情を想起させ、義光の句により遊女の嘆きになっていきます。ここで義光は、かなりの癖球を放り込んできている感じですが、実は「和漢朗詠集 遊女」の「白波のよするなぎさに世をすぐす 海人(あま)の子なれば宿もさだめず」という句から採っている、とのことです。(名子喜久雄「歴史館だより��24」) この句も古典から立脚していると。連歌恐るべし。


「賦何墻連歌」 終盤部分

(なんと、まだ続く →その3に続く)






 現在当館では、山形城の御城印を販売しています。通常版の他、数量限定の最上義光のイラストが描かれた特別版があり、戦国武将のイメージを前面に出したものとなっています。しかしながら最上義光は、連歌にも大変すぐれており、現在、248句が確認されています。連歌の発句数も戦国武将では、細川藤孝(細川幽斎)に次ぐ第2位とのこと。発句は連歌会(れんがえ)の主客が詠むことが多く、つまり頻繁に、主客として迎えられていたということです。当館学芸員は、この文人としての最上義光にも光を当てたいそうです。
 多くの戦国武将が理想としていたのは「文武両道」。細川幽斎は「歌連歌乱舞茶の湯を嫌ふ人 育ちのほどを知られこそすれ」、つまり武芸だけではお里が知れるとまで言っているそうです。また連歌は、古典に通じていなければ「本歌取り(ほんかどり)」などの歌のやりとりができません。当時、戦国武将の間では古典の教養として、「源氏物語」や「伊勢物語」などが読まれていました。最上義光は在京中に、古典学者である乗阿から「源氏物語」を学び、切り紙(免許状)を伝授されるほどでした。
 さて、連歌の成り立ちについてですが、「日本書紀」や「万葉集」にある、二人で一首の歌を即興的にかけ合う唱和に端を発する、との説があります。このようなものを単連歌といいますが、平安時代後期に盛んになり、やがて句を付け連ねてゆく鎖連歌(長連歌)となります。
 鎌倉時代には、百句を続ける形式が定着し、やがて百韻を十集めて千句にといった具合に規模が拡大します。北野天満宮にあった連歌会所では、足利義満は明徳2年(1391)に北野一万句興業をし、永享3年(1431)には足利義教も千句興業を催し、豊臣秀頼も十万句の連歌会を催したそうです。
 一方、様々な制約を加える「式目」というルールが定められるようになりました。同じような付句を繰り返す「輪廻」(いわゆるループ)などを避けるためです。式目はいろいろな所でつくられましたが、全国統一の式目としたのが「応安新式」(1372年)です。新式とは言え、戦国時代からすれば結構、古典です。式目では、例えば「月」と「花」の句は必ず入れるとか、それはどこに入れる(定座)とか、ある数以上繰り返えさない言葉とか、発句(一句目)、脇句(二句目)、第三句、挙句(最後の句)はどうあるべきだとかが記されています。例えば第四句は、特に軽い句を出すところ。発句、脇、第三と工夫が必要な句が続いた後で、また頑張ってしまうとかえって単調になる。これをさけるために古事、本説、本歌取り等は勿論、月や花のような重要な句は出さない、とのことです。このように古典と式目を基礎としながら、前の句の内容に呼応したものを考え、次の展開が広がる句を繋がなくてはなりません。
 連歌会は誰が開いてもいいのですが、会を統括する「宗匠」という連歌に熟達した人物を入れます。また、その宗匠を補佐し、連歌を記録する「執筆」をおきます。発句は主賓が詠むことが多く挨拶句とも言われ、発句の季語によって会の季節が示されます。脇句は会を催した亭主が句を付けます。第三句はその日の連歌の「行様」(全体の流れや方向性)を決定付ける重要な句でとなります。挙句は、挙句の段階で迷うと風情がなくなるため、すんなりと詠むことが良しとされ、前もって挙句を考えておくこともあったそうです。また、亭主や主客は挙句を詠みません。
 戦国武将などに対し、古典や式目を教授し、連歌を指導し、宗匠も務めたのが連歌師です。連歌師は、都や各地の有力者、公家なども回るため、多くの情報を持ち合わせていて「情報屋」の顔もありました。また、大名家と公家との間をつなぐなどの役目もあり、ゆえに政治の混乱に巻き込まれることもありました。
 と、ここまでの内容なら、私なんかよりchatGPTのほうが、もっと要領よくまとめられたかもしれませんが、次回に続きます。

(→ その2へ続く)




 当館は公園の敷地内にあり、建物の前には噴水がある立派な石造りの池があります。聞くところによると、これはローマのトレビの泉をイメージしたものだそうです。トレビの泉は、「後ろ向きにコインを泉へ投げ入れると願いが叶う」そうで、ここに訪れた人は、泉に背を向け、コインを右手に持ち、左肩越しに投げます。コロナ禍以前は、1週間に約15,000ドル、年に780,000ドルざっと1億円以上のコインが投げ入れられていたとのことです。「あ〜、その100分の1でも、館の前の泉に投げ入れてくれないかなぁ」と、ずんの飯尾さんのようなことを考えてしまいますが、当方が管理する公園でもないので、なんともなりません。
 トレビの泉には、ネプチューン(芸人さんじゃない方)などの厳つい大理石像が並んでいるのですが、当館前の泉には2体のブロンズ像が建っています。「愛の女神・笹戸ちづこ」像(佐藤忠良、制作1988年)と「若き立像‘96・笹戸ちづこ」像(笹戸千津子、制作1996年)の2体の女性裸像です。それぞれの作者は師弟関係にあるのですが、笹戸千津子氏がモデルとなった彫像と自らを彫った像とが並ぶという画期的な場となっています。彫刻家の師弟関係というと、オーギュスト・ロダンとカミーユ・クローデルとの関係が想起されますが、それはさておき、やはり創作意欲は刺激されるようです。
 佐藤忠良氏の作品は多くの公共空間にも置かれ、宮城県立美術館に併設されている「佐藤忠良記念館」には 約600点の彫刻作品が収蔵されています。とりわけ笹戸千津子氏がモデルとなった「帽子」シリーズは代表作ともなり、上半身は裸でスリムジーンズに帽子を被るという、流行をも取り入れたような裸婦像は人気を博しました。
 当館の前の公園にある像は、逆にシャツだけをまとったものです。いわゆるwearingはしていないので、「Don’t worry!」ではありません。実際、小さな子がこの像のまわりで遊んでいるとき、「おしり、おしり」と騒ぐ声が聞こえてきたりします。ちょっとしたクレヨンしんちゃん状態というか。
 この「シャツ」シリーズとでもいうべき彫像は、全国各地にもあるとのことですが、とにかく日本では公共空間での女性裸婦像が多く、しばしば論争もおきており、ジェンダーやルッキズムなどさまざまな問題提起がなされています。
 日本に「銅像」が輸入されたのは明治以降。軍国主義が進むと同時に軍人像が増えたのですが、戦中の金属供出や、戦後、軍国主義の排除を目指したGHQの政策で大半が撤去されました。代わって登場したのが「乙女の像」。それは平和の象徴として、衣装により貧富や階層などが表出しないよう裸体になっているとの説があります。昨今、平和、平等、自由などについては、別の多様な表現が求められるところではありますが、まずは裸婦の是非についての問題というより、その製作意図が大切とのことです。
 少々難しい話になってしまいましたが、なにはともあれ、泉にしろ、彫刻にしろ、お金が置かれるようになれば、それは本物と個人的には思っています。
 さておしまいに、いつもの「ことわざコーナー」ですが、今回は「頭隠して尻隠さず」でしょうか。もちろんその意味するところは、彫像の話とは無関係なのですが、話の流れで、思わず浮かんできました。確か昭和の時代に、そんな漫画があったような。顔は誰だか知らないけれど、仮面モノだったよう気がするのですが。


奥が佐藤忠良作、手前が笹戸千津子作
佐藤作はシャツをまとい、笹戸作は一糸もまとっていません。


小さな子にも人気の像は、当館の事務室の窓からはこんな具合に見えます。
トレビの泉というより、コペンハーゲンの人魚姫の像がある岩場のようですが。


→ 館長裏日記に続く

 現在、当館では屋根の補修工事のため、建物の前面に足場を組んでいます。工期は11月下旬までを予定しておりますが、通常どおり開館しております。ご不便をおかけするところもあるかと存じますが、どうぞご来館ください。
 実はタイミング悪く、この工事が始まる前に展示室で雨漏りが発生、それが出入りの新聞記者の知れるところとなり、写真付きの記事になってしまいました。当館の学芸員は、これでしばらく他所から展示品を借りることができなくなる、と嘆いていましたが。工事をすれば大丈夫!!とアピールしたいところなのですが、当面の間、だいたいその、人の噂になる75日間くらいは厳しいかも。
 ところで私の場合、なぜか異動する先々の施設で雨漏りに遭遇し、バケツだの雑巾だのを床に並べるのを目にしています。バケツを並べたりするのは落語とかの世界のこと程度に思っていたので、21世紀の世の中でもこうなのかと、ちょっと驚きました。
 雨漏りの原因というのは意外に様々で、当館の場合は、防水シートの劣化と雨水排水管の構造上の不具合によるものです。かつて音楽ホールのある某施設にいた時は、そのバックヤードの天井が雨の重みで剥がれ落ちてきたのですが、屋根の形状が複雑なため板金の隙間から雨漏れが発生したものです。また、築50年に近い建物の某本部にいた時は、4階部分の壁の亀裂から染みこんだ雨水が、3階の事務室の天井に回り漏れたものです。「壁際」や「窓際」にはだいたい管理職の席があるのですが、そこに落ちていました。山形などの寒冷地では隙間に染みた水分が、冬期間に氷結して膨張し、隙間が大きくなるのも一因です。いずれも以前から雨漏りが予見されており、前任者は対策を求めてはいたのですが、後回しにされていたようです。
 これも個人的なことなのですが、以前、マンション管理組合の理事長を20年以上担っていたことがあり、その維持補修に管理会社とともに関わったのですが、やはり最初に必要なのがこの雨漏り対策です。屋根の防水シートの経年劣化に対する修繕なのですが、これがだいたい15年目あたり。当館は築30年を優に超えてはいるのですが、やっと屋根防水の大規模修繕を実施ということで、一般のマンションなどと比べると、持っているというか、時間の流れが違うというか。ちなみに丹下健三設計の赤坂プリンスホテル新館は、築28年で取り壊しました。こっちは時間の流れがいきなり早い感じです。
 筒井康隆の小説に「横車の大八」というのがあります。大八はもともと腕の立つ大工でしたが、他人の仕事に横車ばかり入れるので疎んじられ、仕事は減るばかり。しかし、大八によると、建物にはそこを押すと全体が壊れるヘソという部分があり、いい家ほどヘソが一か所に集まっているという。新築する場合は壊すときのことを考えヘソを作らなければならない。しかし建物のヘソは、素人の目にはとまらないような場所に設けるため、ヘソをみつけ解体できるのは大八にかぎる、という話です。建物は丈夫で長持ちばかりがよいのではなく、社会環境に合わせスマートに解体できるのが大事ということで、この小説を学生の頃に読んで衝撃を受け、建設系の同級生にその設計思想を吹いて回ったことがあります。
 またもや話が横道に逸れてしまったのですが、最後にいつものようにことわざを。ここはやはり「畳と〇〇は、新しいほどいい」ということわざでしょうか。昔なら新郎にこんなことを言っていたかもしれませんが、今どきこんなことを言ったら、どこからどう刺されることやら。これとは逆に、「味噌と女房は、古いほどいい」という、罪滅ぼしのようなことわざもあるそうです、あっ、これでは伏字にした意味がなくなってしまう。それでも物と人とを一緒にしてしまうのは問題なわけで。ところで博物館の場合、古いのがいいのか、新しいのがいいのか。少なくても「屋根と空調機器は、新しいほどいい」とは思います。


現在の工事の様子。なんか一夜城みたいですが、通常どおり開館しています。

→ 館長裏日誌へ


山形城の御城印の販売について

山形城の御城印を10月1日から最上義光歴史館の受付にて販売しています。

販売時間は開館日の午前9時から午後4時30分までです。

【通常版】1枚 300円
【特別版】販売終了 ※令和7年9月30日をもって販売・AR掲載を終了

この機会にぜひお立ち寄りください。

※なお、郵送による販売(通信販売)は行っておりません。ご了承ください。

≪御城印についてのお問い合わせ先≫  
山形市公園緑地課 023−641−1212(内線530) 


詳しくはこちら → 御城印のページにリンク (山形市役所)