最上義光歴史館

最上義光歴史館
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《平成29年度6月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成29年6月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

          常設展示  (6/1 〜 6/30)

      開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間
      入館者数・・・・・・・・・・・・・2,226人
      回答者数・・・・・・・・・・・・・98人

  1.歴史館をどこで知りましたか

  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・14%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・3%
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・24%
  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・2%
  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・4%
  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・15%
  (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・ 16%
  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・14%
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・9%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・94%
  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・4%
  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・2%

 3.ご覧になられた感想
 
  (1)内容はいかがでしたか
  
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・70%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・26%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・4%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

  (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・71%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・27%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・1%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑ�1%


 〜利用者の声〜
◎義光の過去を説明して頂いて、より深く理解できました。最上家は東北の中で徳川がなぜかわいがってくれたのかが解りました。ありがとうございました。

◎ボランティアの方に支えられており、すばらしいと思います!

◎ガイドの説明がわかりやすかった。すばらしい武士だと思う。

◎ボランティアの説明が良かったです。無料で良かったです。

◎入館の無料なのに充実した展示で大変良かったです。

◎案内いただいてとても鮮やかに想像できました。名前だけ知っている状態でしたが、生き様や山形への貢献など非常によく知れた。無料で見られてびっくりでした。大変満足しました。

◎みな様はじめてでしたが、すごくわかりやすく福島との歴史も関りあって勉強になりました。

◎かぶとが良かったです。写真でずっと見ていたものだったので感動しました。

◎山野邉の名前が同じなので来た。案内の人の説明で知らない事が深く知ることが出来た。良くわかった。これからも歴史館を大切にしてください。

◎ガイドさんのていねいな案内が大変良かった。 現在の状況で十分すばらしいと思います。

◎歴史が複雑で時間をかけて理解することがいい。

◎説明をして頂いてよくわかりました。

◎最上家の成立ちが非常に詳しく説明頂きました。歴史文化の伝承について、大変有意な説明と共に伊達家との関係について、仙山新ラインの開発に共に努力して参加したいと思います。

◎羽州探題と対をなした奥州探題本家(大崎家)の歴史比較表の準備を宜しくお願い致します。

◎ネットで企画展「鐵の美2017」の事を知り、鶴岡の帰りに立ち寄らせて頂きました。鬼切丸の関連商品が欲しいです。貴重な刀剣類を展示頂きありがとうございました。

◎ガイドの方に色々なお話を聞かせてもらい、とても楽くためになりました。

◎秀次事件を調べているうちに最上義光歴史館を知りました。駒姫のことを知ってから絶対一度は訪れたい場所だったので来館できてよかったです。義光の指揮棒かなり重かった。
・駒姫に関する展示物が思ったより少なめだったけど駒姫像とうちかけを見れたのはよかった。
・「駒姫―三条河原異聞」を漫画化・ドラマ化・映画化
・最上義光と駒姫を大河ドラマに!
   
◎説明してくださり、ありがとうございました。元重、国光と素敵な日本刀を観られて良かったです。欲を言えば照明がもう少しあかるいと、地金・刀文が分かりよいかもしれません。
ありがとうございました!

◎ガイドの方のご説明が良かったです。ホテル等に案内パンフレットがあると良い。

◎宿泊旅館から推奨。説明者の伊藤さんに熱意持って説明を受け、山形の良さをしっかり理解できました。ありがとうございました。

◎ガイドの方の説明が簡潔で心(愛)がこもっていてよかったです。有難うございます。

◎最上家改易の詳細とその後について知りたかったがよくわからなかった。

◎大変興味深く案内をお聞きしました。ありがとうございます。

◎説明がとても良かったです。 ◎もっと放映されると良いなぁ〜!! 〔最上家の事〕

◎明治維新前後をもう少しくわしく説明いただければ(展示などで・・・)

◎ガイドさんに詳しく説明してくれたので、とても理解できた。また、来ます。特別展も楽しみにしています。

◎ボランティアさんのガイドがあったので良かったです。義光公の内攻の功績について、もっと知りたいです。

◎30分の予定であったが、1時間45分もご説明いただき、山形での一番の時間となりました。有難うございました。

◎ガイドさんがすばらしい説明をしてくれた。

◎山形弁でお話をし下さってとても良かった。

◎ガイドの説明で、よくわかったつもりです。ありがとうございました。郷土愛が強く感じる県民性をスバラシイと思います。

◎最上義光をはじめ戦国時代からの東北の歴史を良く説明して頂き大変勉強になった。

◎素晴らしい展示とガイドでさらに深く理解できました。ありがとうございました。

◎以前からドラマや小説などで知っていた事もあったからよくわかった。

◎ガイドさん、充実していると思う。

◎無料で、荷物もあずかってもらえて、ガイドの人もつけてもらい、楽しく見学することができました。想像で語り継がれている歴史も含め、人のおもしろさがみえて、過去がより身近なものに感じられました。ありがとうございました。

◎もう少し展示が多い方が良いかなと思います。山形県立博物館へ行ってから当館へ来ました。古代から山形のなりたち又各時代での出来事、これまでの歴史を通して、今、ここに残っている最上氏の宝にふれられて良かった。

◎ボランティアの方に大変分かりやすく説明を頂いた。説明のお陰でよくわかりました。
最上義光に強く興味を持つことが出来ました。

◎とってもわかりやい案内をしていただきよかったです。もっと歴史を学んでみたくなりました。

◎刀の展覧会をもっとやってほしいです。とてもおもしろく、ためになりました。ありがとうございました。

◎初めて刀を見ました。とてもキレイでした。プロフィールがあってわかりやすかったです。無料で見られるのがとても良いと思いました。

◎わかりやすい説明で山形の歴史を学ばさせて頂きました。

◎案内がわかりやすく、歴史的な流れがより理解できました。

◎無料でこの内容を展示できることはすごいと思います。今後も頑張ってください


◎今回初めて霞城公園にきました。ボランティアの案内の方に詳細に説明を受け、歴史感も少し変わりました。ありがとうございました。

◎ごていねいにご説明いただきました。秋元氏もここで城主をつとめたとのお話をうかがい、とてもおどろきました。有難うございました。

◎告知をもう少しすると良いかと

前回にひき続き現地研修会のレポートです(^^)
午後からは舘山城に行ってきましたー。
※ちなみに前回の内容はこちら→歴史館ブログ【棗の記】70 「ワクワク♪研修旅行in米沢(前編)」


↑ここが舘山城。写真奥にある館山水力発電所が目印です。

いざ山登り!がんばりましょー!

こーんな急な傾斜なんですよ!みんなナナメに連なってる(笑)





↑研修の最後は、高畠町にある資福寺跡に行きました!


天候にも恵まれ、事故、怪我等なく、
充実した研修にすることができました。

義光会のみなさんと一緒のお出掛けは
なんだか修学旅行みたいで楽しかったです(^^)
一年に1度のお楽しみ、ですね♪



6月12日に義光会のみなさんと現地研修会に行ってきました!
この現地研修会は義光会の年に1度の恒例行事で、
今年は、米沢に行ってきました(^^)

研修の様子を少しご紹介します。

歴史館を早朝出発して到着したのは中山峠!
現在の上山市にあります。
天正16年にこの峠で伊達軍と最上軍がにらみ合い、
あわや大いくさになりかけたとき、
義光の妹、そして伊達正宗のお母さんでもある義姫が
身を挺してくい止めた話は有名ですよね(^^)

こちらで解説をしていただいたのは、片桐繁雄先生!


画面手前が最上領、奥が伊達領であったそう。


眺めが良く気持ちのいい場所でしたー(^^)

次に向かったのはいよいよ米沢市!
お目当ては米沢市上杉博物館にて開催している特別展
「戦国時代展」を観るためです。
なんと!今回の展示では、最上家ゆかりの名刀・鬼切が
後期展示期間に出品されていたのです!
これを見に行かないわけにはいかない!!
鬼切の展示の前では前歴史館館長の布施幸一先生に
来歴や見どころについて教えてもらいました(^^)

そして、特別展「戦国時代展」の解説を上杉博物館主任学芸員の阿部哲人先生にしたいただきました!
たくさんの発見があり充実した見学になりました。

研修旅行のレポート、まだまだ続きます!
後編は午後の様子!!いま大注目の城、館山城に行ってきましたよー。
乞うご期待(^^)



最上義光連歌の世界��

96  波も音そひかへる釣舟        喜吽  
97 暮れはつる入江のむらは鐘なりて        景敏
98  やどりさだめぬ袖ぞものうき        義光
99 わかれつつまた誰をかはとひぬらん        紹由
  
   慶長三年(一五九八)卯月十九日
    賦何墻連歌  名残(なごり)の裏




 義光の連歌を解読し、その作品の意図や背景となっている古典教養に言及したい。義光の句を意図を示すために、前句(直前の句)・打越(前句のさらに前の句)の内容を知る必要がある。よって、今回のように、二句前の96の句まで示すことがある。
 96は、夕べに釣舟が自分の港へ帰る姿である。97は、その行く先である漁村が闇に沈もうとしている時に、寺から夕べを告げる鐘の音が響くとする体である。
 96の世界の釣舟に乗っている人々は、なりわいのためではあるが、日々殺生を行うので、業の深いものとされた。97では、96に立脚して、「鐘の音」を響かせる。言うまでもなく、「鐘の音」は、罪業を滅消させるものであり、殺生と関わること大である。夕景の中、釈教・無常の世界が展開される。大むね叙景の句である。
98の句は、無常を背景とした叙景から、人物の独白の体に展ずる。この人物は、自分の運命を嘆く遊女である。大意は、「自分の住まい(=夫)を定めることが出来ない(=日々重ねる相手が代る)袖をつらく思う」ほど。
 さらに具体的には、江口(大阪府淀川河口)などの遊女たちが想定される。すでに、平安中期に公任が編んだ「和漢朗詠集 遊女」に
  
 白波のよするなぎさに世をすぐす 海人(あま)の子なれば宿もさだめず

とある。義光は傍線部を採ったわけである。
 その他に、「新古今集 羇旅」の作がある。
 
 天王寺へ詣で侍りけるに、にわかの雨の降りければ、江口に宿をかりけるに、貸し待らざりければ、よみ侍りける   西行
                 
978 世の中をいとふまでこそかたからめ かりの宿(やどり)もをしむ君かな
       返し            妙
979 世をいとふ人としきけば仮の宿に 心とむと思ふばかりぞ 

 世の中を仮の宿ととらえ、その世に生きることの難しさを、遊女を罪業とする妙は嘆いている。この贈答は、西行編と考えられていた説話集「撰集抄」・謡曲「江口」に取り入れられ、著名であった。97の無常を軸として、98では恋の情趣も加味されている。
 義光の加味した恋の情趣をとらえた紹由は、99で遊女が「別れた男は、今日、一体どのような女のもとを尋ねるか」と嘆く姿を詠む。
 このようにして、無常に立脚した叙景から恋の嘆きに、連歌は展開している。

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより��24」より

家親は二男か!?三男か!?


 この度、最上義光歴史館が『三部抄』写本を購入した(『山形新聞』2016年8月26日記事参照)。『三部抄』は、鎌倉時代前期の歌人藤原定家(1162〜1241)が書いた歌道の参考書で、数多くの写本が作られた。この『三部抄』写本には二箇所に奥書があり、一つ目のものは「詠歌之大概」「秀歌之躰大略」の末尾に記され(�)、二つ目は残る三つ「未来記」「雨中吟十七首」「百人一首」を含む一番最後の所に記されている(�)。
 

奥書�


奥書�

 奥書�には「此詠歌大概者、最上之御本所義光御三男家親、頃風雅御執心之由及承、染老筆奉贈者也 慶長元年十二月廿六日 七十三歳紹巴(花押)」とあり、慶長元年(1596)紹巴73歳の時に書かれた。奥書�には「右三部抄紹巴法眼墨跡之奥染愚筆畢、小野忠明近年依連歌執心、従山形家親朝臣頻所望云々、此度上洛之次一覧之間、加判形者也 慶長十年卯月下旬 素雪斎玄仍(花押)」とあり、慶長10年(1605)に紹巴の長男玄仍が書いた。この奥書は『山形市史』史料編1(1973年)でも既に紹介されている(303頁)。
 ただここで、従来から諸説のあった家親・義親兄弟の長幼関係が再び浮上してきた。
 (1)最上義光の家族についてみてみる。 義光の正妻は、大崎義直(よしなお)の娘で大崎御前(おおさきごぜん)と呼ばれ、長男義康(よしやす)・次男家親(いえちか)それに竹姫・松尾姫・駒姫(こまひめ)を産む。側室に、天童氏(頼貞)の息女や、清水氏の息女も(清水御前)迎えている。天童夫人は天正10年に義親を産んで死去したとされる。
 次に義光の子どもたちを見てみると、長男は義康で、修理大夫に補任された。しかし、熾烈な家督相続をめぐる抗争で、慶長8年(1603)8月に、長男義康は暗殺された。享年29歳。次男は家親(いえちか)で、義光没後、最上12代当主となる。文禄3年(1594)13歳で徳川家康の御前にて元服し、「家」の偏諱(へ3き)を与えられ、駿河守・侍従に補任され、徳川将軍の側近として活躍した。元和3年(1617)3月に山形城中で急死したため(享年36)、子の家信(義俊)が跡を継ぐが(13代)、御家騒動により改易され、近江大森藩1万石で移封した。3男は義親(光氏、氏満、満氏とも)で、義光は義親の方は豊臣秀頼に奉仕させ、その後に義親は清水城主となり、清水大蔵大夫(しみずおおくらだいふ)と称した。義光死後に生じた内紛によって、跡を継いだ兄家親に攻められ、慶長19年10月に自刃した。享年33歳。4男の義忠(よしただ/光茂とも)は、山野辺(やまのべ)城主で山辺(やまのべ)右衛門大夫と称したが、藩主13代最上家信と対立し、改易事件の当事者となる。5男は義直(よしなお/光広とも)で、上山城主となり上 山(かみのやま)兵部大夫(少輔)と称す。6男は光隆(あきたか)で、大山城主となり、大山(おおやま)内膳正と称す。
 女子については系図によって長幼が異なるが、『最上家譜』によると、長女は竹姫(たけひめ)といい、氏家尾張守光氏(あきうじ)妻となる。次女は松尾姫(まつおひめ)といい、延沢能登守満延の嫡子又五郎と婚姻した。3女は駒姫(こまひめ)(伊満/いま) といい 、文禄4年(1595)5月、豊臣秀次(ひでつぐ)に嫁ぐが、「秀次事件」に連座し同年8月2日、三条河原で斬罪、時に15歳。4女は、禧久姫(きくひめ)といい、阿波東根家初代となる親宜の妻となる(拙著『最上義光』〈吉川弘文館、2016年〉参照)。
 (2)家親と義親の長幼関係について考察する。奥書�に「最上之御本所義光御三男家親」とあり、この段階では義康暗殺事件等、後に生じる問題はないので、最上家や豊臣政権への配慮などは必要ない。里村紹巴が誤って記載したのでなければ(73歳は当時としてはかなりの高齢である)、次男義親、三男家親という長幼関係は動かしようがなくなる。
 しかし、『最上家譜』『最上氏系図〈『寛政重修諸家譜』所収〉』『最上家系〈光明寺所蔵〉』『最上家系図〈宝幢寺本〉』『最上家系図〈常念寺所蔵〉』『最上家系図〈菊地蛮岳旧蔵〉』(「義光の三男なり」とある)『清水大蔵公家図書并家来図』(「義親 実ハ最上出羽守之三男」と記す)等、義親(氏満・光氏とも記載)が記載されている系図は全て次男家親、三男義親としている。
 軍記物語も『最上記』『羽陽軍記』『最上合戦記』『奥羽永慶軍記』『会津四家合考』『荘内物語』『羽源記』『白髭水抄』(『鶴岡市史資料編 荘内史料集 1-2』)等、ほぼ全て次男家親、三男義親としている。これらは江戸時代の作のためか、最上家の内実や政権・幕府との整合性をふまえていて、前述の系図と符合が合うようになっている。
 ただ『最上滅亡記』(石川県加賀市立図書館〈聖藩文庫〉所蔵)は、「嫡子ハ修理亮、二男ハ清水大蔵少輔、三男ハ駿河守ト号ス」と記し、『最上斯波家伝』は、義光に5男がいて、嫡子義康・次男清水大蔵大輔・三男山辺右衛門尉・四男駿河守家親・五男源五郎義俊だとする。さらに『北楯氏先祖代々之覚』(『鶴岡市史資料編 荘内史料集 1-2』)にも「一栗兵部」「出羽守二番目之子息清水大蔵与一味仕、駿河守方江謀叛企申」とあって義親を義光の二番目の子とする。こらの記録・覚等はいずれも内容が史実にはほど遠く、その記述部分だけを大写するわけにはいかないが、「次男義親、三男家親」説も根強くあったこともうかがわせる。したがって奥書�は、この説を裏付ける一次史料ということになる。
 家親・義親ともに天正10年生まれで、母親が異なることなども長幼関係が混乱する原因となっていると考えられるが 、いずれにしても長幼関係については 今後の課題である。

■執筆:伊藤清郎 (山形大学名誉教授)「歴史館だより�24」特集「三部抄」より


「三部抄」について ―内容と成立を中心に―


 一 「抄」とは何か
 現代で「抄」と言えば、「ある作品などから精進したり、抜き出したりしたもの」の意味で用いられる。ところが、古典では、以下の意味でも使用されている。

ア さまざまなものを集成したもの
イ 注釈書
ウ 現代で言えば、ノートにあたる聞書

 西行に仮託された説話集「撰集抄」、鴨長明の歌論集「無名抄」は、アの例である。江戸時代・元禄期の国学者北村季吟が著した「源氏物語湖月抄」は、イの例である。また、室町期の五山僧は、多くのウに該当する「抄物」を残した。(イ・ウの内容は重なることもある)
 この「三部抄」ではアの意味で使われている。すなわち「三部」の書を集約したものの意となる。

 二 内 容
 書名は「三部抄」であるが、その内容は、いずれも新古今時代の大歌人にして古典学者藤原定家と何らかの形で関係する五種の書から成る。


 一は、「詠歌大概(えいがのたいがい)」。建保三〜四年(一二一五〜六)に後鳥羽院皇子・尊快法親王(十二〜三歳)のために書いた。初学者のための、和歌に対する心得・基本的な考えが記されている。


 二は、「秀歌躰大略(しゅうかていのたいりゃく)」。一とセットになっており、八代集の中から心がけて学ぶべき和歌を示している。(一・二はまとめて一書とされることが多い)小学館「新編日本古典文学全集・歌論集」に、口語訳も付されて所収。


 三は、「百人一首」。内容については周知のことと思う。文暦二年(一二三五)に、定家は、愛息為家の舅たる宇都宮入道頼綱の求めに応じて、「百人一首」の基盤となる百一首から成る「百人秀歌」を選定した。その後、定家または為家が、「百人秀歌」から三首を切り出し、代りに後鳥羽院・順徳院の作を入れたものである。「百人一首」の完成者は、定家・為家の二説あって定まっていない。多くの解説書がある。


 四は、「未来記」。そもそもこの書名は、聖徳太子などの特別な力を有した人物の、未来を予言した書に使われる。ここでは、定家が、後世に和歌が衰えた時の戒めとして、詠むべきではない例を示したものとされる。
無論、定家仮託の偽書で鎌倉末までの成立とされる。作者は不明。


 五は、「雨中吟(うちゅうぎん)」。四と同じ目的で、定家が自作を集めたとされるが、現在は、孫で一流を成した冷泉家周辺で、延慶三年(一三一〇)までに成立したらしいと考えられている。(一部の作は、定家の作として、玉葉集などに入っている)
 四・五は、一まとめとされることが多く、五種の書の集約ながら「三部抄」と呼ぶ。四・五は、河出書房新社・久保田淳編著「藤原定家全歌集下」に略注などを付して所収。図書館などで手にとっていただきたい。
 
 三 成立と流布など
 この五種の書は、十五世紀後半には「三部抄」としてまとめられていたと考えられる。誰がまとめたかは不明。
 為家の子の為氏を始祖とする二条家(中世和歌の主流派)は、室町中期には絶える。ただし、その弟子たちの流れ(二条流・兼好法師も宗祇も紹巴も、それらの流れを受ける)において「三部抄」は、和歌の入門書・戒めの例を示した書として重んじられていく。
 今川義元は、信長に敗死したため文弱の人とされ評価は低いが、これらの人々は武家貴族の末裔を自任しており、自分たちが宮廷文化(和歌・連歌・物語など)を学ぶことは当然と考えていた。
 その際、宗祇・紹巴のような連歌師が、身につけた古典の教養を、地方の武家貴族の末裔たちにも伝えたのである。この時代、その教養は、誰が師であるかが大切であった。その中で、紹巴が最上家のために筆を執ったことは、実に意味のあることであった。

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより��24」特集「三部抄」より