最上義光歴史館

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下記の日を休館いたします。

12月29日(水)・30日(木)・31日(金)、1月1日(土)・2日(日)・3日(月)


新年1月4日(火)から平常どおり開館いたします。


最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (6)】

 このようにして、満茂は楯岡領を継いでその城主になったが、その後しばらくの満茂の動向に関しては軍記物史料の記述に頼る他は無い。もとより信憑性に疑問のある史料群ではあり、細部にわたって記述が正確であるかというとそうではないだろうが、ある程度満茂の活動の傾向を掴む事はできるであろう。

 最上氏の傘下に属した満茂は、義光が最上川河東・河西地域を領国化せんと軍を催した際に、それに参加しているようだ。天正十二(1584)年前後に行われたとされる、寒河江・谷地を攻撃した際も、「最上出羽守義光ハ大勢ヲ引具シ山形ヲ出馬ス(中略)先手ハ氏江尾張守五百余人喚テカヽル、二陣最上豊前守、三陣志村九郎兵衛・山辺六郎、」(注11)とその名が見え、天正九年の真室鮭延氏攻めにおいても、「(前略)山形豊前守・山辺・氏江・志村ヲハシメ七百余騎を引率シ、鮭登ノ城ヘオシ寄セ、」(注12)と一手の大将としての名がみえる。『奥羽永慶軍記』の記述を見ると、真室攻めは義光自らが出向いてそれを成し遂げたように著述されている。だが、義光が真室攻めを氏家守棟主導の元行わせたことは書状史料の面から明白であり(注13)、この記事自体の信頼性には大きな疑問符がつく。だが、真室攻略は祖父義定からの宿願であったとされ(注14)、また庄内へと進出する足掛かりとしても、真室地方の領国化は当時の最上家にあって至上命題だったであろう。故に、可能な限りの戦力を以って真室侵攻に当たったとしてもなんら不思議ではない。楯岡満茂を含む諸領主達の軍勢が、かなりの規模で動員されたと見てよいのではなかろうか。

 また、同書・武藤駿河守光安滅亡ノ事条においても、義光が庄内へと攻め入る陣立ての中にその名が見えるが、これ自体の内容は天正十一(1583)年の前森蔵人(東禅寺筑前)による武藤義氏襲殺事件と、天正十五(1587)年に最上氏が東禅寺筑前の動きに呼応し庄内の武藤義興を攻めて庄内をその支配化に置いた事とを混同しており、実際に満茂が庄内へと出陣したとすれば後者の時であろう。
<続>

(注11) 「奥羽永慶軍記」谷地・白鳥落城ノ事条
(注12) 「奥羽永慶軍記」鮭登落城ノ事
(注13) 「楓軒文書纂所集文書」五月二日付庭月宛最上義光書状
(注14) 『山形市史』(山形市 1973)


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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (5)】

 さて、ここで今一度前記した系図類を参照したい。その中には楯岡因幡守満英の名は無く、満茂の父は義郡となっている。同様に、過去に楯岡城主であったとされる二代河内守満正、三代和泉守満次らの名は無い。果たして満茂は、楯岡一族の中で如何なる位置に居たのであろうか、少し考察を加えてみたい。双方とも初代は満国であり、その祖は同一の者と考えて差し支えはなかろう。その満国を除いて二代満正から満英まで、その城主の座にあった人間は五人である。対して「本城氏系図」を参照すると、(満国)―頼家―家泰―満良―芳国―義輔―義郡とその人数は6人である。さらに官職名も記されておらず、双方の名前を見比べてみても共通する点はほぼ無い。まずこれらの点を鑑みる限り、満茂が楯岡領を襲封したからと言ってそのまま楯岡主流の流れを汲む血筋であると断定するのはいささか早計であるように感じられる。

 それでは、義光が攻め滅ぼした国人領主達の後継領主には、いかなる者が据えられていったのであろうか。楯岡氏の場合と共通点を持つモデルとして、若干時代は下るが寒河江氏のケースが想起される。

 寒河江氏は大江一族である。最上氏とは四代満家の頃には協力関係にあったらしく、その娘を満家に嫁し、婚姻関係を結んでいることが見える。しかし、天正期になると義光へ敵対する動きを見せ、谷地の白鳥氏や八沼の貴志(岸)氏らと同様に義光の侵攻を受け、天正十二年(1584)には寒河江氏は滅ぼされてしまった。白鳥領であった谷地はそのまま最上家の蔵入地となったようであるが、対して寒河江は、その後寒河江氏の庶流であった寒河江肥前・寒河江外記らが登用されて彼等に遺領が与えられたという(注9)。寒河江肥前・寒河江外記はその後最上家の中でも比較的上位の扱いを受けたと見え、肥前は「最上義光分限帳」に「寒河江  高弐万七千石 五十四騎 鉄砲百三十七挺 弓三十張 鑓三百廿五本  寒河江肥前」とあって、家臣団の中でも大身の部類であった。最上義光が亡くなった際には同族の寒河江十兵衛らと共に殉死しており、義光の側近であったことがうかがえる。また外記は、天正十八年の秀吉による出羽検地の際、鮭延秀綱と共に先導を務めて湯沢に進駐している(注10)。

 このように、寒河江氏と楯岡満茂は、最上家の傘下に属した後重用されていること、また大身として取りたてられ、遺領をそのまま安堵されていることが共通点として見うけられる。とすれば、寒河江氏と同様、楯岡満茂も楯岡氏の庶流であり、義光によって取りたてられ、楯岡城主の座に据えられた可能性がある。一つの仮説として提示しておきたい。

 寒河江遺領はその庶族へと相続されたが、東根・上山などでは、元領主の在地家臣の内でも大身の者をその後釜に据えた。また、小国の細川氏の遺領は蔵増安房守へと与えられ、その後安房守は小国氏を名乗った。白鳥氏のように遺領を蔵入地とした例も存在するものの、基本的に、義光は攻略した地域を改めて新領主へ安堵する事によって大名(=義光)との関係を再定義し最上家領国へ取り込みながらも、元々その家臣・庶族らが保持していた地縁性を領国支配の手段として使用していたのである。
<続>

(注9) 『寒河江市史 上巻』(寒河江市 1994)
(注10) (天正十八年)十月二十二日付寒河江光俊・鮭延愛綱書状(「色部文書」)


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【里村紹巴/さとむらじょうは】 〜義光の連歌の師〜
   
 義光が桃山時代を代表する連歌作者だったことは国文学者の間で広く知られているが、彼が師と仰いだのは里村紹巴(1524〜1602)だった。義光より22歳年上である。紹巴のことは、歴史辞典類や文学史の書籍類に詳細に記されているので、ここでは特に最上家との関係を書いてみる。
 文祿2年(1593)2月、義光は秀吉の朝鮮出兵に従い九州名護屋の陣営にあった。たまたま京都では紹巴の一門が、春の連歌会を催そうとして、発句を最上義光からもらうこととなった。これに応じて、義光の発句と、これに和した宿老氏家守棟の脇句(連歌の第二句)が届いた。守棟も名護屋陣にあったのだろう。

  梅咲きて匂ひ外なる四方もなし 義光
  幾重霞のかこふ垣内      守棟

 春がおとずれて梅が咲き、清らかな匂いがあたり一面に満ち満ちている。ここは幾重にも霞に包まれた、のどかな屋敷の内である、というような趣である。これに、第三句として、紹巴がつづけた。

  春深きかげの山畑道見えで

 深みゆく春、かなたの山畑をめぐる細道もいつしか霞の中に消え失せている、というのである。以下つぎつぎと詠じつづけて百韻連歌(五七五 ― 七七 ― 五七五…と百句で完了)とした。2月12日の日付があり、現存する義光連歌としては最初のものである。
 名護屋・京都を使者となって往復したのは、江口五兵衛光清だったらしく、彼はそのまま連歌会に参加して五句が選び入れられた。この連歌の写本は、国立国会図書館、内閣文庫、天理大学図書館に所蔵されている。
 紹巴は、この発句がよほど気に入ったと見えて、夏になって義光が帰京した折を見はからって、改めてみずからが脇句をつくって連衆に示し、百韻に仕立てた。珍しいことをしたものだ。このときには家臣、江口光清、堀(筑紫)喜吽の名もある。この2人は義光が連歌会に参加するときよく随伴した。教養豊かで風雅を解する人物だった。
 紹巴と義光とは、早くから親密だったようだが、いつから交流が始まったかといえば、義光が京都に長期間滞在するようになった天正18年(1590)秋よりあと、特に侍従に任じられた天正19年正月以後だろう。だから、わずか2〜3年の間に、義光と紹巴は親しくなったわけだ。
 紹巴は本姓松井氏。奈良に生まれ、連歌の道にこころざして京都に出た。「これより苦しみ努めて、そのわざ妙にいたり、王侯士庶みな師と仰ぐ……その名天下にあまねし」(続近世畸人伝)という状況になったという。
 彼にかかわる有名な話として、明智光秀が本能寺に織田信長を襲う数日前(天正10年5月末)に、愛宕社で催した連歌会で、

  時は今あめが下しる五月かな     

という光秀の発句に、天下(あめがした)を奪おうという意思が秘められていたことを知りながら、さりげなく第三句を作ったという話がある。あとで秀吉からこの点をただされたそうだが、しかし、それでもって信を失うことはなかった。大坂、伏見、聚楽第に伺候し、さらに吉野の桜狩り、高野山での連歌会と、秀吉の側に侍することが少なくなかった。連歌師は、古典文学の研究者であり、連歌・短歌の実作者でもあったから、紹巴のみならず、里村家の人々はいずれも、京都を中心とする文学芸術の世界で幅広く活動していた。芸術文化に深く関心を寄せていた義光は、光彩に満ちた京都文芸界に、積極的に飛び込んだのであろう。素地は山形にいるとき相当程度は出来ていたのだろうが、妻子同伴で在京期間が長くなったことから、自然に京都文人との交流も密になったと思われる。
 さて、紹巴が義光と同座した連歌会は20回に及ぶ。
 紹巴は、豊臣秀次による謡曲注釈の事業ではリーダー格となり、聚楽第にしじゅう出入りしていた。義光もときどき伺候していたと見え、聚楽御殿で催したと考えられる連歌もある。紹巴が発句、義光が脇句を詠じた。

  写し絵の紅葉はちらぬ宮居かな  紹巴 
  牆(かき)ほの四方や風寒き音  義光 

 「御殿の襖や壁面に描かれた紅葉は、冬近くなっても散らずに宮居を飾っている。めでたいことよ」というのが発句。「御殿をめぐる高い土塀の外は、寒い風の音がしている」というのが脇句である。関白の住まいであるから「宮居」といってもおかしくない。これは文祿3年10月25日(太陽暦12月6日)開催の連歌である。
 文祿4年(1595)秀次は謀反の言い掛かりをつけられ、高野山に追いやられて自決させられる。家臣も、親しかった公家や大名も罪人とされた。義光は閉門、15歳の娘駒姫は処刑された。伊達政宗も譴責を受けた。
 紹巴も秀次の謀反謀議に加わったとされ、財産没収のうえ近江に追放された。およそ2年ほどは三井寺門前で侘び住まいを余儀なくされたが、こういう事態のなかでも、義光は恩師紹巴と音信を絶やさなかった。
 翌年の7月、義光は連歌に関する質問をまとめて紹巴に届け、教えを請うた。近江まで出向いて直接伝授を受けたこともあったようだ。紹巴のほうも、年末には義光の息子で十五歳の家親が文学好きだと聞いて、藤原定家の『詠歌大概』を自筆で書き写しプレゼントしている。紹巴と義光は、互いに深い信頼で結ばれていたのである。
 紹巴と義光の関係や業績については、連歌史研究の最高権威木藤才蔵博士の『連歌史論考』などに詳しい。
 紹巴が流謫を解かれて帰京したのは慶長2年(1597)の夏ごろであろう。8月7日の夕刻から、京都文人のトップクラスが集まり、紹巴を主賓とする連歌会が開かれた。場所は残念ながらわかっていない。
 呼びかけは興山寺の応其(おうご)。豊臣秀吉が尊敬した傑僧で、世に木食上人として知られている。同席者は細川幽斎、徳善院僧正前田玄以、准三后聖護院道澄、大納言日野輝資、新三位参議飛鳥井雅庸、山城守山中長俊、近衛家に仕えた文人北小路友益、これに紹巴の身内である昌叱、玄仍、景敏(後改名、昌琢)の3人が加わった。義光がこの華々しい席に招待されたのである。
 全巻すぐれた句の連続で、数多い桃山時代連歌のなかでも秀作であろう。義光の句は七句選び入れられたが、他に比していささかの遜色もない。それどころか内容の深さ情趣の豊かさは、他をしのぐ感さえある。時に紹巴74歳、義光は52歳であった。実作品は、『最上義光連歌集 第三集』をご覧いただくとして、ここでは略させていただく。義光と紹巴が一座した最後は、慶長5年(1600)の初夏である。日付はないが、おそらく5月上旬だろうと思われる。発句は紹巴。

  秋に散ることわりは憂き若葉かな

「明るい若葉も、秋には散るのが定め、それがもの悲しい」の意。義光は9句が選び入れられた。このときは、江口光清も堀喜吽も同席していない。
 実はこの一箇月ほど後の6月には、義光は家康の意を受けて、会津上杉討伐に向けて山形に帰らねばならないときであった。そしてこの連歌が、現在確かめられる義光連歌の最終作品ということになる。
 上杉の大軍を迎え撃ったいわゆる慶長出羽合戦(長谷堂合戦)で、光清も喜吽も戦死した。ともに連歌を楽しんだ側近2人の死に、義光はどんな感懐を抱いただろう。
 紹巴は、慶長7年(1602)4月12日に没した。慶長元年の文書に「七十三歳」と自記しているところから、年齢は79歳ということになる。
 57万石の大封を得た義光は、その後も上洛の機会は少なくなかったが、師を失い、気心知れた家臣両人を失っては、連歌を楽しむ心境には、もはやなれなかったのかもしれない。関ヶ原合戦以後、義光の連歌を見出すことはできない。
■■片桐繁雄著



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木村☆社長が予告どおり「大ふへん者」の甲冑をペーパークラフトにしました!!!





まだ歴史館に完成品がありませんので、完成品ができしだいアップします!!

乞うご期待!!


ダウンロードはこちらから >> 『米沢・戦国 武士[もののふ]の時代』
前田慶次郎甲冑ペーパークラフトの工程図(『米沢・戦国 武士[もののふ]の時代』) >> こちら