最上義光歴史館

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長谷堂合戦図屏風について ― 軍記と屏風 ― 

 近世に入ると合戦図は、時間の経過を追って場面が展開してゆく絵巻から、戦場の地形や展開する部隊を描くのに適した大画面、すなわち、屏風へと形式が変わってゆく。中には関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館)や、大阪夏の陣図屏風(大阪城天守閣)のように合戦後さほど間をおかずに描かれた図もあるが、多くは時がたってから回顧的な視点によって描かれたものばかりである。回顧的といってもそこには明確な制作の目的があった。目的は二つある。一つは家祖の軍功を図化して世間に明らかにすることである。軍功の誇示は合戦の美化につながる。もう一つは、敵味方が入り乱れて戦うために実情がわかりにくい合戦の状況を可能な限り調べて記録しようとする姿勢である。それが文章で表現されれば「軍記」となり、絵画化されれば「合戦図」となる。
 文章はより事実に近く、絵画はより遠いと思われがちだが、どちらにしても脚色は避けられない。その点で両者は同等、同格であり、事実よりも意図を読み取るように心がけたい。長谷堂合戦図は基本的に最上軍の戦勝場面のみが描かれ、落城した畑谷城は描かれておらず、援軍として参陣した伊達勢はまったく無視されている。登場する武士の数は少なく、制作依頼者は軍勢の配置には関心がなかったことがわかる。同様に地形も無視されている。紀州本や米沢本「川中島合戦図」のように軍師の指導によって制作された合戦図とは性格が異なる。
 本図は秋田の戸部一憨斎正直が元禄十一年(1698)正月に著わした『奥羽永慶軍記』に基づくとされるが、画中に記された人名を子細に検討すると同記の内容とはかなり違っている。中には軍書や記録に名前を見いだすことができない者も多く含まれており、オリジナル性が強い。かつては絵解き用の台本があったのかもしれない。また、人名が直か書きであることを考慮するならば、書き込まれた時期は制作当初と考えてよいだろう。
 向かって右隻の中心場面は前哨戦の一つで、『奥羽永慶軍記』では「鮭登茂綱会津勢を襲う」とされる段である。同記には鮭延方の軍勢として多くの武士が登場するが、画中の人名で共通するのは「鳥海勘兵衛尉・鮭延典膳頭健綱・沓沢金兵衛・新田十助・鮭延左衛門尉十五歳・鈴木藤蔵十七歳」などごく一部に限られ、しかも、同記には登場せず、かつ、出典を明らかにできない「片野對島守・田中兵部・馬淵伊織・柴田備中守・河田三右衛門尉」などの名がつけ加えられている。このうち「鮭延左衛門尉・河田三衛門尉」の二人の名は別筆である。一方、上杉勢では大関常陸介や小幡播磨守のほかに、「石坂・樋口」の名が記されている。上杉系の『越境記』を母体にした『最上合戦記』などには「石坂勘右衛門討ち死に」とある。また、「樋口」は言うまでもなく直江兼続の生家の苗字である。
 こうした戦闘場面とは別に右上隅の建物群の前に「成沢道忠」の名のみを記した部隊が描かれている。この挿話は『奥羽軍談』(佐久間昇氏の解説によれば宝暦初年に上林職広が増補)にしか見えない。同書に畑谷落城の知らせを聞いた最上義光が三之丸の飯塚口に成沢道忠らを警固に出した、とあるのに一致する。とすると、背後の建物群は三之丸の武家屋敷ということになる。だが、小山に囲まれている様子からは平城の山形城とは考えにくく、山城の長谷堂城とするのがふさわしい。予定を変更して成沢道忠を登場させたための矛盾だろうか。肝心の城主「志村伊豆守」の一隊はというと建物の下方、画面の端にあって、城との関連性が希薄である。左上隅の上杉勢本隊には「直江山城守兼続・色部修理亮・春日左衛門尉・高梨」の名があるが、『奥羽永慶軍記』に登場しない「色部修理亮」は保科家臣の向井新兵衛吉重が寛文二年に脱稿し、廷宝元年に浄書した『会津四家合考』などに見え、「高梨」については、延宝八年の自序をもつ『近代軍記』(黒川真道編『上杉三代軍記集成』所収)には第五陣に「高梨兵部」とある。
 向かって左隻は、上段に合戦全体の中心となる最上義光勢と直江兼続勢の主力部隊による戦闘が描かれている。『奥羽永慶軍記』巻三十二には最上義光をはじめとして多数の一族、郎党や仙台からの加勢が列挙されているが、図と共通するのは嫡子「最上義安(ママ)公」と「筑紫喜叶(ママ)斎」および、「川隈讃岐守(『奥羽永慶軍記』では川熊安芸守)・山邊右衛門大夫光茂(同じく山部右衛門尉)」だけである。なお、右方に見える「揚松権太夫」は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の延宝〜正徳年間に「上松権太夫」の名を見いだすことができるうえに、後ろを振り返る顔の向きからみて、敵陣に取り残された上杉方であろう。
 下段の左半は上段に続く光景で、関ヶ原の合戦で西軍が敗れたとの情報を得た上杉勢が軍を返すのを最上勢が追撃する揚面である。荷駄は別として上杉勢の殿軍が戦う姿勢を見せている点に注目したい。上杉方には「綱嶋勝左衛門・斎藤千右衛門・小倉将監・南條八郎」などの名が記されているが、いずれも『奥羽永慶軍記』には出てこない。『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』によれば、綱嶋勝三郎という者が慶長十九年の大坂出陣に加わっていることや、小倉将監宗信が直江兼続より少扶持を賜り、南条八右衛門が慶長十三年に米沢に帰参したことがわかるので、家中の何らかの情報に基づいているのだろう。
 問題は右半の、前哨戦の一つである上山合戦の場面である。ここにも出典不明の人名が認められるが、諸書では中心となるのは坂弥兵衛が穂村造酒丞を、金原七蔵が上泉主水正を討ち取る場面である。しかし、図では「金原七蔵」が「押野造酒丞」を、「坂上紀伊守」が「本多造酒丞」を討つように描かれている。この組み合わせは他に例をみない。通説に反して上泉主水正を「押野造酒丞」に変えるにはそうとうな裏づけが必要と思われるが、討ち手や死に場所に諸説あることに配慮したのかもしれない。より強調したいことは、上山合戦に坂上紀伊守を登場させるのは上杉系の『近代軍記』のみ、という点である。とりわけ『奥羽永慶軍記』では「本多造酒介」を討った者は「遠藤小一郎」となっており、図が同記に基づかないことは明らかである。
 こうした人名の不一致は本図と『奥羽永慶軍記』との関連性を疑わせる。もともと『奥羽永慶軍記』は写本が少なく、広く流布していなかったので参照した可能性は乏しい。そうであるならば、本図の描き手を著者である戸部一憨(閑)斎とする伝称もあらためて見直す必要がある。伝称の根拠は、本図を入れる箱の側面に「戸部一閑之画屏風一雙入 明治貮拾五年辰八月吉日記 湯沢町斎藤氏」、蓋裏に「戸部一閑之画最上合戦之図一雙入」とある墨書による。また、これとは別筆で蓋の前面に「斎藤五左衛門」とある。斎藤家の当主は代々五左衛門と称していたが、遅くとも安政二年までに「左太夫」と名乗りを変えている。もし、図と箱が一体のものであるならば、屏風は江戸時代末には現在の所蔵者のもとにあったことになるが、筆者の伝称がそこまでさかのぼるかは不明である。
 戸部一憨斎が絵を描いたことは戸部家に「戸部弌憨」の印章をそなえた水墨画の「船子夾山図」が伝わり、地元の湯沢市や横手市に涅槃図が三幅現存することから事実である。ただし、いずれも仏画、禅機図といった宗教画に画題が限定されていることに注意したい。なお、やはり戸部家に伝わり、一憨斎筆とされる源平合戦を描いた屏風は彼より早い時期の職業絵師の手になるもので、同人の作品ではない。「長谷堂合戦図」の筆致には町絵師らしい手慣れたところがあり、一憨斎の余技になるとは考えられない。その単純化された樹木や山野の表現には板本挿図、人物には初期の役者絵からの影響が認められる。一般に町絵師の作品は制作年代の判定が難しいが、上限は宝永四年(1707)十二月に亡くなった一憨斎の晩年に重なる可能性がある。だが、彼が亡くなる直前の同年四月に描いた湯沢市・善龍寺の涅槃図の老筆ぶりと比べると「長谷堂合戦図」の筆致は若々しく、同じ人物の手になる可能性はない。一方、下限は十八世紀中頃といったところだろう。
 実は、本図が長谷堂合戦を描いた図であることが判明したのは、湯沢市の文化財としてその存在が世に知られるようになってからで、比較的近年のことである。それまでは湯沢の小野寺氏と最上勢が戦った「有屋峠合戦図」と称されていた。いったん主題が忘れ去られていたという事実や人名に別筆が若干加わっている点は、制作主のもとを離れてからある程度の歳月と幾人かの手を経たことを物語っている。戸部一憨斎筆という伝称は本図が湯沢にもたらされた後から付け加えられたのだろう。
 本図は山形で制作されたに違いない。鮭延氏の活躍や喜吽斎の討ち死など、図の骨格は最上系の軍記に取材している。ただし、随所に独自の調査のあとが認められ、流布する軍書に基づかない、まったく独立した作品と言える。とくに上杉系の資料を積極的に取り入れている点は重要で、制作主はそれらを入手できる立場にあったらしい。どの軍記にもない、坂上紀伊守が敵将を組み伏せる場面が下段の中央に描かれている点に注目するならば、合戦後に長谷堂城主となった坂(坂上)紀伊守光秀ゆかりの者を制作主として考えるのも一案だろう。興味深いことに、坂氏一族には最上家改易後に上杉藩士となった者がいる。
(本文を草するにあたっては斉藤茂美氏、戸部尚武氏、善龍寺御住職の多大なご協力を得ました。皆様に感謝します。)

■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�16」より


【長谷堂合戦図屏風 斉藤茂美氏蔵】


【右隻】


【左隻】

※長谷堂合戦図屏風の詳細についてはこちらをご覧ください>>こちら

関ヶ原合戦と最上義光 ― 義光宛家康書状を読み解く ―

【はじめに】
 今年(西暦二〇〇〇年)は、関ヶ原の戦いからちょうど四〇〇年ということで、関ヶ原の戦いに対する関心の度が高くなっている感じがする。そこで、″東北版・関ヶ原″などといわれる長谷堂城の戦いにからめ、そのときの最上義光の動向を追いかけてみたい。
 周知のごとく、家康は、関ヶ原の戦いを前にして、諸大名に実にたくさんの書状を出しており、慶長五年(一六〇〇)に入って、戦い直前九月十四日までの分だけでも一六九通を数えている。書状の内容は、恩賞を約したものもあれば、上方での戦況を報じたものもあり、作戦上の指示を与えたもの、さらには東軍へ誘ったものなどまちまちであるが、これら政治工作、すなわち、根まわしが進められたことを意味する。
 そこで、ここでは、家康から最上義光に宛てられた書状を通して、義光が、家康の考える大きな関ヶ原戦略の中で、どう位置づけられるのかを見ていくことにしたい。なお、書状については読み下しにして引用した。原文は、中村孝也編『徳川家康文書の研究』中巻にあたっていただきたい。

【第一報 七月七日付】

 急度申し入れ候。仍って会津表出陣の儀、来る廿一日に相定まり候。その表の衆、同心有り、御参陣有るべく候。然者、最寄(前カ)申し候如く、北国表にて北国の人衆を相持ち、会津へ打ち入らるべく候。猶、津金修理亮・中川市右衛門申し達すべく候。恐々謹言
(慶長五年)七月七日   御諱御判(徳川家康)
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「古文書集」十)

 家康は、六月十八日、伏見城を発し、会津討伐に向かった。「五大老」の一員であるにもかかわらず、上杉景勝が会津に引っこんだまま、領内の軍事強化を進めていることを、「豊臣家に対する謀反」と判断したためである。もちろん、家康の腹の中には、畿内を留守にすることによって、石田三成の挙兵を誘うという思惑もあった。
 七月二日に江戸城に入った家康が、七日付で最上義光に出した書状がこれである。ちなみに、会津攻めにあたって家康が定めた部署はつぎの通りである。
 
 白河口   徳川家康・秀忠および東海・畿内の大名
 仙道口   佐竹義宣
 伊達・信夫口 伊達政宗
 米沢口(最上ロ)最上義光と仙北(最上川以北)の諸大名 
 津川ロ(越後ロ)前田利長・堀秀治・同直寄・村上義明・溝口秀勝

 七日付書状に、「猶」としてみえる津金修理亮と中川市右衛門の二人は、家康の家臣で、このとき、使者となって山形に赴いている。もっとも、この二人は、単なる使者ではなく、家康から最上家に送りこまれた軍監のような立場だったのではないかと思われる。というのは、同じ七月七日付で家康がこの二人に宛てた覚書が「書上古文書」にあり、そこに、会津へ攻め入るときには義光を先手とすること、戦いになったときには兵糧を義光から借りることなどが指示されているからである。
 そして、家康は、予定通り、七月二十一日に江戸城を出陣し、会津攻めに向かった。ところが、二十二日、二十三日と軍を進める内に、三成挙兵が次第にたしかな情報として入ってくるようになり、二十三日、下総の古河に着いたところで、進軍中止を指令した。それを物語るのがつぎの義光宛第二報である。

【第二報 七月二十三日付】
                   
 急度申し入れ候、治部少輔(石田三成)・刑部少輔(大谷吉継)才覚を以って、方々に触状を廻らすに付て、雑説申し候条、御働の儀、先途御無用せしめ候。此方よりせ重ねて様子申し入るべく候。大坂の儀は、仕置等手堅く申し付け、此方は一所に付、三奉行の書状披見の為これを進せ候。恐々謹言
(慶長五年)七月廿三日   家康御判
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「譜牒餘録後編」四)

 この文書は、家康が会津討伐中止を指令した一番早いものである。このあと、二十四日に家康は下野小山(おやま)まで進み、二十五日、有名な「小山評定」を開き、そこで、反転して畿内にもどり、石田三成を討つ作戦を決めている。そして、家康自身、二十六日に小山の陣を引き払い、八月五日に江戸城にもどるわけであるが、その間、諸大名に精力的に書状を出している。つぎの第三報もその一つである。

【第三報 七月二十九日付】

 急度申し入れ候。仍って上方奉行衆一同の者、鉾楯の由申し来るに付て、会津の閣、先ず上落せしめ候。併、中納言(秀忠)差し置き候条、彼表働の儀を相談尤に候。猶、後音の時を期すべく候。恐々謹言
(慶長五年)七月廿九日   御諱御判(徳川家康)
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「古文書集」十)

 ここで注目されるのは、会津のことはひとまずさしおいて、まず上方にもどり、三成を討つことにしたことを義光に伝えていることと、「秀忠を押さえとして残したので、今後のことは相談するように」といっている点である。
 つまり、七月二十九日の時点では、家康は秀忠を残すつもりでいたことがわかる。事実、秀忠軍が下野宇都宮を陣払いしたのは八月二十四日であった。そのあと、代わったのが結城秀康ということになる。
 江戸城にもどった家康は、何と二十六日間もの間、動こうとしなかった。その間、東軍先鋒として福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが東海道を西に攻めのぼり、八月二十三日には岐阜城を攻略している。家康から義光への第四報はそのことにかかわるものである。

【第四報 八月二十七日付】

 急度申し入れ候。去る廿三日午の刻、岐阜の城乗崩し、中納言(織田秀信)兄弟一人も洩らさず撫切申す由注進候条、書状持たせ進せ候。政宗より参るべく候。我等父子も出陣申し候間、万事そこもと御行仰せ付けられ給うべく候。委細(今井)宗薫申すべく候間、具にする能わず候。恐々謹言  
(慶長五年)八月廿七日   家康御判
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「譜牒餘録後編」四)

 家康はこのように、東軍先鋒の戦いの模様を義光に報じており、翌日にも、第五報(八月二十八日付)で三成らが美濃に出てきたことを伝えている。

【おわりに】
 九月十五日の関ヶ原の戦いを前にした義光宛家康の最後の書状は九月七日付で、これが第六報ということになる。
 そこでは、三成らを大垣城に「追籠」たことを報じ、「其口、政宗と相談し、油断無き行等、分別尤に候」といっている。
 おそらく、この第六報が義光の手もとに届く前のことと思われるが、上杉景勝の老臣直江兼続が最上領へ侵入してきた。九月十三日には、山形城の支城である畑谷城が攻められ、城将の江口五兵衛父子が殺され、水原親恵率いる上杉軍はその勢いで長谷堂城を包囲しているのである。
 上杉軍の猛攻を支えながら、長谷堂城が破られた場合、本拠山形城も危なくなると判断した義光は、長子義康を政宗の本陣北目城に人質として送り、援軍の要請をしている。
 結局、政宗は自分の名代として伊達政景を援軍に送り、最上・伊達連合軍有利な状況となった。その長谷堂城の攻防戦の最中、具体的には九月三十日の朝といわれているが、関ヶ原での東軍勝利の報が最上陣営に届けられ、ついに、十月一日、長谷堂城攻囲の上杉軍が撤退したのである。

■執筆:小和田哲男/静岡大学教育学部教授・文学博士(2000年執筆当時)・静岡大学名誉教授 (2009年) 「歴史館だより�7」より

【鮭延越前守秀綱/さけのべえちぜんのかみひでつな】 〜重文の仏像にかかわり?〜

 不思議な仏像が一体、真室川町内町の薬師堂にある。
 奈良時代か白鳳期の作かと思われるブロンズの薬師如来像で、国指定重要文化財となり、今は特別に建てられたお堂のなかに安置されている。
 いったいなぜ、こんなにすぐれた仏像が山形県内にあるのか。すくなからず謎めいている。
 16世紀の終わりごろ……。
 この付近を領していたのは、鮭延(真室川)城主、佐々木典膳という武将であった。彼は、源平合戦のむかし宇治川の先陣で名を挙げた近江源氏の名門、佐々木高綱の子孫であるという誇りをもって、義光に従おうとしなかった。
 義光は大軍をさし向けて鮭延城を攻撃し落城させたが、武勇才知にすぐれた典膳を惜しんで、庄内に逃げ去るのを見逃してやったという。典膳はこの事実を後で知り、その温情を忘れず、後年最上義光に帰参したと軍記物語類にはある。
 義光はかれに1万千5百石という高禄を与え、鮭延越前守秀綱と名のらせた。その後の秀綱は、義光の側近として知謀才覚を発揮、なかでも慶長5年の上杉軍山形侵攻に際しては、長谷堂城への応援軍としてはなばなしい活躍ぶりを見せる。
 泰平の世になってからは、鮭延城(真室川町)を居城として、町づくりに尽力、現山形県最上郡北部の発展に大きな成果をあげた。
 嫡子、左衛門尉も父にまさる文武すぐれた人物だった。15歳で長谷堂合戦に出陣、その戦いぶりは「諸人ノ耳目ヲ驚カス、異国ハ知ラズ、本朝近代ノ弓矢ノ少年ニシテ是程ノ武功ハイマダ聞カザレバ…」と『奥羽永慶軍記』は絶賛している。だが、十八歳で亡くなった。以後、秀綱は妻をめとらなかったのであろう。血筋は絶えたという。
 義光没後の最上家は、家親の早世に端を発し、少年源五郎家信が家督を相続するに至って、重臣たちの離反がはじまる。
 「家信は器にあらず、山野辺光茂を主君と仰ぐべし」と主張した旗頭が秀綱であった。これに対して「若年といえども、源五郎家信こそ正統」と、一族の松根備前守光広らは主張した。最上の家臣団は、二つに分裂してしまったのである。
 抗争は幕府の審問に付される。「幼君を補佐して最上家を全うせよ」という幕府閣僚の助言を、鮭延秀綱をはじめとして、山野辺・楯岡らは受け入れなかった。その結果、元和8年8月、最上家は57万石を没収されて、近江・三河1万石へ改易となり、重臣たちはそれぞれ各地の大名に預けられた。
 秀綱はこの時、審問の中心となった土井大炊頭利勝(当時佐倉、のち古河城主)に預けられた。実は、駿河大納言忠長から仕官の誘いがあったとも、彦根井伊家からの招きがあったともいわれ、秀綱の人物力量は広く諸侯の知るところとなっていたのである。
 土井家では彼を優遇して、古河に移転した後も大堤庄5千石を与えた。秀綱はそのうち3千石を出羽から連れていった譜代の家来18人に分け与えた。これが話題となって、越前は知行すべてを家来に与え、自らは清貧に甘んじ、家来たちの施しを受けて晩年を送ったという話にもなった。
 物欲に恬淡たる武人の生き様というべきか。戦国時代の荒波をくぐって生き抜き、泰平の世になってからも固い信念をもって、人生を全うした出羽の英傑の一人といえるだろう。
 正保3年(1646)6月21日没。84歳。菩提寺は古河市鮭延寺。秀綱の屋敷跡に建立され、その名もゆかりの故地「鮭延」にちなんだものだ。この寺は、反骨の儒学者熊沢蕃山の墓があることでも知られている。
 真室川町では、秀綱を町発展の恩人として顕彰している。また、同町正源寺は、秀綱父子を丁重に弔い、境内奥の二人の墓はいつも清浄に保たれ、香華の絶えることがない。
 さて、例の仏像、真室川にあるからには、名門の武人、鮭延秀綱が持ってきたものにちがいない……地元の人々がそう考えるのも、かれに対する敬愛の念の表れだろう。
■■片桐繁雄著

【坂紀伊守光秀/さかきいのかみあきひで】 〜最上家臣団のエリート官僚〜 

 戦国武将は、おおむね戦における手柄や活躍、武勇を誇示する逸話などによって名を知られ、評価もされがちだ。たしかに、武勇こそが戦国の世を生き抜く武士の本分ではある。
 しかしながら、大名をささえる家臣団として見たとき、戦上手ばかりでは決してバランスのとれた組織とはいえない。
 坂紀伊守光秀(あきひで)。
 慶長6年、志村伊豆守光安が酒田城主として栄転した後の長谷堂城主。1万3千石。最上家では十指に入る重臣でありながら、当時の記録にも後代の物語にも、華やかな戦歴はなく、逸話も残されていない。
 長谷堂合戦に際しては、後詰め部隊(援軍)の中に彼の名が見えている。当時は成沢城を預かっていたとする記録もあるが、不確かだ。彼の足跡をみると、武人というよりもむしろ政治外交の面にすぐれていたようだ。
 関ケ原戦後、最上氏と秋田氏が戦陣参加の時期をめぐって議論になったことがあった。
このとき、主君義光が徳川家康といっしょに忍(おし)へ鷹狩りに出ていたので、最上側の代表者となって秋田実季と渡り合ったのが、他ならぬ光秀であった。
 この論争のことは、秋田家の家臣が聞いた話を思い出して書き留めたもので、最上家没落後のことであるから、どうしても最上家には不利な書きぶりとなっている。そのため、坂光秀が実季から一々やり込められてしまうという内容となっている。にもかかわらず、光秀の弁舌はなかなか鋭いところを突いているように思われる。
 慶長8年3月15日、光秀は主君義光の使者となって、京都の公家山科言緒を訪問した。
 山科家は、皇室・廷臣らの公的場における衣冠装束を世話する家柄である。訪問の趣旨は、将軍家康の御前において言緒が「御取合」をしたことに対する義光からのお祝いの手紙と銀子三枚の贈り物を届けることであった。
 「使坂紀伊守也、則対顔了、食相伴了」(使者は坂紀伊守であった。そこで対面をし、食事をともにした)。
 出羽で育ったと思われる坂光秀が、礼儀作法にうるさい京都貴族の邸に参上して、きちんと用を済ませることができたのは、それなりの教養をそなえた人物だったからであろう。
 二日後の3月17日、山科言緒はこう日記に書いた。
 「最上出羽守へ一昨日のお土産に礼状を出した。坂紀伊守へも書状を遣した」
 このころ、義光は京都あるいは伏見の邸に滞在しており、光秀はその側近としてさまざまな公務にたずさわっていたことが、この断片的な記事からうかがわれるのである。
 関が原の戦いの後に、新たな最上領となった庄内地方の検地に尽力し、慶長十六年(1611)義光が寄進した慈恩寺領2千880石の検地も、光秀が責任者となって実施した。
 義光が亡くなった翌年、慶長20年(1615)正月13日、徳川家康が岡崎で鷹狩を楽しんでいたところへ、主君家親の名代として光秀が陣中見舞い行った。
 最上家からの献上品は、白鳥二、黒馬一疋、それに「いったい、どういう代物?」と、よく話題になる「最上蓼漬」一桶。光秀自身も、「子篭鮭十尺」を土産として持っていった。74歳の家康は喜んで光秀に面会し、最上家親の働きについても合わせて礼を述べたという。
 長谷堂には、自らが開基となり、その菩提寺とした曹洞宗清源寺がある。この寺に彼は田畑とともに百姓十軒を寄進して護持を図った。寺に秘蔵される「すすき図屏風」は、桃山風のりっぱなもの(山形市指定文化財)。彼自身を描いた画像は、桃山武将の同時代に描かれた肖像画としては県内唯一の貴重なもの(県指定文化財)。その表情には、温厚で知的な趣がただよう。
 彼の奥方が使用したという朱漆塗の膳椀もある。京都に上った時にでも、妻のために買い求めたのであろうか。
 元和2年(1616)4月26日逝去。年令は不明。はしなくも、徳川家康の没年に当たる。戒名「清源寺殿祀山英典公大居士」。
 ちなみに翌年3月には主君家親が亡くなり、それ以後、最上家は屋台骨がゆらぎはじめるが、光秀はそれを見ることなく亡くなったわけだ。
 光秀の妻は、志村伊豆守光安の娘だといわれ、夫亡き後は、山形城内三の丸八日町口近くに広大な屋敷をもらっている。彼女が亡くなったのは正保元年(1644)10月19日。戒名「宝正院殿実相良信大姉」。28年の寡婦としての暮らしがあったことになる。
 最上家改易の後、跡を継いだ坂光重は、上杉家に親しい人がいて、その配慮で白鷹町荒砥に落ち着き、四十間四方の屋敷を拝領してここに居住した。
 坂氏の系譜は、白鷹町と米沢市に連綿として続いている。
■■片桐繁雄著 

【志村伊豆守光安/しむらいずのかみあきやす】 〜酒田繁栄の土台をきずいた〜

 形に影の添うごとく、最上義光の側にあって出羽の統一と繁栄に尽力した家臣として、志村伊豆守光安は特筆すべき人物であろう。『奥羽永慶軍記』では、義光の柱石として、氏家尾張守守棟とともに志村九郎兵衛をあげている。後の伊豆守光安である。

 「ソノ心剛ニシテ武威ノ名顕ワレ、然モ口才人ヲクジキ、イカナル強敵トイヘドモ彼ニ逢ヒテハスナハチ降リヌ。彼等ハ皆君臣ノ礼アツクシテ、国治マリ、栄耀家門ニ及ボシ給フ」

と、まさに絶賛の対象となった人物である。
 出自は明らかでないが、成沢・谷柏・柏倉など山形周辺の郷村名を名字とする最上家臣が少なからず存在するところから、彼も漆山地区志村(山形市北部)の出であろうかと推察される。年齢も不祥。活躍の時期と没年から推して、主君義光に近い年齢だったかと思われる。
 天正5年(1577)ごろ、谷地の領主白鳥十郎長久が、義光を殺して出羽を自分の領地にしようと、中央の権力者であった織田信長のところに使者を派遣し、
「わが家こそ斯波兼頼以来、代々出羽国の守護職を務めた家柄」と、鷹と馬を献上する。
 信長は遠い出羽のことなど知らなかったから、その言い分を受け入れたという。
 伝え聞いた最上側は、放っておけぬとばかり、こちらも信長へ接触する。この時に使者となったのが、志村九郎兵衛光安だった。光安は、献上品として青鷹一居、駿馬一頭、名刀工「月山」の鍛えた鑓二十本(十本とも)ともども、最上家の系図をたずさえて上京し、信長に謁する。信長は光安に面会して、白鳥の言い分を偽りと断定、「最上出羽守殿」として返書を与えたという。
 この話は江戸時代の文献にあるだけで信憑性はとぼしいが、光安が最上家にとっていかに重要な存在だったかを物語るとはいえるだろう。
 その後、白鳥を討伐することになるが、ここでも氏家と志村の策謀と活躍が語られる。
 天正12年(1584)、白鳥十郎は義光によって誅殺される。続いて寒河江氏、天童の里見氏も、義光の制圧するところになるが、どの戦いでも志村伊豆が大きな働きをした。ついで、最上郡方面に兵を進め、鮭延越前守秀綱と戦うが、ここでも「秀綱を殺すな」という義光の意を体して、光安はその城外脱出を見逃している。
 光安が最も注目される働きをしたのは、慶長5年9月のいわゆる長谷堂合戦であろう。寄せくる上杉の大軍を向こうにまわし、長谷堂城に篭もって持久戦に持ち込み、山形の本城と町を戦火から守りぬいたのである。この戦いは、畑谷落城9月13日の翌日から始まっているが、光安は援軍として派遣された鮭延秀綱らとともに、しばしば上杉軍を翻弄した。
 9月末に、関ケ原の戦いで東軍・徳川家康側圧勝となった結末が報らされると、直江兼続のひきいる上杉勢は撤退する。この追撃戦の激烈さは、両軍あわせて2千を超える戦死者を出したことでも想像できるだろう。ちなみに、関ケ原の戦死者は、6、7千だったとされており、長谷堂合戦は、全国的に見ても、実は関ケ原につぐ大合戦だったのである。
 山形最上方の城塞のほとんどが落城あるいは空け逃げだったのに、たいした損害も出さずに長谷堂城を守り通した功績は、抜群のものだった。
 直江退去の10月1日、ここで慶長出羽合戦は事実上決着している。
 このとき、撤退した直江兼続は、大きな失態を演じた。庄内から最上に攻め入って、谷地城を占拠してここに篭もり、総大将兼続からの山形城総攻撃の命令を今か今かと待ってていた下治右衛門吉忠のところに、撤退の連絡をしなかったのである。
 吉忠とその率いる兵たちは、兼続から置きざりにされて孤立してしまったのだ。
 そこを最上の大軍が包囲する。援軍を期待できない情況でも上杉方は篭城して交戦しようとするが、義光は「次右衛門は武勇の誉れも名高き者、特に庄内のことに詳しい人物であるから、なんとかして降参させて味方にしたい」と、光安に交渉を命じる。
 夜に入って光安は、独り谷地城に入る。
 「関ケ原では西軍が大敗し、上杉の大将直江殿は会津に帰られた。貴殿一人が義を守り、数多い兵士とともに戦い死にたりとて、何の益かあるべき。義光公も貴殿を惜しみなされて、拙者を遣わされたのである。降参なされば必ず礼をもって厚く遇する」と、理を尽くして降伏をすすめた。下一族はその熱誠にうたれ、また直江が何の連絡もなく撤退したことへの反感もあって、ついに軍門にくだった。「志村という武将は、敵に対して絶対偽りを語らぬ」という相手方の高い評価も作用したらしい。
 「口才人ヲクジキ」という『永慶軍記』の記述どおりであった。
 下一族は、その後庄内尾浦城(鶴岡市大山)を落とし、翌年4月には酒田城攻略にも大きな働きを見せる。
 慶長6年(1601)、戦功を賞されて、志村光安は庄内の最上川北3万石酒田城主に大抜擢される。この石高は、最上家臣としては最上一族の本荘満茂の4万5千石に次いで第2位である。広大な平野があり、最上川口には古くからの港がある。その重要な所を、志村光安は任されたのである。下吉忠は、田川郡1万2千石大山城主となり、名乗りも下対馬守康久と称することとなる。降将への処遇として類少ない手厚い処遇といえるだろう。
 酒田の志村、大山の下。この二人が、庄内地域に数々の事績を残すこととなる。
 光安は、戦火で荒廃した酒田の町づくりに努める。町の指導者として重きをなした三十六人衆と協議し、経済活動を重視した都市計画だったとされる。強い西風、それによる災害への対策、商人職人の居住地、寺町の配置を工夫し、さらに港の機能を充実して、「羽州第一の港町」にふさわしいものとした。
 城も当然復旧した。土塁のなごりは、東高校の敷地に残っている。城内に祀られていた山王宮を移建して、酒田町の鎮守とした。今の日枝神社である。長谷堂城主時代に菩提寺だった曹洞宗清源寺から峰岩呑鷲和尚を招き、新たに青原寺を建立した。
 酒田繁栄の土台は、志村光安によって固められたといってよいだろう。
 慶長8年、義光は新たな領地となった庄内の二つの重要拠点、酒田東禅寺を「亀ケ崎」、大宝寺を「鶴ケ岡」と目出度い名に改めた。庄内の末永い発展を願ったのである。
 最上家では、慶長17年までに庄内の検地を完了したが、並行して古来の神社仏閣の復興にも力を入れた。これにも、志村伊豆守が大きくかかわっている。
 慶長10年、鶴岡市の金峯神社本社、13年、同釈迦堂、羽黒山五重塔などの大規模な建造事業を差配したのが、光安だった。下対馬守もいっしょに協力したことが、残る棟札から知られる。
 光安の人柄がよく表れた手紙がある。年次未詳、10月3日付。家普請をしている家来四人にあてたもので、
 「壁の下地は念入りに、どうせなら台所も造れ。風雨のひどい時分で大変だろうが、しっかりやれ。大工衆にもご苦労と、申しつたえてくれ」という内容である。
 具体的な状況が今ひとつはっきりしないが、工事にたずさわる大工衆へも、思いやりを見せていることは読み取れる。
 慶長14年かと推定される「用度帳」断片に、二月二十日「(銀)拾匁は上方へ点取りに代金として」、二月三十日「四十三匁は、しょふたく(里村昌琢)へ御音信」と記された部分があるそうである(川崎浩良「山形の歴史」345p)。「点取り」とは、批評を受けること、「御音信」とは、ここでは「おみやげ」ぐらいの意味であろうか。最上一統の気風として、光安もまた、連歌をたしなんでいたらしいのである。
 天童市若松観音堂に、武人画家として高名な郷目貞繁筆の「板絵著色神馬図」(重要文化財)がある。永禄6年(1563)寄進のものだが、その余白下部に「志村九郎・・」という落書が見える。天童攻めを終えた天正12年(1584)後のいつの日か、参詣した光安が、なにげなく筆をとってわが名を書き付けたのであろう。
 慶長16年(1611)8月7日没。主君に先立つこと3年である。年令不明。その後を九郎兵衛光惟がついだが、慶長19年6月1日、鶴ケ岡城下において一栗兵部に襲殺された。その係累と思われる人物が安藤対馬守へ預けられ旨の注記が『最上義光分限帳』に見えているが、詳しいことはわからない。
 妻は元和年間には健在だったと見え、『山形城下絵図』三の丸南東部に「志村伊豆守後室」の屋敷があった。僚友であった坂紀伊守光秀の後室も近くに住んでいた。最上家重臣の妻たち、夫に先立たれた二人の女性の間に、どんな交流があっただろうか。
 酒田青原寺の裏庭に立つ古風な二基の五輪等が、志村伊豆守夫妻の墓である。
 彼が領した飽海郡遊佐町、庄内平野の北はずれ、鳥海山の裾野に落伏(おちぶし)の小さな集落がある。集落の東台地には曹洞禅の古刹永泉寺(ようせんじ)がある。伽藍の間を行くと、奥まった木立のなかに、一基の石造九重塔が建っている。風化した塔の四面には、「奥大日本出羽州□□□君侯前豆州太守為天室良清公大禅定門 士卒等謹就于永泉精舎建立石塔一尊以供養…」の刻まれているというが、実物からはなかなか読み取り難い。
 彼を慕う家臣たちが建立したもので、山形県文化財に指定されている。
■■片桐繁雄著 

常設展示の一部で慶長出羽合戦をテーマに慎ましやかに公開している資料のなかに「慶長鎮東軍鑑」(山形県立博物館蔵)という冊子があります!!

「最上義光物語」や「最上合戦記」とは異なり第三者的な見方で慶長出羽合戦を叙述していて、直江兼続や石田三成の出自の他に、上杉家臣団の合戦後の動向なども記されています!!




さらに前田慶次郎の有名な逸話の数々も記され、その中に「大ふへんもの」の旗指物の記載をみることができます!!



そして…

このたび、米沢の田村さんから前田慶次郎の旗指物が寄贈されました!!



田村さんは前田慶次郎とともに長谷堂合戦の撤退戦で殿を務めた田村宮内少輔のご子孫とのこと!!

田村さんのご好意に感謝申しあげます(礼)

さて…慶長出羽合戦も間もなくです!!
人気沸騰中の前田慶次郎の登場シーンは果たしてあるのでしょうか…!?

※「慶長鎮東軍鑑」の公開は2009年8月31日までです!!