戦国観光やまがた情報局

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 直江兼続は、永禄3年(1560)越後国魚沼郡坂戸城下(現・新潟県南魚沼市)にて、坂戸城主長尾政景の家臣、樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれました。幼名は与六といい、元服して兼続(樋口与六兼続)と名乗ります。
 与六の利発さに目を留めた、政景の正室で上杉謙信の実姉でもある仙洞院の推薦により、政景の次男喜平次(のちの上杉景勝)に小姓として仕えるようになりました。兼続6歳、景勝11歳のことといわれ、これ以後、兼続が死ぬまでこの主従関係は続きました。
 その後二人は春日山城(現・新潟県上越市)に移り、そこで謙信から様々な薫陶を受け、上杉の「義」の精神を受け継いでいくようになります。

 天正6年(1578)、謙信が急な病により没すると、上杉家の家督をめぐる争い、御館(おたて)の乱が起こります。兼続はよく主を支え、景勝方は勝利を収めます。この時の功績により、兼続は21歳の若さで家老に抜擢されました。
 天正9年(1581)、御館の乱の論功行賞をめぐるいざこざに、上杉家重臣の直江信綱が巻き込まれ死去するという事件が起こると、上杉家中の名門である直江家が途絶えるのを惜しんだ景勝は、直江の名跡を継ぐよう兼続に命じます。
 兼続は命に従い、信綱の死去により未亡人となった、3歳年上のお船(おせん)と夫婦となり、直江家を継いで与板城(現・新潟県長岡市)の城主となって、名乗りも直江兼続と改めます。

 2年あまり続いた御館の乱では、謙信時代に保っていた領土の一部を失うなど、上杉家は勢力を衰えさせてしまいます。この状況のなか、天下統一を目指す織田信長は、加賀(石川県南部)から能登(石川県北部)・越中(富山県)へと軍勢を進めており、さらには、北越後の新発田重家と手を結び、上杉家に対し反乱を起こさせます。
 天正10年(1582)、織田軍は武田領への侵攻を開始し、たったひと月あまりで武田家を滅亡に追い込みます。続いて織田軍は、支配下に治めた旧武田領からも越後への侵攻を開始し、越中、信濃(長野県)、上野(群馬県)から越後を包囲しました。
 兼続も景勝に従い、各地での防衛戦に出陣しますが、多方面から押し寄せる敵軍に、しだいに追い詰められていきます。ここに上杉家は存亡の危機を迎えることになりました。

 ところがこの時、織田家重臣の明智光秀が主君の信長に謀反を起こし、京都の本能寺にて信長は命を落とします。主君を突然亡くした織田軍諸将は、越後への侵攻を取りやめ、それぞれ自分の領地へと引き上げていきました。この本能寺の変により、上杉家は危機を脱し、態勢を整えることができたのでした。
 謀反を起こした光秀は、織田家重臣の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に討たれ、織田家筆頭家老の柴田勝家と秀吉との間で、信長の後継者争いが起こります。景勝は、秀吉と同盟を結び、北陸に勢力を張る勝家と対峙します。この同盟交渉で手腕を発揮したのが兼続でした。

 秀吉が勝家を討ち破り、天下の形勢が秀吉に大きく傾くと、秀吉は朝廷から関白の叙任を受け、豊臣の姓を賜るなど、着々と天下人としての地盤を固めていきます。その秀吉から上洛要請が来ると、景勝はこれを受け入れ、天正14年(1586)、兼続ら重臣とともに、初めての上洛を果たします。
 これ以降、兼続は秀吉側近の石田三成をはじめとする豊臣政権の要人や、天下に名の聞こえた武将達と交流を深め、上杉家に直江兼続ありとの評判を高めていきます。
 天正16年(1588)の2回目の上洛の際には、兼続は朝廷から従五位下・山城守(じゅごいのげ・やましろのかみ)に叙任されました。また、上杉家では家老職が廃止され、兼続が執政として政務全般を取り仕切る体制となりましたが、兼続は驕ることなく主君の景勝を支え続け、忠義を貫き通します。

 兼続は、背丈が高く容姿秀麗、言語さわやかで弁舌に巧みであったといわれています。また、漢詩の創作を得意としており、のちに日本初の銅活字印刷といわれる「文選(もんぜん)」の出版を行うなど、当時一流の文化人でもありました。
 現在国宝として指定されている、宋版「史記」「漢書」「後漢書」をはじめ、たくさんの書籍を所有していた愛書家としても知られ、文禄の役に参陣して朝鮮に渡った際には、自軍に略奪行為を厳しく戒めるとともに、貴重な書籍が戦火により失われるのを惜しみ、書籍の保護収集に努めて日本に持ち帰ったといわれています。

 秀吉は、兼続を「天下の政治を安心して任せられるのは、直江兼続など数人しかいない」と評したとされ、景勝が越後から会津120万石に移封の際には、陪臣(ばいしん:家臣の家臣)である兼続に対し、直々に米沢30万石を与えています。これに対し兼続は、一家臣に過ぎない自分に30万石は多すぎるとして断り、6万石で米沢城の城主となっています。

 慶長3年(1598)、秀吉が病没すると、次に台頭してきたのは徳川家康でした。家康は天下人としての地位を固めるべく、まず加賀の前田家に謀反の疑いをかけ屈服させると、次に上杉家に矛先を向けてきました。
 慶長5年(1600)、領国に戻って軍備を整えていることについて、申し開きのために至急上洛せよと、家康が詰問状を送りつけてきたのに対し、兼続は堂々とした反論の書状を送ります。これが世に名高い「直江状」です。
 返書を読んだ家康は、激怒したといわれており、すぐさま上杉征伐の軍勢を招集します。この征東軍は総勢10万あまりに及ぶ大軍で攻め寄せ、下野国小山(現・栃木県小山市)までやって来ます。

 ところが、決戦開始も時間の問題となったころ、大坂にて石田三成らが挙兵したとの報告がもたらされます。
 征東軍では軍議が開かれ、三成率いる西軍との決戦に赴くことが決まると、西に進路を転じ退却を始めました。これぞ家康を討つ絶好の機会と、兼続は総攻撃を主張します。ところが景勝は、退きさがる敵の背中を討つのは、上杉の「義」に反するとして動きません。兼続もやむなく主君の命に従いました。

 このあと兼続は、東軍に属する山形城主の最上義光を攻めました。不戦の約束を破り、上杉領であった庄内地方に攻め込む姿勢を見せたからです。怒涛の進撃を開始し、山形城から南西の支城・長谷堂城を取り囲み、落城寸前までに追い込みますが、関ヶ原での西軍・三成の敗報を受け、米沢領への撤退を余儀なくされます。
 この撤退戦では、総大将である兼続自らが殿(しんがり:引き上げの際の最後尾の部隊)を務め、伏兵と鉄砲隊を用いて、少数の軍勢で追撃の大軍を防ぎきり、自軍の被害を最小限度に止めました。のちに敵将である義光や家康も賞賛するほどの見事な戦いぶりでした。

 関ヶ原の戦い後、兼続は上杉家の生き残りのために奔走し、結果、上杉家は取り潰しを免れ、米沢30万石に削封となります。家臣の知行(給料)はそれぞれ3分の1に減り、大人数が一挙に米沢に引っ越してきたために、住む家さえない有様でした。
 兼続も6万石から1万石に禄を減らし、しかもそのうち半分を自分の家臣達に分け与えたため、自身の取り分はわずか5千石でした。この状況を打開するため、兼続は自ら先頭に立って殖産興業策を指揮します。
 米沢を流れる松川(最上川)の治水事業を行って町の基盤を整え、身分の低い士族にも開墾に当たらせ農地を拡大したほか、青芋(あおそ)、紅花、漆、うこぎなどの作物を奨励するなどして、米沢藩の基礎を築き、藩政を安定に導きました。
 これらの政策は、のちの米沢藩9代藩主、上杉鷹山の改革の手本ともなり、現代まで兼続の功績が評価されています。

 また一方で、蔵書家でもあった兼続は、その書籍を用いて学問所「禅林文庫」、のちの藩校興譲館を創設し、人材育成にも力を注いだほか、白布高湯の地には、技術者を招いて鉄砲製造工場を設け、家臣達に射撃訓練を奨励しました。
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、上杉軍は鉄砲隊を用いて奮戦し、めざましい活躍で家康をはじめとする諸将から賞賛されています。

 元和5年(1620)、兼続は江戸の屋敷で死去し、米沢の徳昌寺に葬られました。享年60。後に林泉寺に改葬され、墓は現在も奥方であったお船の方の墓と並んで建っています。また、兼続所用として有名な「愛」の前立の兜は、上杉神社稽照殿(けいしょうでん)にて観ることができます。

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