戦国観光やまがた情報局

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大河ドラマ「天地人」の主要キャストが発表になりました!
樋口兼豊…高嶋政伸さん
お藤…田中美佐子さん
樋口与七…小泉孝太郎さん
泉沢久秀…東幹久さん
上杉景虎…玉山鉄二さん
華姫…相武紗季さん
菊姫…比嘉愛未さん
以上です。
直江兼続…妻夫木聡さん
上杉景勝…北村一輝さん
上杉謙信…阿部寛さん
お船の方…常盤貴子さん
初音…長澤まさみさん
仙洞院…高島礼子さん
本日6月3日(火)15時から、大河ドラマ「天地人」の新たな出演者の発表会見が行われます。
今回は、10数名の出演者が発表されるそうです。情報が入り次第、このページにてお知らせします。
平成20年5月30日(金)、置賜総合支庁講堂におきまして、大河ドラマ「天地人」関連事業説明会を開催いたしました。

山形県推進協議会及び米沢市推進協議会の取組状況について、
観光関係者をはじめ、一般の方々にも広くお知らせするという目的で開催し、
(1)NHK関係の動き及び県推進協議会事業(イベント・PR事業)について
(2)米沢市推進協議会事業(天地人博(仮称))について
(3)ロゴデータ等の使用について
などの項目を説明させていただきました。

置賜地域を中心にお声がけをしたところですが、約150名もの方々にお集まりいただき、
関心の高さをあらためて認識した次第です。
状況の進展により、次回開催も予定しております。どうぞよろしくお願いいたします。
平成20年5月25日(日)、『駅からハイキング「ドラマチック戎市」と「直江兼続」』が開催されました。今回の参加者は約80名。米沢駅を出発して、直江兼続ゆかりの史跡を巡りました。歩いて見て回ることで、普段は見落としがちな城下町の趣きを感じることができます。先導役は、今回のプランを企画した米沢商業高校の生徒さんです。
平成20年5月23日(金)、山形市のグランドホテルにおきまして、大河ドラマ「天地人」の原作者である火坂雅志氏の講演会が開催されました。先月16日の講演会に続き、山形市では今年度2回目となりました。
主催の山形経済同友会の方々をはじめ、一般参加者の皆さまなど約280名が集まり、今回も会場は満員状態でした。
永禄3年(1560)〜慶長5年(1600)
 近江国石田村の出身。近江長浜城主であった羽柴秀吉に見出され、小姓として仕えた。その後、秀吉に従い各地を転戦、戦功があった。天正13年(1585)近江水口4万石の城主となり、文禄4年(1595)には、近江佐和山19万4千石の城主となった。
 豊臣政権の中枢にあって、諸大名との取り次ぎ役や検地奉行を務め、遠征時には後方支援を担当するなど、行政官僚として手腕を発揮した。上杉景勝の上洛に際しても交渉の窓口となり、書状のやりとりを行った。この時、上杉側の窓口であった直江兼続とは、盟友関係を強めていった。
 慶長3年(1598)秀吉が没すると、五大老の一人である徳川家康が台頭。三成と険悪な関係にあった武断派の武将達を取り込み、次の天下人を狙う動きに出たため、これと対立する。
 慶長5年(1600)家康は上杉征伐のため会津へ出陣、これを好機と判断した三成は、毛利輝元を総大将として上方で挙兵した。上杉征伐の途上から反転してきた家康率いる東軍と、美濃国関ヶ原にて決戦に及んだものの、味方大名の寝返りに遭い敗北。捕らえられて、京六条河原で斬首された。享年41。
天文6年(1537)〜慶長3年(1598)
 尾張国の百姓の子として生まれ、天下人にまで上りつめた立身出世の代名詞的な人物。
 織田信長に仕えて頭角を表し、本能寺の変で信長を討った明智光秀を破って、信長の後継者として名のりを上げる。北陸に居城を持っていた柴田勝家と後継を巡って対立。同じく勝家と対峙していた上杉景勝と同盟を結んだ。
 天正11年(1583)越前北ノ庄城にて勝家を攻め滅ぼすと、信長後継の地位を確立、毛利家、長宗我部家、上杉家、徳川家、島津家などを次々と臣従させた。
 天正18年(1590)小田原征伐を行う。これに伊達政宗、最上義光ら奥州諸大名も参陣し臣従、北条家も降伏し、天下統一を成し遂げた。
 慶長3年(1598)上杉景勝を奥州の要地である会津120万石に加増移封。その際、才能を高く評価していた上杉家執政・直江兼続に出羽米沢30万石を与えたといわれている。この年、景勝ら五大老に後事を託して伏見城で没した。享年62。
米沢市「天地人推進プロジェクト」
“直江兼続”マスコットキャラクター
第2次審査は皆様の投票によって10点にしぼります!

投票はこちら米沢市ホームページ

米沢市の天地人推進協議会で
3月から募集していた“直江兼続”マスコットキャラクター。
応募作品438点の中から、第1次審査により候補作品が
以下の20点に決定しました!
2次審査は皆様の投票によって行い、作品を10点にしぼります。
投票によって選ばれた10点を最終審査し、
キャラクターを決定いたします。
ぜひ皆様の1票をよろしくお願いします!
投票者には抽選で記念グッズのプレゼントもあります。

詳しくは米沢市ホームページをご覧下さい。

投 票 要 領
主催:大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会
投票期間
2008年5月21日(水)〜2008年5月30日(金)
投票方法
E-mail、市内に設置する投票箱にて受け付けます。
E-mailの場合、件名を「キャラクター投票」とし、
本文にキャラクター番号、〒住所、氏名、電話番号を記入の上、
下記までお送りください。
E-mail:tenchijin@city.yonezawa.yamagata.jp

*投票は、1人につき1票。
(2票以上の投票が確認された場合は、
その方の投票は無効とさせていただきます。)

投票箱設置場所
米沢市役所 1階総合案内
JR米沢駅構内観光案内センター アスク

☆プレゼント☆
投票者の中から、抽選で30名様に記念グッズを差し上げます。
*当選者の発表は、賞品の発送をもって代えさせていただきます。

個人情報の取扱いについて
投票により得た投票者の個人情報に関しましては、
大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会で厳重に管理し、
本投票以外の目的に使用しません。


お問合せ先
〒992-8501 山形県米沢市金池5−2−25
米沢市役所 総合政策課
TEL:0238−22−5111(内線2805/2806)

永禄10年(1567)〜寛永13年(1636)
 伊達家17代当主。米沢城主。のち仙台藩初代藩主となる。伊達輝宗の嫡男として、米沢城に生まれた。母は最上義光の妹・義姫。5歳のときに疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明。このことから、のちの世に独眼竜の異名で呼ばれることとなる。
 18歳のとき、政宗の将器を見込んだ父・輝宗から家督を譲られる。その後わずか5年の間に周辺勢力を次々と平定、天正17年(1589)には、摺上原の戦いにおいて蘆名氏を撃破、会津地方を手中に収め、南奥羽の覇者となった。
 翌年、小田原に参陣し豊臣秀吉に臣従、奥羽仕置で会津領を没収された。続いて起こった大崎・葛西一揆では、裏で扇動していたという嫌疑を掛けられ、一応無罪とされるが、伊達家伝来の所領を取り上げられ、岩出山へ移封となった。
 関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍に属し、会津若松城主であった上杉景勝の動きを牽制する役割を担った。米沢城主・直江兼続率いる上杉軍が最上領を攻めた際には、伯父である山形城主・最上義光に請われ援軍を派遣した。
 戦後、仙台開府、仙台藩62万石の初代藩主となる。寛永13年(1636)江戸にて死去。享年70。


天文15年(1546)〜慶長19年(1614)
 最上家11代当主。山形城主。対立していた父・義守が隠居し、26歳にて家督相続。有力国人領主が各地に勢力を保持していた村山郡・最上郡にあって、政略や策略を駆使して反勢力を平定、最上氏による集権体制を築き上げる。
 天正15年(1587)庄内地方へ侵攻、大宝寺氏を討ち領有化に成功するも、翌年、越後方の本庄繁長に十五里ヶ原の戦いで敗れ、支配権を失った。
 慶長5年(1600)の慶長出羽合戦では、直江兼続率いる上杉軍に攻め込まれた。義光自身は山形城本陣を守りながら指揮を行い、堅城・長谷堂城を中心に防衛戦を展開。関ヶ原の戦いにおける西軍敗報を受け、形勢が逆転すると、自ら前線へ出撃したが、上杉軍鉄砲隊の激しい反撃にあい、兜に銃弾を受けた。
 戦後、田川・櫛引・飽海の庄内3郡を加増され、57万石を領有する大大名へと飛躍を遂げた。その後は、城下町山形の整備や最上川舟運による商業振興、庄内平野の大規模開発などに尽力した。慶長19年(1614)山形城にて死去。享年69。

関連史蹟:霞城公園・最上義光騎馬像・最上義光歴史館(山形市)
享禄3年(1530)〜天正6年(1578)
 越後守護代・長尾為景の末子として、春日山城に生まれた。幼少期を春日山城下の林泉寺にて学問を学んで過ごした。14歳で元服すると、越後国内の反乱鎮圧に活躍、家臣団の信望を集める。そのため、兄・長尾晴景と対立するも、越後守護・上杉定実の仲介で、晴景の養子となり、19歳で越後守護代長尾家の家督を継いだ。
 定実には跡継ぎが無く、越後守護上杉家が断絶すると、将軍・足利義輝から越後国主の地位を認められた。また、助勢を求めてきた関東管領・上杉憲政を庇護し、のちに憲政から関東管領職と上杉家の家督を譲られた。
 信濃方面では、村上義清らの救援要請を受けて、武田信玄と激戦を繰り広げ、この戦国史上に有名な川中島合戦は五度に及んだ。また、関東地方にもたびたび出陣し、北条家と戦った。のちには、北陸方面で織田軍とも戦い、これを打ち破っている。
 天正6年(1578)春日山城内で倒れ、急死した。享年49。このため相続争い(御館の乱)が起こった。謙信の養子の二人が争い、上杉景勝が勝利を収めた。
 尊骸は、越後、会津、米沢と、上杉家の転封とともに移され、現在は米沢市内の上杉家廟所に祀られている。

米沢市西部、鬼面川西岸の高台に鎮座する神社。
古くから、置賜郡成島荘の鎮守として崇敬をあつめ、長井氏、伊達氏、上杉氏といった歴代領主によって、改築・修理が行われてきました。

伊達政宗は、八幡神社への信仰が篤かったらしく、米沢から岩出山へ移る際に、この成島八幡宮を分霊し、岩出山城内に祀りました。
後に、政宗は仙台開府にあたって、総鎮守として大崎八幡宮を創建し、大崎地方にあった大崎八幡宮と米沢から分霊してきた成島八幡宮を合祀しました。現在、大崎八幡宮社殿は国宝に指定されています。


米沢市南西部、大樽川(鬼面川)と小樽川の合流地点に位置する丘陵上に築かれた山城です。一説には伊達家統治時代の「米沢城」ともいわれていますが、通説では伊達政宗の父・輝宗が、政宗に家督を譲ったのち、この舘山城に隠居したといわれています。

天然の要害となっているため、戦時にはこの城に拠って戦う計画であったらしく、麓には伊達家臣団の屋敷町が取り巻いていました。
平時は、政務を執るのに便利な平城の米沢城、戦時は、守りやすい山城の舘山城というように役割が分かれていたようです。

上杉氏の時代となると、舘山城は使用されませんでしたが、麓の屋敷町はそのまま上杉家臣団の屋敷町となりました。

山の中腹に見えるのは、東北電力舘山発電所です。


独眼竜の異名で有名な、仙台藩初代藩主・伊達政宗は永禄10年(1567)、米沢城で生まれました。幼少期から青年期(25歳)まで米沢城を居城としていました。

政宗は、天正12年(1584)に18歳で家督を継ぎ、米沢城主となりました。天正17年(1589)には会津の蘆名氏を攻め滅ぼし、南奥羽の覇権を握ります。このとき会津黒川城(のちの会津若松城)に居城を移します。

翌天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐、その後の奥羽仕置により会津を没収されたため、約1年で居城を米沢城に戻します。
ところが、この年の冬に起こった葛西・大崎一揆を裏から扇動した罪に問われ、いちおう無罪となりますが、伊達家伝来の所領は没収となり、代わりに旧葛西・大崎領を与えられ、天正19年(1591)岩出山城(宮城県大崎市)に転封となりました。

「伊達政宗公生誕の地」の碑は、米沢城址・上杉神社参道脇と、一説に伊達家統治時代の「米沢城」とされる舘山城址にそれぞれ建てられています。


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